第一章・日常の不快指数
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────世の中にはどうしようもできないことがある。
これを経験してきた私が言うんだから、このコートに繰り広げられている状況も間違いなくどうしようもできない。
「相良先輩って、バスケ経験浅いですよね?」
「うん。見ての通りだよ。」
相良先輩から渡された部員ノートは、選手の欠点を書き込むように依頼された。部員の名前が分からないので、皆にはチーム分けに使う背番号入りのゼッケンを着用してもらっている。
「でも、流石ポイントガードしていただけあるな。欠点を探し出すのも得意なもんだなぁ~。」
「あの────橘先輩が彼女に何か言ったんですか?」
「いや、俺は相良から女子バスケに何で入部しないのか聞いといてと頼まれただけ。んで、家庭の事情だってことしか言ってないよ。あ、斉藤の欠点って何もないのか?」
私の書いたノートに、真剣に目を通してる彼に拍子抜けをする。一緒に帰ったあの日、駅まで送ってもらったのだが、最後まで自分の気持ちを伝えることはできなかった。だって、あんな事を言われるなんて思わなかったから。
『機嫌悪くてすまなかったな。お前に言われたことがキッカケじゃなく、お前に言われた直後に銀歯が取れて痛かったんだよ。』
原因は銀歯かよ!ってちょっとした小競り合いがあったけど、彼は最後にこう言い残す。
『でも、銀歯が取れる以上に痛かったな。お前の痛烈なジョブが完全に効いたよ。』
あの日以来、私が彼の別メニューに参加することはなくなり、少しだけ距離が開いたような気がした。こうして二人きりで話すのはあの日以来ぶり。しかもここは、観戦席になっているコートの上。肩が触れそうな距離に、何となく二人でバスケ観戦を見に来たようなシチュエーションに思えてしまう。
「─────斉藤先輩って、かなり上手いですよね?欠点がないというかむしろ…」
「個人プレーに走ってる感じか?」
「そうですね。でも、仕方ないって言うか、ポイントガードが相良先輩ですからね。他はそれほど悪くはないんですよ。ただ致命的に…」
そう、このチームの最大の欠点は─────。
「高さが足りない?」
「そうですね。橘先輩の言う通りです。」
この弱点は、バスケの世界では致命的。身体能力が大きくものをいうバスケで、ゴール下の高さは大きなウエートを占める。そう、相良先輩にバスケの実力が仮にあったとしても、最大の弱点をカバーできることは限られてくるのだ。
「なので、斉藤先輩がオールラウンダーにならざる終えないのが分かるんですよ。身長の高いメンバーもいますが、理想を捨てるしかないかなと。」
「理想を捨てる?」
「はい。一人ひとりを見ると、技術力も高いのですが、完全にディフェンスを捨てた攻撃型チームだと思うんです。しかし、それならゴール下の高さが斉藤先輩だけというのは無理がある。」
斉藤先輩の事はよく知っている。名前こそは覚えてなかったが、顔は知っていた。中学二年の神奈川全中大会の準決勝であたった対戦チームの一人。彼女のゴール下の支配率の高さに、先輩達も要警戒していたぐらいだ。
「そうだな。お前ならどうするよ?その理想を捨て、別の理想を求める何かがあるんだろ?」
察しの良い彼だからこそ、嘘は言えない。だけど、相良先輩のバスケに対する想いを救い上げられない気持ちが口を重くする。
「相良先輩は誰よりも足が速い。ポイントガードとしてというより、恐らくディフェンス面が良いだけで選ばれてる気がする。ただ、それだけでは不本意なファールを誘発するだけ。ディフェンスの技術が乏しい。相良先輩だけじゃない。このチームは本来、攻撃型のチームじゃなく」
「────ディフェンス型のチームか。」
「はい。ゴール下のリバンドが取られたとしても、ゴール下で守りを強くしスペース作らなくする。つまり、パスコースを潰すと言うことです。高さが足りないなら、尚更ディフェンスに特化したチーム作りをしなくてならない。でも、私が考えた理想では──────」
「インターハイ予選には間に合わないってことか。」
彼の言葉に、頷きもしなかった。相良先輩の熱意は、プレーにも現れている。チームの誰よりも走ってる彼女をみて、過去の自分と重なって見えたのだ。その熱意と闘争心は、一人だけがあっても意味がない。後輩の私に頭を下げるぐらいだから、このチームでどうにかしたいという想いが私にも伝染し息苦しくも感じる。
「間に合わないって言うのか?」
「──────言えないです。というか、言わなくても斉藤先輩がこのノートを見て気付くはず。ディフェンスが欠点なのと、それが間に合わないことも。もしかしたら、既に認識しているのかもしれませんね。それでも簡単に言えるほど、私はそこまで冷徹な人間ではありません。」
「まぁ、そうだな。今は予選が近いからネガティブな情報はよくないって相良には忠告してたんだけどな。よほど焦ってるんだろう。───ところでさあ、お前が何で傷付いた顔をしてるんだ?」
コートに注目していた私の視界に、いきなり彼の顔が目の前に現れて思わず後ろに倒れそうになる。
「ったく、お前は分かりやすいな。」
「はい?」
あの日と同じように、倒れそうになる私を助けてもらい思わず顔が熱くなった。捕まれた肩が火照りだし、焦りを隠せない私。
「というか、先輩何しにきたんですか!」
「ああ、迎えにきたんだよ。キャプテンが呼んでこいってさ。まぁ、俺の練習に付き合って欲しいだけなんだけどね。」
全くこいつは相変わらず俺様かよ!と思っても、久しぶりに一緒にプレーができることが素直に嬉しいと思う自分。そんな彼の後ろからついていき、二人で階段を降りる。
「他の人は何て言ってるのかは分からないが、俺はお前のことが好きだったよ。」
「え?」
「がむしゃらに走ってた、お前のバスケが好きだった。だから、俺は何度も言う─────バスケを続けろってね。相良を見て傷付いてるぐらい、お前はバスケがちゃんと好きだよ。」
立ち止まって後ろを振り向いた彼の顔が、夕陽に反射して輝いて見えた。降り注ぐ夕陽の光の中で、真っ直ぐに見つめられ、何故だか自然に私の頬に流れる一粒の雫。
「泣き虫か、この生意気なガキめ。」
焦って下を俯く私に、その言葉と裏腹な頭上に置かれた大きな掌。温かいその手が、私の傷付いた心まで癒してくれた。嗚咽混じりの鳴き声を、タオルで必死に音を漏らさないようにする私。そんな私を、落ち着くまで優しく撫でてくれた彼だった。
「どうせ、親友の朝宮にすら話してないんだろう?一人で抱え込むぐらい何かがあったことぐらい分かるよ。ただ、それが逃げであれば、尚更ダメだ。お前はコートに何かを置き忘れている。努力と熱意は裏切らない。」
「──────────なんで、何で努力したって分かるんですか?」
「プレーを見てたら分かるよ。中二の時よりも、中三になった楓のプレーを見ていたら努力をしたことぐらい分かる。泣き虫なのは───変わらないか。」
「へ?」
私が不意に顔をあげると、何でもないよと言って歩き出した彼。泣き虫って、私が人前で泣いたことすら記憶にないのに。随分おかしな事を言うなと思いつつも、駆け足で彼の側に歩み寄る。
「そう言えば、かなり長い休憩でしたよね?キャプテンに怒られませんか?」
「ああ、怒られるかもな。」
「私のせいにしないで下さいよ?」
「お前が泣いたから遅くなったとか言うかよ!俺はガキみたいなチクリはしない!」
私も人のことは言えないが、この人も素直じゃないガキだなと、その大きな背中に呟いた。泣き止むまで待ってくれた彼。ひょっとしたら、私が素直じゃないことを分かってくれてたのかな。泣いたことを言わないと言った彼の気遣いに、ありがとうと小さく呟いた。
不快指数だった彼が、いつの間にか不快に感じなくなっている。そして何よりも、彼が言ったあの言葉。
─── お前はコートに何かを置き忘れている。
その何かを私は見てみたい。そして、逃げないことに立ち向かう勇気を、ほんの少しだけ彼から教えてもらった気がした。
*
インターハイ予選が近付くころ、私は相良先輩と一緒に図書室で勉強をしていた。長雨が続く室内が、蒸し暑く感じるのは季節のせいではない。勉強の魔物に取り付かれたような焦りが、必死にペンを動かせた。
「その公式じゃなくて、こっちの公式使ってやってね。」
「あ、こっちのほうか。」
流石は学年で5位から落ちたことがないだけの人だ。教え方も上手いし、何よりも根気強く教えてくれてる。
あの日の部活後に渡したノートは、どのように活用したのかが分からない。気になって仕方ないのは、それだけじゃない。こうして、図書室で勉強するのも今日で5回目だ。
「そろそろ時間かな?一緒に帰る?」
「あっ、そうですね。」
夕刻をとうに過ぎたのが外の景色で分かり、急いで帰り支度をして図書室から出ていく。いつもは部活後の1時間を目処に勉強をするが、今日は午前中だけの授業だったこともあり、部活が終わったのも早かったのだ。
「今日もありがとうございます。しかも、たっぷりと時間をかけてくれて。」
「ううん。私、教師を目指してるから教えるの嫌いじゃないのよ。」
「そうだったんですか。でも、もう勉強大丈夫ですよ?インターハイ予選も近いので、休める時に休んで下さい。」
「そう?まぁ、いつでも分からないところがあったら聞いてね。それとこれ。」
そう言うと渡されたのは、プリントの束だった。見てみると、彼女が一年の時にやったテスト用紙。
「これ、いいんですか?」
「うん。過去問やるのが一番早いでしょう?本当はもっと早くに渡せば良かったんだけど、一応コピーして自分の為にもとっておきたかったのよ。遅くなってごめんね。」
「いいえ、ありがとうございます。」
相良先輩が何でキャプテンになったのか、一緒に過ごす事で分かった気がする。面倒見がとても良い所と、先輩面をしない親しみやすさがあるからなのかもしれない。
「そういえばさっちんが、あのノート凄く喜んでいたよ。でも、やっぱりディフェンスを強化するのは、間に合わないって言ってたなぁ~。」
「そうですか────。」
予想通りだった。さっちんこと、斉藤先輩はディフェンス強化が必要だと分かっていた。また、それが間に合わないと感じていたことも。それにしても、あんなに熱意があった相良先輩の心中は如何なものか計り知れない。
学校の外に出ると、梅雨独特の不快感が広がっていた。傘を差しながら、駅までの帰り道を二人で並んで歩く。
「あの──────相良先輩は斉藤先輩からディフェンス強化が間に合わないって言われて納得しました?」
「しないよ。だから、やるだけやろうと決めたの。間に合うかどうかなんて、やって見なきゃ分からないでしょう?」
───熱意が空回りしなきゃいいけど。
どこか過去の自分と重なり、大丈夫なのかと益々心配になる。余計なお世話だと分かっていてもだ。
「私ね、勝つことが全てだとは思ってないの。大事な事は、逃げないことだと思ってる。」
いつの間にか降り続いていた雨が止み、微かに光る雫の輝き。その先に見える相良先輩の凛とした背中が、果てしなく大きく見えた。私は彼女の何を心配していたんだろう。
「なぜ──────そこまで頑張れるんですか?」
その大きな背中は、後ろを振り返ることはしなかった。まるで、勇ましい戦士が剣に手をかけたところにも見える。私は振り向きざまに斬られんとする、通行人のような気分。ヒロインは、彼女だ。
───なぜ、私は自ら進んで斬られに行くんだ?答は一つしかないのを知ってるのに。
「バスケが好きだから。ただ、それだけよ。」
その、鋭い刃を持った剣で、無慈悲なまでにバッサリと斬られた。朝飯前の答に、聞く必要が果たしてあったのか?目の前にいるのは、勇猛果敢に戦う戦士の姿だ。ただ、バスケが好きだから頑張るという、単なるバスケ馬鹿の戦士。それでも、高鳴るこの感情が止まらない。
─────バクハツシテモ、イイデスカ。
橘先輩みたいにもこれほど感じることがなかったのに。なぜ、こんなにも激しく、強く、震わせる感情が溢れ出てくるのだろうか。
『心が激しく揺さぶられる』
そして、感情のリミッターが爆発した。
「私────バスケを、バスケがやりたい!!!!!」
雲の切れ間から小さな光が射し込み、蒸し暑く感じるこの不快な季節。そんな季節の訪れを肌で感じつつ、汗ばむ額を手で払う。
「────さっき渡したプリントの中に、入部届けと退部届け入れといたから。明日までに提出ね。」
「え?」
理解するまでに、数秒かかった。最初からプリントよりも、そっちの方がメインだったんじゃないかと思い、下を俯きクスッと笑う。そして、顔をあげて威勢良く答えた。
「はい!!!!ありがとうございます!!!!」
湿った風が耳元をかすれば、遠くにあった霧の密集地帯が次第に消えていく。まるで私の心を写した出したような風景に、梅雨時の不快感も悪くないなと思いながら、相良先輩と並んで歩いた。
この時感じた感情は、単純なものだった。ただ、好きだから頑張れると言った相良先輩。私はバスケがちゃんと好きなんだと言った橘先輩。それは本当に単純なもので、だけど私にはその単純な事が何よりも欲しかった言葉。
『あんたの為のチームだと思ってない?私、あんたのそんな偉そうな所が一番嫌いだったのよ。』
誰よりも信頼していたチームメイトに言われたこの言葉は、後に私がバスケから離れるキッカケになる。そして相良純子によって、コートに再び忘れたものを取り返す決意をした。
椎名恵。光明女子高一年の元チームメイト。貴方の描く理想のバスケは、あんなものだったのか。決勝戦の残り30秒。コートに向かう私に浴びた裏切り行為の刃。あの言葉を─────私は絶対に忘れない。