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第一章・日常の不快指数

────胸を焦がすような恋があるなんて知らなかった。

もどかしく、切なく、跳び跳ねるような恋。

そして、どうしようなく飛び出したくなるような強い衝動。

この恋の加速に私はブレーキの方法を知らない─────




 私の名前は虹羅楓(にじらかえで)。15歳の女子高生。珍しい苗字のため、幼少期の頃から言われ続けたことがあった。

『これ、なんて呼ぶの? 』

──と聞かれる度に、チクリと胸が痛くなる。こんな苗字を捨てられるもんなら、今すぐにでも捨てたい。



「かえちゃーん、朝御飯まだぁ? 」



 洗面所で歯磨きをしていると、眩しそうな細い目であくびをしながら私にノサノサと近付く一人の女がいる。どうやら、まだ眠りが足らないご様子だ。



「朝御飯なら、冷蔵庫に入ってる。」


「あっそ。どぉも。」



 無造作に束ねた髪をぐしゃぐしゃと触り、時折首を傾けては凝ってる肩を解す女。この人のこんな姿に、思わず溜め息が漏れた。



「はぁ──────。」


「ん? なぁに? 文句ある? 」


「別にないよ。」


「ふーん、あっそ。」



 こんなのが私の母親だなんて思うと、溜め息もつきたくなるってもんだ。これ以上の会話は、一波乱の予感がしたのでここは敢えて我慢する。今日だけは、清々しい朝を迎えたい。

 でも、これだけは─────。



「…今日、入学式なんだけど…これますか? 」



 何故、実の母親に遠慮がちになるのかが自分でも分からない。いや───普段は遠慮なんかしない。でも、この(ひと)に頼み事をすると、どうしても遠慮がちになってしまうのが私だ。



「ふっ。何を言ってるんだか。あんたの入学式に行かない理由があるの? 」



 柔らかい笑みを溢しながら、私の髪をくしゃくしゃと触る母。何だか、子供扱いされたみたいでくすぐったい。



「さッ──触らないでよ!せっかくセットしたんだからッ! 」


「はいはい、ほら朝御飯の準備。」



 キッチンに向かって顎を上下に動かす母に、どうしても苛立ちを隠せない。お前が用意しろと命令されてるみたいで何だか不快だ。こうして顎で指示をするのは母の癖。日常の不快指数は、こうして朝一で一気に跳ね上がる。



「あんたね、朝御飯ぐらい母親なんだから作れッ! 」


「え~作ってもいいけど、かえちゃんの朝御飯のほうがきっと美味しいよ? 」



 分かってる、私が一番分かってるのよ。この女は、家事らしいことが何一つできない。それが理由で父と離婚したのだろうと心の奥でずっと思ってた。────きっと、そうに違いないと。

 あんなに優しかった父が、突然家を出ていったのは私が8歳の頃だ…。



「もう、いいよ。黙って食べて。」


「は~い」



 今更、この女に母親らしい事をして欲しいなんて思ってない。ただ、無性に────無性に甘えたくなる。特に今日みたいな特別な日は…。



「学年費は、昨日振り込んだからね。」



 ご飯を食べながら、サラッと学年費の件について報告をする母。金勘定だけは、キッチリとしてくれる母に私は何気に感謝している。



「ん、どぉも。じゃ、先に行くね。食器はちゃんと流し台だよ。」


「分かってる。気を付けてね。」



 いたっていつものような朝の光景に少しだけ違って見えるのは、鏡に映る自分がそうさせてるのかもしれない。



 真新しい制服を身につけてる私は、ローファーのかかとを潰さないように靴ベラを手に取る。靴ベラをかかとに押し当てた瞬間、何かを思い出したように思わずフリーズした。



「靴のサイズはピッタリなの? 」



 突然背後から声がして、振り返ろうとしたが─────やめた。



「一緒に買ったんだから、当たり前でしょう。」


「それも、そうね。」



 靴を履いて、カバンを手に取り玄関のドアを開ける。



「入学式、9時からだから遅刻しないでよ。」



 それだけ言い残して、足早に家を出る。目頭が熱くて、直ぐにでも冷ましたい気分だ。母には、気付かれなかっただろうか。複雑な感情を押し殺して、私は駆け足でバス停に行く。



 あれは、一週間前のこと。高校合格祝いも兼ねて、父といつものように会っていた。離婚したとはいえ、父とは一ヶ月に一,二回の頻度で会っていたのだ。



 ────家族の縁は切れても、親子の縁は切れない。それが別れた男女が、娘に残した言葉だった。



 買い物をして、少しだけ早い夜御飯を食べながら、親子の静かな時間を過ごしていた時のこと。



「お父さん、ありがとう。ローファー大切にするね。」


「気にするな。これぐらいしかできないから。」



 優しい笑みを真っ直ぐに注ぐ眼差しが、私をほんの少しだけ幼い子供に戻してくれる。昔から、父だけが私を甘えさせてくれた。だから、いつもは我慢して言えない事もつい本音が出てしまうんだ。



「ねぇ、聞いてよ!お母さんったらこの前ね─────。」



 いつもの様に母の愚痴を吐き出す私に、父はただ何も言わず笑って聞いてくれた。だから、この時はまだ気付いてなかったのだ。いつもの父じゃなかったことも───あの話を聞くまでは。



「楓、帰る前に少し散歩しないか? 」



 唐突に言われたこの言葉に、何故なのかは分からないが心がざわついた。父の表情が、離婚をする事になったと神妙な顔つきで話をしたあの日と、どこか重なったからなのかもしれない。怖い──と感じながらも小さく頷いた。



 日曜日の夕暮れの街は、家族連れやカップルで溢れている。その中に紛れ込んでいた父の後ろ姿を、穴があきそうなほど見つめながら歩いた。見失ってはいけない────。

 あんなに大きかった父の背中が、今はどこか小さく見える。あぁ──私が成長したんだと時の速さを痛感したとき、ここに座ろうかと父が言った。



 小さなベンチに、二人並んで座る。嫌な予感がした。そんな思いからいつもとは違うように、一人分だけ間をあけて腰を降ろす事にする。



「何? 大事な話? 」



 嫌なことは早く聞きたいと思うのは、 至極当然のこと 。嵐が過ぎるのを待つような諦めを胸に抱えながら、父の言葉を待ってみる。目を合わせない娘に、父はどう思ったのだろうか。顔に仮面をつけた私が、もう一度父に訊いてみた。



「大事な話なんでしょう? 何? 」



 急かす娘に父は、



「楓、ごめん───。お父さん結婚するんだ…。」



──────と小さく震えた声で言った。



 振り絞ったような細々とした声は、街中の雑音に消されてしまうほどのような小さな声だった。思わず驚いて横を見ると、父がくの字になって下を俯いているではないか。その姿を見ていると、矢のような早さで瞬時にあの記憶が蘇る。



 『楓、お父さんとお母さんは離婚するんだ。ごめんね。ごめん…。』



 ────何で私に謝るの?と身を裂くような思いを、幼い私はどう伝えていいのか分からなかった。それでも、父は一点の曇りもないような声でハッキリと言った。



 『俺達は家族ではなくなったけど、家族の縁は切れても親子の縁は切れない。楓は、一生お父さんの子供だよ。』



 私は、この父の言葉を理解した。────いや、正確には理解しようとしたんだ。



 だから離婚しても定期的に会ってくれてる父に、そしてそれを了承している母にも、何も聞けなかった。何で離婚したのかなんて───。



「…そっか。お父さん、おめでとう。」


「えッ? 楓? 」


「じゃ、私は帰るね。お母さん早めに帰ってくるし、私もお腹すいた。夜御飯作らないと。」


「ちょっと、楓待って! 」



 さっき、夜御飯食べたのになぁと下手な言い訳をする自分に、思わず苦笑いをする。父の戸惑った姿に、私は聞き分けの良い子供を演じた。まるであの時と同じように、同じ言葉で、同じ表情で────。



「私は、大丈夫だよ! じゃッ、またねッ! 」



 今度こそは、逆だ。去り行く父の背中を、眺めることしか出来なかったあの頃とはもう違う。



 聞き分けの良い子供を演じるのは、身勝手な大人達が与えたもの。しかし、当たり所のない怒りを潮が引くような鎮める方法について、大人達は教えてくれなかった。そして───私もそんな大人に近づいたことを自覚する。



 ─────世の中にはどうしようもできないことがある。



 こんな事を一体誰が教えたのだろうか。あの時あの瞬間、私はなんて言えば良かったのだろうか?聞き分けの良い子供を演じて"おめでとう"というのが正解なんだと無理やり自分に言い聞かせる。まるで、初めて出される問題のテストに、分からなくても無理やり答えを書いたような気分だ。



 ポツリと流れる雫は、こうなる未来を予想しなかった自分への戒めなんだと思う事にしよう。何度も何度も──そう思っては流れそうになる雫の湖をせき止めることに躍起になった。



「仕方ない…。」



 春の柔らかい朝の日差しが、私の気持ちを優しく包む。ほんの少しだけ上を見上げて、フーといち度だけ深呼吸をしてみる。そうすると日常の不快指数は、少しだけ下げてくれるのだ。



 バスに乗り込む前に溜まった雫の湖を拭き取り、発券機にパスモを通して椅子に腰をかける。ふと外の景色を眺めてると、満開の桜の木からヒラヒラと花びらが風に舞っていた。

 まるで私の不快指数を上げないように、誰かが魔法をかけたように優しくゆっくりと散る。それは、それは、胸がジーンと熱くなるぐらい美しい花の舞だった───。





「かえ~久しぶりっ───────!」



 大きく手を振って私に近付いてくるのは、親友の朝宮幸恵あさみやゆきえ。クルリと巻き髪をしたこの女子力が無駄に高い親友は、顔も声も可愛いのだ。私と同じ高校に行きたいとかじゃなく、彼氏が通ってる学校に通いたいという一心で勉強をした幸恵。まぁ、素直に言うところは嫌いじゃないが────。時々、こういう所は幸恵の彼氏に少しだけ嫉妬する。



「ったく、何で私があんたに時間を合わせなきゃならないの? 」


「だってぇ、写真撮って欲しいもん。」



 "もん"とか語尾につけて似合う女なんてそうそういないだろう。これが、計算されたものじゃないから恐ろしい。それでいて、天然なのだからもっと恐ろしい。無駄に女子力が高いとは、その天然が男子達に勘違いをさせることが多々あるからだ。



 そんな親友は私が己の人生に悲観的になっている時、薔薇色の人生を満喫しているのをアピールしてきたのが昨晩のこと。深夜近くに幸恵からの着信で電話に出てみると、桜の下で彼氏との写真を撮ってくれとせがまれたのだ。



「二人とも相変わらず仲が良いね。」


「きゃぁ─────ひかるぅ~!!!!」



 二人に声をかけてくれたのは、幸恵の彼氏である。全身のほとんどが爽やかさで出来ているであろう幸恵の彼氏の名前は、前島光まえじまひかる。中学時代の一つ上の学校の先輩であり、バスケ部の先輩でもあった。



「虹羅、久しぶりだな。」


「前島先輩は、相変わらずですね。幸恵に振り回されてるところは。」


「まぁ、幸恵に振り回されるのは彼氏の特権だからね。」



 こんな恥ずかしいことを、サラッと言えるのが先輩らしい。幸恵に一目惚れをした先輩が猛アタックした末に、二人は交際することになった。暖めてきた恋を、先輩が壁を壊して卒業式に告白してきたのは中学時代にちょっとした話題にもなった。



「惚れたら負けですね。」


「アハハ。相変わらず厳しいね。まっ、否定はしないけど。ねっ? 」



 そんな事を言っては微笑みながら見つめう二人に、深い溜め息をつく。



「はいはい、バカップルの写真を早く取りますよ?」


「バカップルって、かえ酷いよ~!」



 私の背後でギャンギャン吠えてる幸恵に、クスッと隠れて笑う自分。恋なんてしたことがない自分が、幸恵の恋だけは応援していた。中学時代、軽く口説いてくる先輩を冗談にしか見えずに戸惑っていたのは幸恵。気がつけば先輩で溢れている自分の気持ちを、どうしたらいいのかと悩んでいたのだ。



 そんなあやふやな関係のまま、先輩の卒業式を迎える。爽やかイケメンの異名を持つ先輩に、第2ボタンをせがむ女子で溢れかえっているのを見守る二人。ふと幸恵に顔を向けると、震える拳を胸に収め気分がすぐれないのかと思うほど心配になった。親友の私も、何て声をかければいいか分からず戸惑ったとき、それは起こる。



「幸恵ちゃん、俺待ってるから─────! 今度は、俺の高校のバスケ部のマネージャーになってよ! だから、待ってる─────!」



 次の瞬間、風のような素早い駆け足で幸恵の元にくる先輩。冷静沈着な先輩からは想像もできないような、焦った表情だった。先輩が差し出した手には、幸恵が欲しかったあの第2ボタンが光っている。私はこの場の空気をよんで立ち去るべきだと足を一歩踏み出した時、幸恵はもう既に先輩の腕の中にいた。



「彼女ってことでいいの?」


「だから、俺の彼女になってと何回言った?」


「何回も言うから、冗談かなと思ってた…」



 恋だの愛だのに興味がなかった私にも、少なからず嬉しいと素直に感じた瞬間だった。と、同時に完全に二人の世界に入り込んでいる光景に、こっちのほうが顔から火を噴くような思いになったのを覚えている。それでも、変わらない恋が今もそこにあることが嬉しかった。だからバカップルだと小馬鹿にしても、二人は変わらないで欲しいと心の奥でいつも願っている。



「バカップルさん、写真取るよ────!」


「かえッ!!!」



 レンズ越しに映る二人は、とても幸せそうに映っていた。不満気な顔をカメラのレンズに向ける幸恵。そんな幸恵の姿を目を細くして見つめる先輩。



 ───幸恵、恋ってどんな感じ?



 親友にさえ聞けない質問を、私は心のなかで聞いてみた。直後、私らしくないなぁと思い二人に隠れてフッと笑いながらシャッターを押す。



 桜の花びらの絨毯が、二人の笑顔につられるように踊り出した。乾ききった私の心に、沁みるような温かい潤いが広がり自然と私も笑顔になる。シャッターの音が私の耳元にかすれば、それに合わせて二人は次々とポーズを決めていた。次第に絶え間なく吹く風に乗って、笑い声が長く響き渡っていく。



 ────虹羅楓15歳。ほんの少しだけ恋に興味を持った。






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