第一章・日常の不快指数
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母は、大手企業の広告代理店に勤務をしている。それに比べて父は中小企業の冴えない事務職。母からは離婚後に、そんな風に嫌味を含めた父の職業を聞かされたのだった。
帰りの遅い母の変わりに、保育園の送り迎えや家事全般などを父に任せていたのは母。たまには、母親らしいことをしたらと、静かな口調で父が言ってたのを聞いたことがあった。眠りについた子供が起きたことも知らずに、二人が夜中に言い合っていたのを私は覚えている。
そんな父が何も言わずに家を出て行った───かと思ったら突然家に戻ってきて離婚をすると私に言ってきたのだ。ドラマでは離婚や別れを切り出された女性が、泣いてすがる姿を何度も見たことはあるが、そんな姿を一度も見せたことがないのは母。
強い女性の象徴的な姿を目の前にして、小学生の頃の私は───こんな可愛いげのない女にはなりたくないなと思っていた。だから私は母のようにはならない為に、家事を必死にやる。母には反面教師でいられたほうが、自分の寂しさを圧し殺すことができるから楽だったのだ。
「ったく、食べたものは流し台に置けっていつも言ってるのに…。」
だらしない母の姿に、苛立ちを感じるどころか愛しく感じるのはなぜなのか?
──かえ、お母さん泣いてたよ…。
と、入学式の後親友から聞かされた言葉に私は驚いた。離婚してからも、涙さえみせたことがない母親が泣いていたなんて、にわかに信じがたい。
──かえには、内緒にしてねって言われたけど。
内緒にしてと釘を刺されても、軽々しく破る親友に思わず苦笑いをした。でも、幸恵はそういう奴なの。私が意地っ張りなのも一番分かっているのは、幸恵だけかもしれない。そんな親友の優しさもあり、だらしない母を愛しく感じるのだ。
母も知ってるのだろうか?父が結婚することを…。
虹羅という苗字に変わったあの日から、気になっていたことがあった。父と母の間に何があったのか───?母が家事をしない事が原因で離婚したのではないかもしれない。そんな風に、いつの間にか頭の中で掠るようになっていた。
年月を重ねるごとに、深まる離婚の真相。父と二人で出掛けた時、携帯にかかってくる電話の画面を確認しては直ぐにポケットにしまっていた父。まるで他人に自分の秘密をしられないように、何かを必死に隠しているように見えたのは気のせいだと思っていたのに…。しかし、それが何年後かに聞かされた報告によって点と線が繋がりかけた出来事になるとは────あの時は深く考えもしなかった。
心が焼けるような感情に、胸が押し潰れそうになる。重苦しい空気が部屋に充満し、母が使った食器を乱暴に洗った。そんな時に蛇口から流れる水を眺めていると、玄関のドアを豪快に開ける音が聞こえてきた。
「おかえり───って、お母さん酔っぱらい? 」
「ヒャッ! 酔っぱらい良子ちゃんでぇ~す────────! 」
玄関先で、ドサッと音がしたので急いで駆けつけたらこの醜態である。母が酔っ払う姿なんて見たことがない。接待で帰ってきても、飲み会で帰ってきてもこんなに酔っ払うことなんて一度もなかったのに。
「こらっ、良子!ここで眠るな!ほら、立って!ベッドに行くよ。」
母の名前を呼ぶのは、今日が初めて。今は母親というより、酔っ払う女性を解放している気分だ。千鳥足の母をどうにか寝室まで運び終えると、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。
「ほら、良子起きて!水持ってきたから、飲んでよ!」
横になっている母の上半身を起こした時────それは起こった。自分の鼻先に大人の女性の匂いがかすり、気付けば暖かい温もりに包まれている私。これは抱きしめているのか、それとも抱きつかれたのか────。
あまりにも突然のことで、私は母になさせるがままにしていた。暫くすると背中に回っていた母の手が、私の背中をポンポンと叩き始める。そして蚊の泣くような弱々しい声で話し出した母。
「今日ね、あんたの入学式を見て泣いちゃったよ。あんたって何気に可愛くなってるのね? 」
「は? お母さん何を言って────」
最後まで言い終わる前に、母は言葉を被せてきた。
「お父さんね、結婚するんだって。あんたも聞いたんでしょう? 」
「…うん。」
「馬鹿ね…。おめでとうなんて軽々しく言うもんじゃないわよ。」
酔っぱらいの母の口からでた不意打ちの話題に、戸惑いを隠せない私。沈黙が続く部屋で、私は声を絞り出して話す。
「…だったら、何が正解の答えなの?」
「あんたが、正解だと思ったことが正解よ。」
「それなら…死ねって言えば良かったの?」
すると、母は私から離れてお腹を抱えて大きな声で笑いだす。
「アハハ! それが、正解よ─────!」
何で笑ってるのかが分からない。でも、涙を流しながら笑う母につられて私も笑いだした。
「はぁ…久しぶりに笑ったわ。」
涙目になりながら笑ったかと思ったら、真顔に戻り真っ直ぐに私を見つめながら、
「楓、お父さんと会うのをやめなさい。んで、ちゃんと本音が言えるようになったら、会って心からおめでとうと言いなさいよ。」
と、力強い口調で言われた。
水をグビグビと豪快に音を立てて飲む母の姿に、私はただただ茫然と眺めることしかできなかった。いつもは、父に対して嫌味しか言わない母が、今回は父を庇ってるように見える。
「私は別にお父さんを庇ってるわけじゃないわよ。ただね、あんたにとって父親はたった一人なのよ。要するに…父親にぐらいは本音を見せてもいいじゃないの? あっ、いや本音を見せなくさせたのは私のせいだったわね…。」
最後の言葉は、吐き捨てるような言い方だった。そのまま眠りについた母。私のせいだったわねって───本当に馬鹿な母だ。反面教師でいて欲しいのに、この人はそうはさせてくれないから厄介。
見ていないようで、私を一番見てくれたのは昔から母だった。私が父の結婚を口に出せない心情を、分かっていたのかもしれない。そしてこの女は、きっと酔っぱらった振りをしている。そうでもしないと、私が本音を見せられないのを分かっていたのかもしれない。
「──────演技力、もっと磨きなさいよ。」
布団をかけつつ、寝息をたてている母の額をピシッと叩く。一瞬だけ顔が歪み、直ぐに元に戻る。そんな子供っぽい、そしてだらしない母に耳元でありがとうと呟いた。
こんな女になりたくないと言い聞かせていた意地っ張りな娘。─────でも本当は、嬉しかった。家事を必死にこなす小さな私を、きつく抱きしめて褒めてくれる貴方。
───自慢の娘よ~!
昔はこれが貴方の口癖だった。貴方の笑顔が見たいから、家事を必死にやってるなんて言ったらどうする?あなたはきっと子供のようにハシャいで喜んだのかもしれないね。でもね、それは父を否定することになるから言えなかったの─────。
どこかで分かっていた。父が家族のために喜んで家事をやってたことと、それを子供のように喜んでいた母。頭の片隅では、家事をしない母が原因で離婚したわけじゃないと思っていたの。だから、大好きな父を否定したくないあまり、私はあの記憶を抹消した。
───良子、俺はもう限界だ。ちゃんと向き合いたい相手がいるんだ。分かってくれ。
布団の中で、寝たふりをした私の耳に入ってきたこの父の言葉。この後、私が寝ている間に父が荷物をまとめて出ていった。胸の奥にしまっていたその記憶に、鍵をかけていた私。優しい父の記憶を、大事にしたかった。鍵をどこに閉まったのかは分からない。でも鍵を見つけて開けてしまったら、きっと私は父を嫌ってしまう。だから、鍵ごと捨てたつもりだったのに・・・・・。
その夜は父に対する小さな憎悪が、私を直ぐに深い眠りに誘うことはなかった。初めて知るこの感情は、裏切られた気持ちで一杯になり、布団の中で渦巻く黒い感情に胸が息苦しくもなる。
母は気付いていたのかな。私が今こういう憎しみの感情を押し殺しているのも、全部気付いていたのかもしれない。私は子供だ。だけど、もう子供じゃない。この境界線は、私にとって酷くもどかしい気持ちになる。もし私が人生の経験をもっと積み上げられた歳なら、理解したのかもしれない。思春期特有のジェットコースターのような感情と、翼があっても飛び出せないこのもどかしさ。
いつになったら、自由に飛び出せるのか──────。そんな出口の見えない迷路を、ずっとさまよい続ける夜の出来事だった。
*
桜の花びらが散った今日この頃、私と幸恵は入部届けを出す為に職員室に向かっている。
「かえと、同じクラスじゃないとつまらないよね。」
「よく言うよ。友達沢山いるくせに。」
「そうなんだけどさ、なんかこう、みんなさギラギラしていてライバル? みたいな。」
「当たり前でしょう? ここ進学校なんだし。特進クラスなんかもっと殺伐としてるからね。」
幸恵は正直言って頭は決して良くない。この学校も幸恵の実力からしたら、入学できたことが奇跡的だ。家が近いってだけで、この学校を選んだ私とは違う。それでも必死に勉強をした幸恵。凄まじい努力の成果が奇跡を起こした。まぁ単純に勉強してなかっただけだとは思うけど、恋のパワーは学力すらパワーに変えるのかとつくづく感心する。
「しかもね、光と今日も部活後に図書館に行くのよ! もう、放課後デートを期待してたのに未だにできてないっ! 」
このムクれた顔が何とも可愛い。リスっぽい?ウサギっぽい?何だか仕草が愛おしくなるような小動物みたいな幸恵。それにしても、通りすがりの男子達が振り向き様に熱い視線を向けてるのを本人は知らないから恐ろしい。本当、天然のたらし女って恐ろしすぎる────。
「先輩は、責任感じてるんでしょうよ。自分が誘った高校だから勉強ぐらいは教えてあげたいんじゃないの? あんな面倒見の良い人はいないよ。感謝しなさい。」
「──────まぁ、そうなんだけど…。ふふっ。」
これは愚痴なのか、それとものろけなのか?真っ赤な表情で顔を隠したつもりだろうが、ニヤけた顔は隠しきれてない。
「幸恵…駄々漏れ。」
「へ? やだっ! 光大好きって言ってた? 」
言ってないよッ!顔が駄々漏れなんだよッ───────!って突っ込みを入れたかったが、これ以上当てられるのは勘弁してもらいたく言葉を飲み込んだ。もう、こうなったら放置プレーが一番。私はそのまま職員室に入って、顧問の先生を訪ねた。
「先生、これお願いします。」
「はい。んじゃ、今日から練習に参加な?」
「分かりました。失礼します。」
何ともあっさりした対応だった。まあ、当然と言えば当然。顧問と監督は立場が違い、顧問は引率責任者であるから事務的な感じではある。強豪チームだと、監督は外部の人間を雇うのが普通。顧問は殆ど練習に顔を出さないだろうと、何となく察した。
それから職員室を出て、幸恵と一緒に学食へと向かう。私は弁当を持参しているため、席を取りつつ幸恵が学食を買い終わるのを待っていた。
「あっ!虹羅ッ───! 」
「前島先輩、どうもです。」
声をかけてくれたのは、幸恵の彼氏だ。周りをキョロキョロしているのは、きっと幸恵を探してるに違いない。
「幸恵なら、学食買いに行ってますよ? ここ、座りますか? 」
「え? いいの? 」
「そのほうが、幸恵も悦びますから。」
「アハハ! じゃ、遠慮なく。おい、お前も座れよ? 」
込み合ってる学食で、先輩の背後にいた男子が連れの人だと分からなかった。先輩も身長は高いが、この男子は先輩よりも高い。顔は────わりと格好いいのではないか?
「いや、俺別の所で食うし…。」
「って言っても座るところなさそうだけど?」
「あ…でも…。」
私の顔をジッーと見つめる彼の姿に、視線を外せないのは何故?まるで、蜘蛛に囚われた虫のような──。と、遠くでなにかを落とすような音が聞こえて、やっとそれに気付いた。
「あッ!!!!!! どうぞ。私は構いませんので。」
「ふふっ、どうも。」
どうやら、彼は私の了承を待っていたようだ。しかし、何だろう─────。人を小馬鹿にした笑いが何となく不快。
「あっ! 光と…橘さん? 」
「どうも、お邪魔してます。」
「いえいえ。橘さん、ご無沙汰してます。あの、こっちは…」
学食を買い終えた幸恵が席にもつかず、私の目の前に座る男子に紹介をしようとした時だった。
「名前は?」
「え?」
「だから、名前は?」
私の顔をじっと見つめながら、名前を尋ねてくる彼。先に名乗るのが礼儀だろッ────!と、言いたくないような威圧感がある。
「に…、虹羅です。」
「それ、苗字だろ?俺が聞いてるのは下の名前。」
そっか、さっき先輩が私を苗字で呼んだんだっけ。ん?ってことは下の名前のこと?今までいたかな?名前を聞いて次に言うのは、────どんな字を書くの?とか────珍しい苗字だねと言ってくるのに。この人は私の苗字に食いついてこない。それどころか下の名前を聞いてきたではないか。
「楓です…。」
「やっぱりな。お前さ、中学の時バスケ部だったろ?」
「あ、はい?」
「そっか、なんか見たことがあるなって思ったよ。」
「───────────え? それって」
「おい、前島ッ!!!唐揚げよこせよ!」
────何だろう、このモヤッとした気持ちは。私のことを知ってる?でも、聞けない。だって、会話の流れを切られたら聞けないじゃん─────!って心の中で叫んでみる。
この空気はいつものことだ。幸恵も前島先輩も、基本的にマイペース。だから、彼の言った言葉に何も突っ込みを入れないのがバカップルのクォリティー。
「そうだ、光ッ!さっきねバスケ部マネージャーの入部届けを出してきたよ。」
「そっか。じゃ、今日から参加かぁ。虹羅は平気なの?マネージャー。」
「あ、うん。流石にこの高校でバスケをやってたら、日常に響くから。」
「そっか。ここは女子も強豪だからね。まぁ、宜しくな。ちなみにこいつもバスケ部だから。」
この体系といい、さっきの会話の流れで何となくそうだろうなって思っていたよ先輩ッ!!!──って突っ込みたい衝動に駆られる自分。しかし、この男は何なんだ!鳩のように首を前につきだしたかと思ったらモクモクと食事をする彼。宜しくと言ってる体を装ったのかもしれないが、言葉を発しない彼にお前の前世は鳩かッ!!!とこっちにも突っ込みを入れたくなる。
こいつは、不快だ。私はモヤッとした気持ちと不快な気持ちが入り交じり、この後に言葉を発することはなかったのだった。
────橘啓吾。1つ上の上級生の名前を知るのはこの後のこと。これが、最初の出会いだった。