Ⅱ
『――窪田、職員室まで来なさい』
秋の県大会の地方予選を快勝した翌日。
昼休み中に、担任の佐々木から校内放送で呼び出された。
いつもと違う硬い声。
それでも、クラスメイトからの『いよいよプロからのスカウトか?!』なんて冷やかしさえ背に受けて、オレは教室をあとにした。
職員室に入ると、明らかに妙な雰囲気だった。
普段、頑張れよ、なんて笑顔を見せる諸先生達が一様に険しい表情をしている。
「――窪田、ちょっと来い」
担任と吉田監督、更に八木沢教頭までが立ち上がり、オレを『進路指導室』に導いた。
「単刀直入に言う。推薦合格は、取り消しになった」
「――――え……?」
担当の言葉の意味が解らず、オレはぼんやり答えた。
「W大の推薦枠は、別の者に決まった。お前をスポーツ推薦することは、無理だ」
「……ど、どういうことですか?!」
遅まきながら、漸く飲み込めた途端、今度は身体中の血が引き潮のように薄くなるのを感じた。
既に内定していた大学の推薦合格が取り消された。
それは進学できないことを意味し、――つまり、野球を続ける場所が無くなるということだ。
「理由は、お前が一番分かっているはずだ」
佐々木は、拳を握っていたが、小刻みに震えていた。
「窪田。どうして……何で、あと2年、我慢出来なかったんだよ?!」
監督はずっと無言だったが、開いた言葉は涙声だった。
どんなに試合でボロ負けしても、叱咤すれこそ、涙など見せない鬼監督が、男泣きをしている。
「……先生、監督。オレ、本当に何のことなのか解らないんです」
正直に言ったのに、パァンと平手が飛んで、椅子から転げ落ちた。
びっくりして見上げると、教頭と担任が監督を押さえつけていた。
「……窪田くん、先月末、野球部みんなで合宿に行ったね?」
教頭が僕に右手を差し出したが、借りずに独りで椅子に座り直した。
「……はい」
喋ると右頬が痛んだ。
監督は、まだ佐々木に押さえられている。
「君が使った部屋と、使っていたバッグから、煙草が見つかった」
「……ええっ?!」
「正解には、手のついた煙草1箱と、吸殻だ」
「馬鹿野郎!!」
監督が再び張り手をする構えをみせたので、両隣の2人がまた押さえ込んだ。
「待ってください!! オレ、煙草なんか吸いません!」
「……お前、この期に及んで!」
「本当です、監督!! オレ吸ったことも買ったこともないですよ!」
『無実の罪』――そんな言葉が脳裏を掠めた。
「……私達も、モノだけで決めつけている訳ではないんだ」
声を低くして、八木沢教頭が口を開いた。
「他にもまだ、あるんですか」
「そうだ。目撃者がいる」
「――嘘だ……」
「窪田!!」
監督の平手がもう一度、今度は左頬を打った。
担任も教頭も止める間を失った一瞬のことだ。
不意を食らって、再び床に転がる。口の中を切ったのか、生臭い鉄の匂いがした。
「大丈夫か、窪田くん」
全く大丈夫ではなかった。ジンジンと鈍い衝撃が広がる頬よりも、口の中の血の味よりも、自分が置かれた立場の深刻さに比べれば、砂埃みたいなものだ。
「先生、監督、教頭先生、信じてください。オレ、煙草なんて興味ないんです、オレ……野球できなくなったら……――」
声が詰まった。もう、立ち上がれない。床にへたり込んだ切り、嫌な汗だけが、後から後から顎を伝って床を濡らした。
途中からは、涙も混じっていたかもしれない。
「窪田……」
「先生、誰なんですか……誰が、オレのことを……」
『嵌めたんですか?』――言いかけて、言葉を飲み込む。
「――それは、言えない。だが、部員に聞き取りをした。目撃者は複数いた」
「まさか……嘘だ! 嘘だ!! オレはやってないのに!!」
信頼していたチームメイトに陥れられるなんて。
世界がバリバリと一瞬で崩壊した。
その日は、もう教室には戻らなかった。
授業に行った担任と、来客が来た教頭が部屋を出て、監督と二人切りになった。
吉田監督は、幾分冷静になり、床の上のオレを抱え、椅子に座らせた。
「――窪田。叩いて悪かったな」
オレは涙目のまま、監督を見つめた。
「……監督。オレ、本当に煙草なんて吸ったことないんです……」
「……」
「W大には行けなくても、いいです。でも、どこでも構わないので、野球を続けさせてください……!!」
「――お前も解っていると思うけど、喫煙は高野連に報告しなきゃならない」
「いずれ、世間にも伝わる。そうなったら、いくら甲子園出場投手でも、ルールを守れない人間を迎え入れる大学はない」
「監督。助けてください。オレ、こんな……やってない罪で辞めたくありません!」
「俺だって悔しい。お前はプロになれると思って指導してきた」
「監督……」
「合宿の夜、宿舎したホテルの自販機で煙草を買っている姿を目撃されている。まずいことに、誰かがネットに画像を流したそうだ」
「――違います……! そんな……何かの間違いです、監督!!」
「……俺だって、お前がそんなことする奴だなんて思っていないさ」
「じゃあ……!」
「分かるだろう、窪田! ……物的証拠が出ちまったんだ。言い訳できないんだよ!」
「だから、違う! それは、オレのじゃないんだ!!」
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在学中の喫煙は、停学処分だ。
オレは、当分の自宅謹慎を言い渡された。
――無実の罪で。
学校側は「十分な調査をする」と言ったが、インターネットに画像を流した人物を特定できなかった。
今時、画像なんて素人でも加工できる。ましてやチームメイトなら、オレの写真くらいすぐ手に入る。
刑事事件でもないのだから、調べると言ってみたものの、学校ができることには限界があった。
学校は、緊急保護者会を開き、経緯とこれからの生徒指導について説明した。
一部の保護者が、監督の責任問題を追及したが、これまでの実績を考慮して、解任は留保された。
担任からの連絡を聞き、オレは心の底から安堵した。
喫煙問題が高野連を通じて公表されると、これまでの注目が仇になり、掌を返したようなバッシングが始まった。
身に覚えのない罪を、見ず知らずの他人が非難した。
夏にはあんなに持て囃した地元の情報番組では、会ったこともないカウンセラーとかいう肩書きの大人が、したり顔でオレの内面的歪みとやらを解説していた。
エースとしての責任の重圧とか、マスコミに取り上げられた傲りだとか、勝手な推論は後を断たなかった。
カメラを抱えた人間が、家の周りを彷徨いていたこともある。
父が警察の生活安全課に相談して、巡査がパトロールするようになって、漸く怪しい人物の姿は消えた。
せめてもの救いは、身内が信じてくれたことだ。
「お前のことは、ちゃんと見てきたつもりだ。いつかは誤解が解ける日が来る」
謹慎が言い渡されたあの日、高校に呼び出された父は、オレの両肩を掴んで静かに言った。
昔――投げても投げてもレギュラーが取れなかった小5の秋。
落ち込んでいたオレに真正面に向き合って、同じように両肩を掴むと諭した。
『颯斗、真面目に正直に努力するんだ。今、結果が出なくても、誰かが必ず見てくれるものだ』
父は、野球少年ではなかった。
『野球のことは教えてやれないが、他のことならいつでも相談しろ』
そう言って、オレを励ましてくれた。
5人兄弟の真ん中で育った父は、特に目立つことのない平凡なサラリーマン人生を送っているが、オレは心から尊敬している。
母もまた、リトルリーグ時代から弁当に洗濯に応援に――全面的にバックアップを続けてくれた。
野球を始めて約10年。
オレは、1日の大半を白球に費やし、野球のことばかり考えてきた。
親や、監督や周りの仲間に対する感謝を忘れたつもりはなかったが……謹慎期間の数ヶ月間、こんなに野球以外のことを考えたことはなかった。
皮肉なものだ。
担任が何度か訪ねて来て、面談を繰り返した。
進路についても、改めて考え始めていた。
時期的に、これから一般入試を受けるのは厳しい、という結論になり、浪人して進学を目指す方向で固まった。
野球には、関わっていたい。
でも、それを世間が許してくれるかどうかは――まだ分からなかった。
12月に謹慎期間が解けたが、オレは登校しなかった。
担任と監督が尽力し、卒業まで通常の登校をしないことになった。
代わりに、冬休みに登校して、出席日数を補った。
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