10話 金曜日
「海老村君昨日はどうだった?」
「昨日は神崎さんをオカズにしませんでした」
「そう。それは良かった」
神崎さんの声は、最初に会った時より柔らかくなっている気がする。
私は神崎さんと大分打ち解けられたのだろうか。
しかし、神崎さんが私を必要としなくなったら会ってくれなくなるのかも知れない。そんな不安が常に心のどこかにあった。
私はもっと神崎さんの役に立っておいた方が良いかもしれない。
「神崎さんは不幸になりたいんですよね」
「うん」
「不幸になろうとするのではなく、不幸になりたいという考えを改めるという事は出来ないのでしょうか?」
「……多分できないかな」
「そうですか」
「でも、海老村君と一緒にいる時は、別に不幸にならなくてもいいのかなって気分になるんだよね」
「私といると不幸だからですか?」
「分かんないけど」
どうやら、私は神崎さんに必要とされているようだ。
神崎さんにどう思われているかは分からないが、何となく嬉しかった。
「……海老村君ってラインとかやってる?」
「携帯端末は持っていないです」
「何で? ……言いたくないなら言わなくていいけど」
「私は自室でのんびりするのが無上の喜びなんです。携帯端末は、そんな平穏を土足で踏みにじって来ます。それが私には我慢ならないのです」
「まあ……ちょっと分かるかも」
「神崎さんは何の為にスマートフォンを持っているのですか?」
「別に。持ってるのが普通だし」
「私も持った方が良いのでしょうか」
「別にいいんじゃない。どっちでも。でも働くようになったら持ってないとまずいかもね」
「想像できないですね。社会に出るなんて」
「海老村君が働いてるのは想像付くよ。スーツとか似合いそう」
「ありがとうございます」
「……ああ、言うの忘れてたけど、今日は家庭教師来るからトンネルは無しね」
「どんな人ですか?」
「家庭教師の事?」
「はい」
「大学生の女の人だけど」
「そうですか」
「男の人じゃなくて良かったね」
そう言って悪戯っぽく笑う神崎さん。
私は軽く眉根を寄せる。
「からかわないでください」
「ごめんごめん」
ふと、鞄に両手を添えて立ち、私を見下ろす神崎さんと目が合った。
思わず胸が高まってしまう。
私は動揺を悟られないようゆっくりと視線を下へと逸らす。
柔らかく膨らんだ紺のブレザー、暖色のチェックのスカート、そして机上に閉じられた「女性の本心を見通す100の方法」へと。
「……神崎さんは、愛と性欲の違いは何だと思いますか?」
「うーん。……私は焦るのが性欲で、焦らないのが愛だと思う」
「なるほど」
「海老村君はどう思うの?」
「わかりません」
「そう」
やはり、神崎さんが私をどう思っているかは良く分からない。
しかしあまり焦らなくてもいいのかもしれない。
「じゃあそろそろ私帰るから」
「さようなら」
「じゃあね」
神崎さんは私を好きになってくれるのだろうか。分からない。
でも、私は神崎さんを好きになってしまってもいいのかも知れない。
そんな気がして来た。
それから暫く本を読んだ後、私は家路についた。
そして神崎さんをオカズにして一日を終えた。