第17話 終わりと始まり
目が覚めると、まだそこは家のベッドの上だった。
「まだ、家か…」
悪い夢でも見ているようだった。
いっそのこと、この夢も覚めてくれればいいのに…
台所でコップ一杯の水を飲み、眠気を覚ます。
あと何回、目を覚ませば帰れるのだろう。
もしかしたら、もうあの世界に戻る事は出来ないのかもしれない。
そうなれば、このつまらない世界で生きていかなければならない。
だが、戻ったところで願いが叶う保証は無い。
まだ誰も願いを叶えられていないのだから。
悲しみと苦しみが連鎖する。
今日は母の葬式があるらしい。
死因が死因なので、親族だけでやる事になった。
葬式での死因は、心筋梗塞ということで執り行われるらしい。
黒い喪服を着て、車で式場に向かう。
外は、あの日と同様に雨が降っている。
僕は雨が嫌いだ。
母は、雨の音が好きだった。
それを聞きながら寝るとよく眠れると、嬉しそうに話していた。
だが、僕にとってその雨は、僕の感情を読み取り嘲笑ってるようにしか聞こえない。
そんな雨が嫌いだ。
車内では、規則正しく動くワイパーの音と、憎たらしい雨の音しか聞こえない。
けれど、その音を聞いていると確かに少し眠くなってくる。
瞳を閉じて、五感を聴覚だけに絞る。
そのまましばらく目を閉じたまま…
ーーバン‼︎
車のドアを閉める音で、目を覚ました。
式場には、既に何人か来ており挨拶をしてまわった。
「今日は母の為に来てくださり有り難うございます」
本心では無い言葉が口から出ていく。
式が始まり、それぞれが席に着く。
目の前には、母の遺影と母が入っている棺。
周りには色とりどりの花や、箸の刺さったご飯が盛られてある茶碗、それと幾つかのお団子が添えられてある。
母の写真は、僕の卒業式の時に撮ったものが使われている。
そこには、懐かしい母の笑顔が映されていた。
お坊さんがお経を唱え始め、近しい者から順番にお焼香をあげていく。
「くっ…ぐす……」
母の写真を前にして、笑顔でいたいと思っていたが、どうにも涙が止まらない。
この涙が、感謝の涙なのか謝罪の涙なのかは、自分でも分からない。
だが、どうにも涙が止まらないのだ。
自分の番を終え、席に着いて他の人が終わるのを待つ。
彼らが涙を流しているのを見ていると気分が悪くなる。
何故お前が泣いているんだ。母に向かってそんな悲しそうな顔をするな。まるで、母が可哀想な人みたいじゃないか。
お前ら如きが悲しむな。
やめろ…ヤメロ ヤメロ ヤメロ ヤメロ ヤメロ ヤメロ ヤメロ ヤメロ ヤメロ ヤメロ ヤメロ ヤメロ ヤメロ ヤメロ ヤメロ ヤメロ ヤメロ ヤメロ ヤメロ ヤメロ!ヤメロ‼︎
母の為に涙を流している彼らの後ろ姿を、ジッと睨みつける。
部屋中に煙の臭いが立ち込め、長かったお経が唱え終わる。
それぞれが花束を持ち、母の入っている棺の中に並べていく。
何度母を見ても、ただ眠っているようにしか見えない。
耳元で、目覚ましを鳴らせば起きてくれはしないか試したくなるほどに。
母の顔に触れたくなるが、触れることが出来ない。
触れてしまえば、気付いてしまうからだ。
もうここにはいないことに…
伸ばした手をギリギリのところで引き戻す。
花束を並べ終わると、蓋が閉められ二度と母と会うことが出来なくなってしまう。
もう、会えなくなる。
たとえ話すことが出来なくても、目の前にいるのは確かに母であり、僕を産んでくれた母親だ。
だが、時間は待ってはくれない。
ゆっくりと、蓋が閉まっていく。
閉まってしまえば、この世との繋がりを完全に断ち切ってしまうことになる。
最後に、今までの感謝をしたい。
たとえ聞いていなくてもいい、それでも伝えたい言葉がある。
しばらく声を発していなかったのと涙ぐんでいるのとで声がかすれ、かぼそい声しか出ない。
「今までありがとう…かあさん…」
言えないで後悔するよりはずっと良かった。
蓋が閉まり、火葬場へと移動する。
僕の言葉は届いただろうか。
次に母を見たときには、既に焼かれて骨になった状態だった。
あれだけあった母の体が、たった一つの壺に納まるほど小さくなってしまっていた。
その姿はもう母ではなく、涙ももう出てこない。
焦げたような匂いが鼻に残る。
式場に戻り、食事が行われた。
メニューは和食を基本としていて、刺身や天ぷらなどが出された。
目の前にあるものを箸でつまみ、口まで運ぶ。
ゆっくりと噛み味わった。
だが、美味しく無い。
こっちの世界に戻ってから初めて口にしたが、美味しく感じられない。
どれを食べても美味しく無い。
味がしない…
母の作った料理が食べたい。
どんな手抜きでもいい、母の料理を食べたい。
家に帰り、おもむろに冷蔵庫を開ける。
そこには、母の作った『きゅうりとツナのマヨネーズ和え』があった。
母の最後に作った料理だ。
普段はあまり好きではなかったので残していたのだ。
だが、今は違う。
口一杯にそれを頬張りながら、涙を流す。
「美味しい…」
そのことにもっと早く気付いていれば。
幸せはこんなにも、いつもすぐ近くにいたのに。
冷蔵庫の近くには大量のふりかけが置いてありどれもこれも種類が違う。
おそらく、お弁当のおにぎりに使うとき、飽きのこないよう色々な種類のふりかけを買って置いたのであろう。
だが、今となっては誰もお弁当を作らないので使われることなくそこに置いてある。
泣きながらテーブルに突っ伏し、そのまま泥のよう寝てしまった。
ーー明日には、向こうに戻っていることを祈って。