第一章・日常の不快指数
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私らしくなかったのよ。会って間もない人に、何であんなことを言ったのか…。
「お疲れ様、二人とも。初日にしては、かなりハードだったけど良く頑張ったね。インターハイ予選が近いから、皆ピリピリしているけど私達はチームを支えてあげましょうね。じゃ、また明日ね。」
大江先輩の言葉に、私も幸恵も顔を見合わせて呆気に取られていた。戦場から離れた大江先輩は、ギャップがありすぎるぐらい優しい。あの別れ間際に見せた笑顔────ドキッとしたぐらい可愛いではないか。
「…意外と、優しい人だよね…マネージャーとしても皆から信頼されてる感じだし…」
どうやら、幸恵も同じ事を思っていたらしい。多分、部員達も大江先輩には絶大な信頼を寄せてると思う。キャプテンは、同級生の副キャプテンよりも大江先輩と多く話をしていたぐらいだから。どこかしら、寂しげな幸恵を見て私は言う。
「あんたもさ、かなり信頼されてたよ。大江先輩と比べてもしょうがない。あんたを必要とする人は沢山いるはずだから。幸恵はマネージャーとして信頼できるよ。」
幸恵は、彼氏の為にマネージャーをしたわけではない。幸恵は元々バスケ部に入部していたが、あまりの出来の悪さにマネージャーに転向したのだ。根っからのバスケ好きで、もっと深くバスケに関わりたくてマネージャーになった。だからこそ、その熱意が空回りするのは当然のこと。
「ふふ・・・・まさか、かえに慰めてもらうとはね。」
慰めたわけではないが、否定をしたら反撃されそうなのでやめた。ロッカー室に入る夕暮れの陽射しが強くて、ドア付近で幸恵の帰り支度を待つことにする。
「ところでさ、橘先輩と何かあったの? 」
「え? 何で? 」
「別メニューをした後から、なんか機嫌が悪くなった感じがしたんだよね。」
「…ああ、それは──────。」
彼の不機嫌は、鈍感なこの幸恵に分かるぐらいだったのか。幸恵に話をしたところで、前島先輩に筒抜けになるのは間違いない。ここは、奴の男気を汲むべき?
「多分…私が上手くパスを出せなかったからじゃないの? ずっと不機嫌だったから。」
「まさか楓が? それは違うでしょう! だって楓は─────。」
「外で待ってるよ。早く来てね。」
私は逃げるように、その場から退散した。幸恵に下手な言い訳が通用しないのは分かってる。私のバスケ実力に関しては、誰よりも近くで見てきたのは幸恵だから。会話を途切れさせてまで、あいつの為にバレるような嘘を言った事を激しく後悔した。
「あっ、幸恵はまだ? 」
「うん。もうすぐ終わる。」
ロッカー室の前には、前島先輩がすでにいた。さっき3人で途中まで帰ろうと幸恵に言われ、前島先輩が待ってても驚きはしないが、正直あいつが一緒にいたらどうしようと思っていたので、内心ホッとした。
「お待たせ! あ、光もいた! ねぇねぇ途中でマックに寄らない? 」
「俺は構わないけど、虹羅は良いのか? 」
「私は二人がいいならいいよ。」
「ヤッター! じゃ、行こう! 」
喜びを素直に表現できる幸恵が羨ましい。そんなところが、先輩は好きなんだろうなと思った。幸恵を真ん中にして歩く3人。こんな光景が当たり前だった中学の頃を思い出して、自然と笑顔が溢れる。
「ところで、虹羅と啓吾って何かあった?」
やつの存在を忘れかけたところでの前島先輩の直球に、一瞬表情が固まったのが自分でも分かった。
「さあ─────そういう事は本人に聞いて下さいよ。」
「ふふっ。まぁ、そうなんだけどさ。あいつがね、別メニューに虹羅を入れて欲しいってキャプテンに言ってさぁ。理由を聞いたら、中学の時にポイントガードをしていてバスケがかなり上手いからって言ってたんだよ。」
「え!!!!!! 橘先輩は、楓のこと知ってたの? 」
会話に割ってきたのは幸恵だ。まぁ、学食の時も知ってるような事は言ってたんだけどね、と突っ込みを入れようとした時、
「啓吾のやつさ、さっきキャプテンに怒られたんだよ。不機嫌にやるぐらいなら、練習来なくていいってね。」
と、私に向かって報告してきた。私のせい?と怒りたい気持ちもあったが、彼に対する罪悪感も同時に出てくる。ここは、素直に聞くべきなのではないか。
「橘先輩って、チームの輪を乱すタイプですか? 」
すると、幸恵の彼氏が唖然とした表情に変わる。しまった!聞いてはいけないことだったのかと、私は慌てるようにして早口で話した。
「あっ、いやそうじゃなくて、何か口数が少ないじゃないですか? 誤解されやすいというか、何かそんな感じかなと。」
「アハハ。確かに誤解はされやすいタイプかもしれないが、チームの輪を乱すタイプじゃないよ。むしろ、エースとしてチームの支えになりたい為に、誰よりも努力するタイプだよ。キャプテンに怒られたのも初めてじゃないのかな? あんな不機嫌になったのも、知り合ってから俺は見たことがないし。今もね、後片付けも兼ねて一人で自主練してるよ。反省してるんじゃないのかな? 奴はそういうタイプだよ。」
胸に鉛が鎮座したかのように、ズキンと酷く痛んだ。私のせいだ────そう思うと、歩く足が前に進まない。
「───────私…忘れ物したから、学校に戻る。」
「え? じゃ、一緒に…」
「そう? じゃ、マックは今度ね。気を付けて。」
「ありがとうございます。」
こんな時の前島先輩は、神懸かり的な空気を瞬時に読んでくれるから非常にありがたい。どこまで知っているかは分からないが、きっと前島先輩も奴を心配している。幸恵はきっと、今頃ムクれてるだろう。自分だけ除け者にされて~とか言ってるかもしれない。それでも、そんな幸恵を優しく包み込んでなだめてくれるのが前島先輩だ。
────ったく、たかが私の言葉に何をそこまで鵜呑みにしてるの? あの、バカっ!
走り出した足は、自分で驚くほど意外と軽やか。まだまだ外は肌寒いのに、額から流れる雫が季節感と逆行しているように思える。私も何でここまで必死になってるのかが分からない。それでも、伝えたいことがある。私だからこそ、言えることがある。
────誰かの為にここまで必死になってる私はレアなのよ! だから、私の想いを受け取れ! バカっ!
*
静かな校舎に、予想していたバスケットボールの音が響いてない。もしかして帰ったのかと思いながら歩いていると、体育館の灯りが煌々と輝いてるのを確認した。奴はいるのかと、独り言を呟やきながら自販機でスポーツドリンクを購入する。
「俺、お茶がいいな。」
暗がりの中で背後から声が聞こえてしまうと、一瞬背筋が凍ってしまったかのような身震いを感じた。ゆっくりと振り返り、
「ぎゃっアアアアアアアア───────!」
と甲高い悲鳴を思わず叫んでしまった。
振り向き様にいた人物が奴だと確認した瞬間、足をとられてしまい背中から落ちるような感覚に陥る。これは地面に落ちるなと思った時ガッチリと両肩を支えられ、それは寸前で止められた。
「お前な、少しは可愛い声で叫べよ。色気無さすぎだし、うるさい。」
耳元で囁かれてるような感覚に、胸が大きく波をうつ。忙しく動く心臓の鼓動に、どうしたらいいのか分からない。
「あのさ…俺の事を誘ってる? 」
何を言われたかが分からず彼の目線を辿って下に顔を向けると、スカートが捲し上げられて大胆な姿を披露していた。慌ててた私は、直ぐに立ち上がり身なりを整えつつ早口で答える。
「は? 誘ってないし、あんたが驚かすから悪いんでしょう? 」
「はいはい。まぁ、スカートの中身がパンツじゃなくて、げんなりなのは俺だけどな。」
「あんたね! 」
文句の一つでも言い返したかった。確かにスカート中は見られても困らないようにホットパンツを着用している。だけど奴の横柄な口調と違って、満面の笑みを投げかけてくれたのを見てしまったら──────何も言えない。反則技ともいえる奴の笑顔は、きっと大抵の女子が恋に落ちるだろう。
私は火照った顔を見られないようにしつつ、落ちたスポーツドリンクを拾い上げ、無造作に制服のスカートでペットボトルの汚れを拭いた。
「ん、あげる! 落ちたからいらない。」
「お前、色々と雑すぎるぞ? 」
そう言いながらも、私の手からスポーツドリンクを受け取りそのままボトルの蓋を空ける彼。どう会話を切り出そうか迷って、暫く沈黙が続く。
「何か忘れ物か?」
不意にかけられた言葉に、まだ頭の中の整理がついてないのにどうしようか迷っていた。私がソワソワしているうちに、彼が気を付けて帰れよと一言だけ言ってその場から立ち去ろうとする。私は慌てて声をかけた。
「あ、あのさ、さっきはごめん。ほらプレーがどうとか…偉そうな事を言ってさ…その、あれは─────。」
「お前の言う通りだよ。」
「え? 」
立ち止まった彼の後ろ姿が、こんなにも切なく感じるのはあの日の父親の後ろ姿と重なったからだろうか。二人の距離がドンドン離れて行くと、私は何かの糸が切れたのを感じた。
「行かないで! 」
斜め上をいく私の台詞に、奴も振り返りつつ顔が固まってるのが分かった。でも、思わず口に出たあの言葉に驚いたのは、むしろ自分のほうだ。違うだろっ!そうじゃなくて、もっとひき止めるための適切な単語があったはずなんだよ。己の低レベルなコミュニケーション能力に、苦虫を噛む想いをした。
「じゃなくて、あのさ──────! 」
「楓、暇ならボール片付けるの手伝って。」
「は?」
「ほら、お前マネージャーだろ? 早く来いよ。」
しまったと後悔しても遅い。ちょっと待ってと、言うのが正解だった。冷静さを完全に失っていた自分に深いため息を吐きつつ、向かう足は体育館。先に着いてた彼は、すでにモップがけを始めていた。
それを見た私は、腑に落ちない感情のまま散らかっているボールを拾い上げ籠の中にしまっていく。最後のボールをしまって、倉庫に持っていこうとした時、彼から声をかけられた。
「1回だけ、シュート打ってみて。」
「え? 」
「ほら、ボールちょうだい。 」
ほとんど無意識の中で、籠からボールを取りだし彼にパスをする。そのボールを受け取った彼が、私にパスを投げてきた。ズッシリ重く感じるパスを受け取り、シュート体制に入る。距離はそこまで遠くない。ゴールポストを見つめ、息を吐き手先に集中してボール離す。放物線を描いたボールが吸い込まれるように、ゴールネットを通り抜けた。
「やっぱ、綺麗なフォームで打つんだな。」
それだけ言い残して、彼はボールを拾って籠の中に入れる。そのまま何事もなかったように、籠を倉庫に持っていこうとしていた。慌てて私が籠を持って行こうとすると、少し待っててと言われる。
一人残された私は、ただ彼の行動を黙って見るしかなかった。すると彼は私を見て、口元を抑えながら笑いを堪え始めた。
「お前、意外と従順だなぁ。」
「へ? 」
「待てって言ったら、本当にその場から動かないのな。」
「ちょっ、あんたね! 」
「俺、電気消すからさ、正門で待ってな。職員室に鍵を持っていくからちょっと待ってろ。ほら、早くしろ! 」
そういいつつ、電気を次々と消されたので急いで正門に向かう。何だか、あいつのペースに私がのまれている気がしてならない。私の意思なんかお構い無く命令する彼が─────ただ、ただ、憎たらしい。
暫くすると、歩く足音が聞こえたので後ろを振り返ってみる。すると、またさっきと同じように口元を抑えてクスクスと笑いながら近付いてくる彼がいた。
「本当に待ってるし。楓って、俺の家で買ってる犬っぽいな。」
「は? あんたバッカじゃないの! 飼い主があんたなんて犬が不憫だわ! じゃ、さよなら! 」
「まあ、待てよ。暗がりの中で女の子一人で帰せないから。駅まで送る。────ったく、従順かと思ったらけっこう面倒臭い女だな。」
頭をガシガシと触る姿に、後ろから思いっきりどついてしまおうかと思った。
「寒くないの? 」
「え? 」
「寒いなら、パーカー貸すけど? 」
男子から服を借りることなんて初めてだった。ちょっぴり汗臭いパーカーに、ハッキリと分かる男子の匂いが何だかくすぐったい気がする。大きめのパーカーから、スカートの裾が少しだけ出て風が時折冷たく入ってヒンヤリした。彼の後ろ姿を見つめながら、適切な距離を保つ。会話をするには少しだけ遠いこの距離が、私にとっては心地好い。
なぜ、彼のパーカーを借りたのかが分からない。ただ、知りたかった。この人の着る洋服や匂いがどういうものか。単なる好奇心だったけど、私が初めて"男子"という生き物を意識した瞬間だったことは間違いない。