「申し訳御座いません」
家は狭く、僕の側には常に母がいました。
母はクレームに謝りながら家事や僕の世話をしました。僕をおぶって買い物に行くときも、僕と遊ぶ時も片手には旧式の携帯電話が握られ、僕と話す暇は一瞬も無くクレームに謝っていました。
自分が初めて話した言葉は何か。誰しもが一度は気になることではないでしょうか。皆さんは何でしょうか。「ママ」でしょうか。「ブーブー」でしょうか。
僕の場合は、「申し訳御座いません」です。そんな長い言葉を初めて言うことなんてあるのか。なぜか。それは、おそらく母がそれしか言っていなかったからです。僕はそれ以外の言葉を知らなかったからです。テレビも音が電話に入るといけないのでつけていませんでした。
初めて僕が話した時、母は泣いて謝ったそうです。
「申し訳御座いません」
「ごめんね」
「申し訳御座いません」
「ごめんね」
これが落ち着いて見るとぞっとするような、母と僕の初めての会話です。この時僕を見ている母はどれだけ辛かったことだろうと思います。
それから僕は、母を指差しても「申し訳御座いません」車を指差しても「申し訳御座いません」だったそうです。それを、「私はママだよ」「あれは車だよ」と僕に教える暇も無かったそうです。母はそのくらい過酷な仕事をしていたのだと思うと、涙が出ます。当時の母が謝っている姿は数少ない僕が鮮明に思い出せる幼い頃の記憶の一つです。それにひきかえ、今の僕は本当に何をしているんだろう。