序:「めでたしめでたし」のすぐあとに
――これが、幸せの形なのだと思った。
「――愛しているよ、エリー。俺のエリザベス」
そう言って優しく口づけてくれる夫――この国の第三王子であるジェラード=ハルディアに、私はくすくすと笑って「私もよ」と言いながらキスを返した。
ああ、なんて世界が輝いているのだろう!
愛しい夫、素晴らしい両親、心優しい侍女や侍従たちに囲まれて、私はこれからみんなと一緒に老いていくのだ。子どもができるのも時間の問題だろうし、そうしたらもっと賑やかになって楽しいに違いない。
そんなとろけそうなぐらいの幸せに浸って、私は口元を緩めたのだった。
日本という国でありふれた会社員として働いていた私、立花 恵里は、交通事故にあって視界がブラックアウトしたかと思えば、次の瞬間には魔法も精霊も神様もあるこの異世界で産声を上げていた。
生れ落ちた場所は、創世の女神を祭るハルディア聖王国という宗教国家である。その中でも王族に次ぐほどの権力を持つ大貴族のローラント公爵家の末の娘、エリザベスとして、私は何不自由なく育つことができた。
もちろん最初は自分が生まれ変わったことに困惑したし、さらには環境が大きく変わって慄いたりもした。……なにせ、一般庶民だった自分が大貴族のお嬢様だ。しかも、両親は子供である自分から見ても親ばかという言葉がよく似合う。それはそれは私をかわいがってくれていて、恥ずかしいやら嬉しいやら。
日本で過ごした記憶があるものだから、子供らしくない変な行動もかなりしていたと思う。頑張って隠そうと努力はしていたのだけれど、きっとうまくなんていってなかった。ともすれば気味が悪いと思ってもおかしくなかっただろうに、両親と兄姉たちは私を優しく見守って愛してくれた。本当に、頭が上がらない。
生まれ変わったことへの困惑が薄れて、何とか新しい生活に慣れたころ、私はやっと「これはもしやチャンスでは?」と思うことができた。
常識が違う世界とはいえ、(多分)同じ人間だ。きっと根本は変わらないはず。それならば、日本でいきていたころ、大人になってから「ああすればよかった」「この時こうしていれば」と思ったことを今回の人生ではしっかりとこなせば、幸せな人生を歩めるんじゃないだろうか。例えば小さいころにしっかり勉強していればよかっただとか、もっと家族に優しくしていればよかっただとか、こんな言動に気を付けていればよかっただとか、そんなことは数知れない。誰にでもあるような後悔で、だからこそ「人生をやり直す」だなんて夢想にふけることだってあったし、それを題材とした物語を楽しんだこともあった。……これはそれを実現できる、チャンスなのでは。
そんなことを考えた私は、嬉々としていろいろな努力をした。勉強はできうる限り頑張ったし、乗馬も武術もそれなりにたしなんだ。ダンスだってさぼらずに練習したし、若いころから美容に気を遣うことの大切さを知っていたから、自分の思いつく限りの手入れをした。
その結果、ハイスペック美少女が完成して、私は大満足し、家族の溺愛度は加速した。……ちょこっと反省するような、いややっぱり後悔はない。とても幸せだった。
ついでに、私が私の快適さのためにいろいろと日本で生きていたころの便利用品や料理レシピなんかの知識なんかを提供すれば、あっというまに家族や優秀な職人さんたちに拾い上げられて、実用レベルに整えられて広められたこともある。おかげさまで、両親の財産などとは別に、自分の稼ぎができたりして、気が付けば莫大な金額になっていてちょっと気が遠くなったのはいい思い出。
〈わたくしの、愛しい娘よ――〉
「……だれ?」
そんな順風満帆に生きていた私は、16歳の春、創世の女神様から神託を受けて、聖女となった。
聖王国での聖女とは、日本における巫女に近い存在である。神に仕え、神に祈り、時に神の依り代として儀式に参加する。また、その神の力を借りて、時折世界に影を差す「闇」を払う役割も担っていた。
私の聖女としての力は過去に類をみないほど強い、と高位の神官たちには口々に褒められた。事実、儀式のたびに私に女神様は下りてきたし、そうでない時でも言葉を交わすことだってあった。娘のように、というと大げさかもしれないが、慈しまれていたとは思う。女神様に対して、恐れ多い思いなのかもしれないけれど。
この世界の女神さまは、とても穏やかで、そして優しい女神様だった。
〈――どうか、西へ。闇が、かつてないほどの強さで、世界を覆い隠そうとしているのです〉
そんな女神さまから、助けを求める神託を受けたのが、18歳の春。
国中が、もっと言うならば世界が大騒ぎになった。西の方で闇が凝って、大きな災厄となろうとしていたのだ。
すぐさまあちこちから優秀な人が集められ、私を筆頭にしてその闇を払うこととなったのである。
それはそれは大変な大冒険で、つらいこともたくさんあったし、素敵なことだってたくさんあった。神官と女神に関して大論争を交わしたり、竜の子供を拾ってしまったり、騎士が新しい力を覚醒させたり、暗殺者に狙われたけれど最終的にその暗殺者も仲間にしたり……。何度思い返してみても、物語みたいな人生である。
その大冒険の中で、同じく闇を払うために結成されたメンバーの一人にいた聖王国の第三王子であるジェラード=ハルディアと恋に落ち、紆余曲折あって結ばれて、20歳になってから結婚したのだった。
――そして、22歳の誕生日を迎えた今、私は幸せの絶頂を味わっている。
「お誕生日おめでとう!」
「ありがとうございます、皆様!」
誕生日の宴で、みんなからお祝いの言葉をもらった私は、満面の笑みでお礼を言う。隣に寄り添うジェラードが、よかったなというようにふわりと頬をなぜた。
ああ、ああ! なんて嬉しいのだろう。なんて穏やかで暖かい世界なのだろう!
そう、きっと。これこそが、幸福というものなのだ!
まるで物語の“めでたしめでたし”を体現しているかのような、そんな空間で。
何気なしに目があったジェラードと、どちらともなく口づけをかわそうとした、その瞬間。
世界は、暗転した。
その時間は数秒だったかもしれないし、とても長かったのかもしれない。
暗転をした世界から、まるで全身を締め付けられるような感覚の後、水から飛び出すように、私は“久しぶりの”息を吸って、そして全力で泣き喚いた。
「おめでとうさん、よくがんばりおった! 元気な女の子じゃ!」
「ああ、神よ。感謝いたします」
彼女たちが言う“元気な女の子”が自分であることに気づいたのはその数秒後。
嗄れ声の産婆らしき人の声と、母親らしい人の声が聞こえた後だった。
―― 一体、なにが、おきたというの。
理解したくなかった。
理解したくはなかったけれど、それでも状況は私にとっては初めてではない経験で。
「エリザ。あなたの名前は、エリザよ」
私は、全力で泣き叫びながら、心の中でも叫んだ。
――ああ、女神様!
どうして私、また生まれ変わってしまっているの?