五章 その二
妙子は忌神と再会し、潜んでいた本当の自分に目覚めていく……
――ぬばたまの……
なんて心地いい声だろう……
……来たか。二の巫女よ。長く時を待ったぞ。
妙子がふわふわした感覚を感じた時、忌神がこちらを振り向いた。
全ての光を吸いこんでしまいそうな深く深い闇の瞳。端正な白い顔の典雅な眉。鼻筋は通って、薄い唇は引き締まっている。
「え……。」
妙子は、少し混乱していた。……わたしの名前。巫女だったこと。混乱はますます深まっていき、妙子のこころは忌神の瞳に吸われていった。
ぼんやりとした頭の中で、今までの妙子の十六年が走馬灯となって走る。……遠ざかる父と母の顔。……妙子は親友の名を呟いた。まるで見知らぬ人のよう。……不意に蘇ってきたのは、光り輝く甍とその上に頂く宝珠……鴟尾は金色に照り返す。朱の柱に白壁の巨大な建物。開け広げられた扉は高みにあり、そこより見下ろしているのは……帝であった。大極殿の前の広場には、彩り豊かな布が棚引き、優雅な音曲が奏でられている。晴れ渡る空の下、大臣高官が列席する前に誂えられた舞台で、妙子は舞っていた。美しい絹の薄物を纏い、傍らで同じく舞うのは一の巫女であった。
……よ。よい巫女を二人もお持ちで。まったく羨ましい……
失われた主の名が呼ばれた。
妙子は、今は失われた名の主――今は忌神となった――に仕えていた、二の巫女であった。その神託は国で随一と言われた。帝は、巫女たちを欲しがったが、彼は決して巫女たちを手放そうとしなかった。
……様。どうしてわたしを一の巫女にしてくださらないのですか。
妙子は一の巫女になりたかった。失われた名の主に僅かでも近しくなりたかった。
……二の巫女よ。お前は激しすぎる。その力は、一歩下がって活かされるものだ。
彼はわたしにそう言ったのだったわ……
妙子は、もうすでに引き返せない裂け目を越えてしまっていた。醒めない夢の中で、叶わなかった思いは、時を遡り忌神の元へ、かつての主の元へと引き寄せられていた――
「妙子。妙子。」
母の声がする。日常の朝であった。……夢。そうよね。妙子は、ベッドから身を起こし、いつもの部屋を見回した。壁のポスター。小学生から使っている学習机と椅子。白いタンスとクローゼット。薄いピンクのカーペット。窓のレースのカーテンから透ける冬の朝日。
妙子は、友人と登校した。何気ない会話に、少し違和感を感じた。……なんでもないわ。
通学路のブロック塀が続く。二人を追い抜いていく数人の男子学生。冷たい風が妙子の耳の傍を吹き抜けた。
……ぬばたまのやみより……
「何か言った?」
「え。何?」
友人は、何も気づかない。校門が見えてきた。門から続く鉄柵から植え込みの糸杉が伸び過ぎていて、大きく道へとはみ出しているところに、彼がいた。こちらを見ている。
「あの人……あの柵の糸杉のところ……」
「え。誰もいないよ。」
友人には見えていないのかも知れない。妙子にも本当に見えているのかどうか分からなくなっていた。
午後になった。古文の授業中だった。
……ぬばたまのやみよりふかきやみのそこ……
妙子は耳の底に聞いた。妙子は不意に立ち上がった。
「おい。沖泉。どうした。」
教諭の制止を振り切って、何かに導かれるように妙子は教室を出た。
「妙子ちゃん?」
教室がざわついた。教諭が追うが、それほど急いでいる様子もない妙子に、なぜか追いつかない。妙子はそのまま、用務員が灯油ストーブに給油している階段下へと向かう。
「君。」
用務員を押しのけて、軽々と灯油の満ちたポリタンクを持ち、妙子は西階段を昇っていく。追っていた教諭が見た時には、3Fと4Fの間にある踊り場の隅に向かって薄青いポリタンクを持って立っていた。
「うらみはつきずよみじみゆるゆめ……」
妙子は呟いた。そうしてポリタンクの蓋を回して外し、逆さまにして頭の上へ差し上げた。灯油が吹き出すように妙子の頭を、顔を、背を、胸を、脚の先まで濡らしていく。妙子の足元とその周りにも飛び散り、びしゃびしゃと飛沫をあげている。
「沖泉っ!」
教諭は叫んだ。しかし、なぜか動けない。鼻を衝く揮発性の異臭の中で、まるで現実では無いかのような光景を目にしながら身体が痺れるように動かない。やがてすっかりと灯油を浴びきった妙子は、空になったポリタンクを投げ捨て、スカートのポケットから何かを取り出した。
呪……
ライターのように見えるそれを妙子は恐ろしい目で睨み付けた。
「一の巫女の元へ……」
妙子は火を着けた。一息の間に激しく燃え上がる一面の炎が妙子を包む。
「……失われし名を!……葬られた地に……眠るわたしの主よ!……わたしが……甦らせてみせる!」
燃え盛る炎の中で、金赤色の薄布を纏うがごとく妙子は舞う。緑青が輝き、青白い蛇が踊る。眩しく山吹の咲き乱れ、失われた典雅の調べさえ聞こえるようだった――
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