深緑の果て
それから、アシェイラたちは様々な場所を旅してまわった。エルカが言ったとおり、風まかせの気ままな旅だった。
南に下り、海まで行ったこともあるし、船に乗って大河を渡ったことも、狭い峠を越えるために崖のような山道を通り抜けていったこともあった。
十年以上もの時を戦士として行動してきたおかげで、しばらくの間、生活に困らないくらい、十分な旅費はあった。が、ネスキア同盟とひと口に言っても、とても広い。一ヵ月くらいでは、その中心となる都市国家だけでも、見て回ることはできなかった。
この一ヵ月の間、さまざまなことがあった。旅にトラブルはつきものなのだけど、狼のグレイを連れていたせいで、とんでもない目にあわされたこともあった。でも、アシェイラにはそんなトラブルも新鮮で、楽しかった。
◆ ◇ ◆
「わたしはね」
谷間の町を離れ、街道を馬車で進んでいる時、エルカが言った。
「え?」
御者台で、エルカの肩ごしに道の向こうをながめていたアシェイラは視線をあげた。エルカの顔を見る。
街道は白いかすみで満ちていた。太陽はさっき昇ったばかりで、周囲はほんのりと明るい程度だった。道のそばを流れる河や草の原、森の枝葉の色などがにじんでいる。魚が河面ではねる音やせせらぎは聞こえてくるものの、どこらへんが河岸で、どこらへんが河なのか、アシェイラにははっきりと見分けられなかった。
風は右手の山の斜面から吹き下ろして来ているのだけど、かすみはあちこちに濃いところと薄いところができるだけで、しばらくの間、晴れそうになかった。
「今でも、思うんだよ。あんたをあの戦いに巻き込んでしまって、よかったのかねって」
「……どういうこと?」
エルカの話はくり返しが多い。特に、「今でも思うんだよ」と前置きしてしゃべる時は注意が必要で、たいてい、「あ、この話は前にも聞いたことがあるな」と、なるのだけど、その話はアシェイラはこれまで、耳にしたことはなかった。
「わたしはあんたをそばに置いたりせず、神殿なり、きちんと育てられる人物なりにあずけるべきだったんじゃないかって、そう思うんだ」
エルカはアシェイラの顔を見なかった。まっすぐ道の先に、視線を向けている。
「どうして――」
アシェイラは大きく、息を吸った。エルカが突然、そんなことを言い出したことに、ショックを受けていた。
「どうして、そんなことを言うの?」
にらみつけるようにして、エルカの横顔を見る。
すると、エルカは目を閉ざした。
「そうだねぇ。今さら、言うことではないね」
「……あたしは、感謝しているよ。エルカが剣技を教えてくれたおかげで、力を手に入れることができたんだから」
「わたしも、若い頃はそんな風に考えていたよ。ペールシード師に剣技を伝授された時はね」
何だかエルカのその言い方だと、アシェイラはまちがっていると、そう告げているみたいだった。
「でも、違うんだよ。ペールシード師が教えたかったのは、そんなことじゃないんだ」
「じゃあ、どういうことなの」
「剣で人を倒すのが、力なんじゃない。本当の力というものは、もっと別なものなんだよ」
「本当の力? 本当の力って?」
「さあね。それは、わたしにもわからない。たぶんこれは、人に教えてもらうものではなくて、それぞれが生涯をかけて探しだすものなんだと思うよ」
アシェイラは肩をすくめた。エルカの言っていることの意味が、アシェイラにはあまりわからなかった。
「アシェイラ。いつかあんたは、自分のしたことの意味を知ることになる。それがあんた自身で選び取ったことならどんな結果だろうと、胸を張っていればいい。だけどこの戦いに加わったことは、あんたが自分で決めたことではないからね」
「ちょっと――ちょっと、待ってよ。この戦いに加わったのは、あたし自身が決めたことではないって? そんなはず、ないじゃない」
「本当にあんたは自分でこの戦いに加わることにしたと、そう思っているのかい?」
「それは――」
「だったら、こう考えてごらん」
アシェイラの返事を無視して、エルカは話を続けた。
「あんたの身のまわりにいる人物は全員戦士で、戦場を行ったり来たりしている。戦士たちは時に戦闘に勝利することもあるけど、負けて大けがをすることもあるし、目の前で襲撃を受けたり、またはその場から逃げ出さないといけない時もある。そんな時、戦うのはいやだと、戦士にはならないと、そう言うことはできるかい?」
アシェイラは口を閉ざした。何も、言うことができなかった。
「あんたがはじめて戦場に立ったのは二年前――十五の時、だったかね」
アシェイラは黙って、うなずいた。
「二年あれば、女の子は内面も外見もがらっと変わる。今のあんたならわたしがいなくても、ひとりで生きていけるだろうさ。でも十五のあんたに、戦士になる以外の道があったとは思えない。結局わたしはあんたの人生を、勝手に決めてしまったのかもしれないね」
エルカは目を閉ざした。
「アシェイラ」
「な――なに?」
「わたしが一番恐れているのはね、あんたに憎まれることさ」
アシェイラは大きく、息を吸った。エルカをにらみつける。
「あたしがエルカを憎むって? そんなこと、ありえない。絶対、ないよ」
エルカがアシェイラを見た。何か言いかけるが、首を振った。
「……そうだね。とにかく一番大切なのは、自分の存在をちっぽけなものと思うことさ。それを忘れなければ、よりよい人生をすごせるはずだよ」
「なぁーに。またそれ? 最近、同じことばっかり言ってるよ」
アシェイラが笑うと、エルカもそれにつられるようにして笑った。が、心からの笑いではなかった。そしてそれは、エルカも同じだったのだろう。
アシェイラはつまらなそうにぶらぶらと、足を動かした。正面に顔を向けながら、エルカを横目でちらりと見た。
以前のエルカなら、こんな弱気なことを言ったりしなかった。エルカが急に小さくなったように、アシェイラには感じられた。そのことが一番、悲しい。
エルカにはアシェイラにとって、いつまでも強い存在でいて欲しかった。それなのに、そんなことを考えてしまう自分にも、戦いが終わって変わってしまったエルカにも、腹がたった。
時々アシェイラは,あの戦いの日々が実は夢の中の出来事だったのではないかと、思うことがあった。またはその逆に、こうして御者台に座ってエルカと旅をしているほうが夢で、本当は戦いはまだ続いているのではないか、と。
そんなことはないと、アシェイラはすぐ、その考えを打ち消すのだけど、でも、アシェイラが生まれる前から続いてきた戦いがやっと終わったにしては、あっさりとしすぎているように感じることはあった。
これまで、アシェイラはずっと戦いを終わらせようと、それだけを考えて戦ってきた。でも、実際にそれが現実になってみると、ちがうような気がする。頭に思い描いていたものと、ずれがあるのだ。そして、この一ヵ月の間にその思いが消えることは、一度もなかった。
長い戦いが終わって、人々の表情は暗いのがほとんどなのだけど、なかにはよろこんでくれている人もいる。その人たちを無視して、戦いがまだまだ続いてくれたらいいと、そう言い切れるほど、アシェイラは自分勝手ではなかった。
それに――何となく思うのだ。これから悲しみも恐れも心配事もなく、それぞれのがんばりに見合うだけのものを手に入れられる時代が――通りは花で満ち、子供たちは笑い声をあげながら走りまわり、あちこちで歌声が聞こえてくる時代が来ると。そうでなければ、アシェイラが今まで戦ってきた意味がなくなってしまう。
アシェイラは一度、目を閉ざした。大きく息を吸うと目を開け、まだ晴れないかすみの向こうをじっと見た。
◇ ◆ ◇
アシェイラたちはルヴィウス山を回る街道を、南に向かっていた。
ルヴィウス山はサードレード市の北にある山で、ふもとが羊の蹄によく似ている形をしていることで知られていた。そこそこ高い山で、峠を越す道もあるのだけど、雪が降るとその道は閉ざされてしまうので、街道は山をぐるっと取り囲むようにして走っていた。
その街道を進み、いくつかの町を通りすぎると、アシェイラたちは一ヵ月と二週間ぶりに、またもとの出発点に戻ってくることになる。
サードレード市でリースヴェルトやペールシード師、ユーリスに会うのもいいし、市の様子を見てまわるのもいい。一ヵ月程度ではそんなに変わることはないのだろうけど、リースヴェルトたちがどこから手をつけようとしているのか、見てみたい気がした。
と、アシェイラは顔をあげた。エルカに顔を向けると、彼女はもうずっと前からそれに気づいていたようだった。うなずきかけてくる。
アシェイラは馬車の荷台に手をのばすと、剣をつかんだ。ひと振りをエルカに渡し、自分のは腰に差した。
グレイがアシェイラとエルカの間に、顔をのぞかせた。はっ、はっ、とせわしなく、息をはずませる。
アシェイラは唇に指を当て、静かにするよう指示をすると、グレイはそれを理解したようだった。御者台のすぐ後ろに、座った。
「何人?」
アシェイラが聞くと、「騎馬が三人」と、エルカは答えた。
ふぅん、とアシェイラはつぶやいた。
「ちょっと、数がすくないんじゃない」
「手ごたえがないって?」
笑いを含んだ声で、エルカが言った。
「まあね」
「一ヵ月ぐらいじゃ、体もなまっていないと思うけど――気を抜かないことだね」
「わかってる」
アシェイラは胸もとに下げた鍵に手を触れた。深呼吸をする。
持つ者がいれば、それを奪う者がいる。それは、いつの時代も変わらない。事実、アシェイラたちだって、神官たちからサードレード市の権力を奪ったのだから。
だけど、アシェイラはおとなしく、盗賊どもに金銭と命を奪われてやるつもりはなかった。
「はッ!」
エルカが手綱を鳴らした。馬車を引っぱる二頭の馬に、全力疾走をさせた。
上下に揺られながら、アシェイラは目を細めた。夕方の日の光が右手から、街道を照らしていた。
道はほぼまっすぐで、馬車を全力で走らせるのに支障はなかった。時々、でこぼこがあって大きくはねるのだけど、その程度だった。気をつけていれば、どうということはない。
街道は左の山の斜面と右の段差とで分けられていた。斜面は岩が多く、その上にある林の木々が長い影を落としていた。右手の段差はちょっとした高さがあり、その向こうには街道と平行するように、濃い緑の色をつけた森が走っていた。
左手から、叫び声が聞こえてきた。そちらに視線を向けると馬の乗った男が斜面を駆け降りてくるのが、目に入ってきた。ひざまであるチュニックに革よろいとマント、それに頬当てのない簡素な兜と、ひと目で盗賊とわかる格好をしていた。
その男を見て、アシェイラはちょっとがっかりしてしまった。
男が馬に乗ったまま、斜面を駆け降りてくるのはそれなりに衝撃的で、襲撃される者に心理的なプレッシャーを与えるので、作戦としてはその通りでいいのだけど、時間をまちがえている。
奇襲を行うのだとしたら、太陽を背にしないといけない。もし今が朝なら、アシェイラたちは盗賊を見上げようとしても太陽の光が邪魔で、まともに目にすることができないはずだった。
それなのに、今の位置関係だと盗賊のほうが太陽を正面に見てしまうし、それにアシェイラたちに反撃の機会を与えることになる。
もしこんなことを、本気でしかけてくるのだとしたら、その盗賊は農民あがりでこれがはじめての襲撃なのか、それとも他に考えがあるのかの、どちらかだろう。
盗賊は鞍の上に立ち上がり、弓を構えた。火矢だ。矢じりの先で、炎が燃えている。
盗賊は斜面を駆け降りてくる速度を落とさずに、矢を放ってきた。矢は命中することはなかったけど、大きくそれもしなかった。二本、三本と、馬車めがけて降りそそいできた。
アシェイラも荷台から弓を取り出すと、弦を張った。腕の長さほどしかない弓を構え、盗賊を狙った。矢を放った。
が、盗賊は右へ左へと軽やかに馬を御し、時に木を楯にしたりして、アシェイラの放つ矢をたくみにかわし続けた。それを見て、アシェイラは表情をほんの少し、変えた。
やがて盗賊は下の街道まで、降りてきた。馬車の後ろに位置した。
「アシェイラ!」
エルカが声をあげた。
盗賊がもうひとり、斜面を駆け降りてくるのにアシェイラは気づいたが、それと同時に街道に隠れひそんでいた三人目の盗賊が、姿を現した。馬車と並ぶように、右側に馬を走らせた。
エルカが手綱をあやつりながら、剣を抜いた。相手が斬りつけてきた剣を受けた。
アシェイラは舌打ちをした。エルカは馬車を走らせるのと、右側の盗賊の相手をするので精一杯のようだった。
馬車に屋根があるのが、裏目に出た。屋根がなかったら、荷台から後ろと斜面を駆け降りてくる盗賊に、矢を放つことができるのだけど、これではどちらかにしか狙いをつけることができない。
が、アシェイラはそれに文句を言うようなことはしなかった。御者台に残り、弓を構えた。
後ろから放たれる火矢をさけるためにエルカは馬車の速度を落とし、道の右や左に寄せながら走らせていた。アシェイラはそれにバランスを取りながら、矢をつがえた。斜面を駆け降りてくる盗賊に狙いをつけた。
一本目の矢は、はずしてしまった。木の幹に突き刺さった。
矢をかわすと、盗賊は槍を構えた。背をそらし、投げつけてきた。
槍はまっすぐこちらへ、飛んできた。アシェイラは弓を足もとに放ると、剣を抜いた。槍を叩き落とした。
それにほっとしている時間はなかった。アシェイラは視界のすみで、赤い色がちらついていることに気づいた。そちらに顔を向けると、アシェイラは「グレイ!」と、叫んだ。
火矢が荷台に飛び込んできていた。床に火がついている。
グレイが炎のところまで、走っていった。燃え広がる前に、脚で火を踏み消した。
火が消えたことを確かめる余裕すらなく、アシェイラは弓を拾いあげた。また矢をつがえる。
斜面の盗賊は槍を投げ終わると、剣を抜いた。頭上に掲げる。
アシェイラは深呼吸をした。弦をいっぱいまで引いて、息をひとつ止めた。矢を放った。
矢は大きく上にふくらんだ線をたどり、そして吸い込まれるようにして、盗賊のからだを貫いた。落馬した。
死んだかどうかまでは、わからない。けれど斜面を駆け降りる馬から落ちたのだから、ただではすまないだろう。少なくとも、この襲撃には加わることができないはずだった。
悲鳴があがった。エルカが剣で、盗賊を斬り捨てたようだった。声が後ろに遠ざかり、そして聞こえなくなった。
これで残りの盗賊は、後ろにいるひとりだけになった。
けれど――。
アシェイラが馬車の屋根を見た。
どうやらアシェイラたちは、相手にしていた者を倒すのが、遅すぎたようだった。
すでに火矢が何本か、命中していたのだろう。荷台の中までは火がまわっていないけど、今からでは消すことができないくらい激しく、屋根が燃え上がっていた。
「エルカ……エルカ!」
「大きな声を出さなくても、聞こえてるよ」
それからエルカは、屋根を見上げた。肩をすくめる。
がくん、となった。馬車が右に傾いた。
エルカが剣を鞘に収めた。アシェイラも剣を手にする。グレイがすぐ近くまでやって来た。
「覚悟はいいね?」
アシェイラは胸から下げた鍵に手をやり、それからうなずいた。
グレイが御者台から飛び出していった。道の上に転がる。
「さあ、アシェイラ! 早く!」
その声に背中を押されるようにして、アシェイラは走る馬車から飛び降りた。道の上で、からだが弾んだ。視界がぐるぐる回転する。衝撃で一瞬、息が止まった。
やっと、めまいが止んだ。頭を振りながら、アシェイラは立ち上がった。
馬の蹄の音が近づいてきた。顔をあげると、盗賊が剣を振り上げているのが目に入った。
アシェイラは鞘から剣を抜いた。盗賊の剣を受ける。
鞍の上から振り下ろされる剣は、さすがに重かった。真上から叩きつけられるので、力を逃しようがないのだ。
続けざまに剣を受け、反撃どころか息をつくこともできなかった。
「こ……この!」
二度、三度と剣が振り下ろされた。そして、四度目の剣を受けた時だった。
バキッと、派手な音が響いた。アシェイラの剣がまっぷたつに折れた。砕けた剣の先が背後に、飛んでいった。
――そんな!
剣が折れるのは戦場では、よくあることだった。が、このような時に折れてしまうとは、アシェイラはどうもあまり、天上の神々に好かれていないようだった。
戦いの中でなら、どのような死を迎えても名誉の死と呼ぶことができるけど、盗賊が相手では恥さらしにしかならない。
胸に鋭い痛みを感じた。斬られたようだ。が、それほど深くはない。
上体がぐらりとなった。よろめく。
「わぁ!」
アシェイラは手に残った剣の柄を、盗賊に投げつけた。倒れた。
道に倒れ込んだと思ったが、そうではなかった。そこに地面はなく、アシェイラのからだは下に転がり落ちていった。
一日に何度落ちれば、気がすむのだろう。アシェイラは泥まみれになりながら、立ち上がった。
どうやらアシェイラは街道の西側にある段差から、落ちたようだった。斜面は傾斜が急で、草がびっしりと生えている上に足場となりそうな岩はなく、これを登っていくのはけっこう、きつそうだった。
と、馬のいななきが聞こえてきた。黒い大きいものが上からのぞいた。
――まさか。
が、アシェイラが想像した通りだった。馬に乗ったまま、盗賊はその段差を飛び越えてきたのだった。それほど離れていないところに、着地した。
――よほど、高いところから降りてくるのが、好きなようね.
盗賊はとことんまで、決着をつけるつもりのようだった。それなら、アシェイラにも不服はない。
盗賊が向かってきた。馬の鞍の上で、剣を振り上げた。その一撃を、アシェイラは地面に身を投げ出して、どうにかかわした。
二十歩ほどの距離をおいたところで、盗賊は馬を振り返らせた。
――どうする?
剣はない。武器といえば――。
アシェイラは自分の手のひらを、見下ろした。
――このナイフしかない。
それでも、丸腰よりはましかもしれない。ナイフ一本でも、状況を変えることは可能だ。
馬がこちらへと、疾走してきた。アシェイラはナイフを構えた。投げつける姿勢をとる。
――機会は一度だけ。それを逃せば、死あるのみ。
アシェイラは笑った。このぐらい、戦場ではいつでもあることだった。
盗賊が剣を振り上げた。兜の下の顔は、笑顔を浮かべている。見下した笑いだ。
アシェイラは唇を引き締めた。一撃で倒すのだとしたら、喉を狙うしかない。
馬が地面を蹴るたびに、盗賊のからだが上下する。それを考えに入れて、ナイフを投げつけた。
「がぁ!」
盗賊がうめき声をあげた。上体がのけぞる。が、それだけだった。
ナイフは喉をはずれ、肩に突き刺さっていた。
アシェイラは覚悟を決めた。死の瞬間を見逃すまいとじっと、剣の先を見上げた。
目の前を、何かが横切っていった。盗賊に飛びかかる。馬がアシェイラのすぐそばを、通り抜けていった。
アシェイラは地面の上を見た。そこに激しく動きまわる、何かが横たわっていた。うなり声と怒号、悲鳴などが入り交じったものが聞こえていたのだけど、それはだんだんと弱々しいものになっていった。
盗賊の死体の横に、グレイが座っていた。金色の瞳で、アシェイラを見上げている。
「グレイ。これであなたに助けられたのは、何度目なのかしらね」
ひざをつくと、グレイが走りよってきた。頭をなでてやると、うれしそうに尻尾を動かした。顔を舌でぺろぺろとなめてくる。
「そういえば、エルカは?」
森のなかを見渡し、それからアシェイラは段差の近くに転落している馬車に、近づいていった。
馬車につけられていた火はもう、消えていた。荷台のなかを、のぞきこんでみる。アシェイラたちの持ち物で、壊れているものは壊れているのだけど、まだまだ使えるものも残っていた。予備の剣を手に取ると、腰に差した。
馬車を引いていた馬のうち、一頭は死んでいた。もう一頭はけがをしているのだけど奇跡的に、まだ走れるようだった。アシェイラは馬具を取り外し、馬を連れていくことにした。
「エルカ、エルカ! どこ? どこにいるの!
声をあげるけど、返事はなかった。しょうがないなぁ、とつぶやき、アシェイラは地面の上を歩いていった。
と、森の奥の暗がりから、人の話し声のようなものが聞こえてきた。
「エルカ?」
アシェイラはグレイを見下ろした。
「エルカ……かなぁ」
聞いてみるけどグレイは、はッはッと息をはずませるだけで、何も答えてくれなかった。「行こう」
アシェイラは馬の手綱を引っぱり、声がしたほうへと歩いていった。
樹の下には道はなかったのだけど、人の足跡がつけられていることに気づいた。枝やいびつに歪んだ木の根、藪などをかわしながら、アシェイラはその足跡をたどっていった。
しばらく行くと、岩が地面から突き出している場所までやって来た。岩は上が平らで、人が乗れるようになっている。
アシェイラはグレイを振り返った。
「ここで、待っててくれる」
馬をまかせると、アシェイラはその岩を乗り越えていった。歩いていく。
「わ!」
風が吹きつけてきた。とても強い風で、アシェイラは顔を腕でかばった。枝葉がいっせいにかたかたと鳴り、葉があたりを舞った。
風は一瞬にして止み、静かになった。小鳥のさえずりも聞こえてこない。
特に理由はないのだけど、アシェイラは不穏なものを感じた。肌がぴりぴりとする。森の奥へと急いだ。
「……ただの道具。それをどう使いこなすのか、見せてもらおうじゃないか」
声がはっきりと、聞こえてきた。エルカの声だ。アシェイラは木々の間を抜けて、ちょっとした広い場所に出た。
夕刻の日の光と木の影とが、地面の上にまだら模様を描き出していた。その奥の大きな樹の手前に、エルカがいた。こちらに背中を向け、剣を頭上に掲げている。
「エルカ!」
もうひとり、盗賊がいたのだろうか。エルカの正面に、だれかがいた。アシェイラは剣を抜きながら、そちらへと近づいていった。「来るな! ……来るんじゃない」
エルカがこちらを振り向かずに、言った。
――え? どういうこと?
「エルカ! エル――」
そこで、アシェイラは足を止めた。エルカの肩ごしに、大きな木を背にしている人物の顔が見えた。
リースヴェルトだ。でも、リースヴェルトがどうして、ここにいるのだろう。
そこで、アシェイラはリースヴェルトが剣を手にしていることに気づいた。柄から剣の先まで真っ黒で、冷たい輝きを放っている。アシェイラは思わず、息を止めた。
リースヴェルトが動いた。エルカに向かっていく。
エルカが構えていた剣を振り下ろした。リースヴェルトに斬りつける。が、エルカの上体がぐらりとよろめいた。剣は大きくぶれ、地面を叩いた。
アシェイラは悲鳴をあげた。リースヴェルトが手にした剣が、エルカの腹部を貫いていた。
エルカはその剣を見下ろし、それからリースヴェルトの顔を見た。エルカの手から剣が、転がり落ちた。
アシェイラは何も、考えることができなかった。瞳はしっかりとふたりを見ているのに、目の前で起きていることを、信じることができなかった。夢だ、これは夢なんだと、だれかが耳もとでささやいていた。
「リース……ヴェルト」
エルカがリースヴェルトに抱きついた。樹のそばにリースヴェルトとともに、倒れ込んだ。
「アシェイラ! 逃げろ」
エルカが叫んだ。
――え……な、何? どういうこと?
リースヴェルトがエルカに、しがみつかれていた。立ち上がれないでいる。
どうしたらいいのか、アシェイラは迷った。からだが動かない。が、アシェイラはすぐにリースヴェルトに背中を向けた。走りだす。
何が起こっているのか、さっぱりわからなかった。が、とにかく逃げるしかなかった。グレイのいるところへ、急いだ。
逃げている途中、獣のようにも人のもののようにも聞こえる声がした。ばさばさと黒い羽根が散る。上空から何かが、襲いかかってきた。
鋭い爪のようなもので傷つけられるのが、わかった。顔をかばうと、剣で斬りつけた。が、羽ばたきの音は止まなかった。叫び声が大きくなる。
アシェイラは走る方向を変えた。右に行く。
獣じみた声が響き渡っていた。と同時に、真紅の色が森のあちこちを走っていることに、アシェイラは気がついた。
――火だ!
炎が迫ってきた。熱気が吹きつけてくる。煙がたちこめ、そちらに顔を向けると息ができなかった。アシェイラは剣を鞘に収めると、逃げられるほうへ走った。
「グレイ……グレイ!」
叫ぶが、無駄だった。さすがにあの炎の壁を飛び越えて、アシェイラのもとまで駆けつけてくれるとは、とても思えない。
――ここからは自分で、何とかしないと。
枝が顔を打ち、草につっかかり、虫が目の前を横切っていった。
夕刻の太陽はかなり、傾いてしまったようだ。同じ森の中でも、下のほうが薄暗くなっている。足もとに何があるのか、見分けられなくなってきた。
どのくらい、走っているのだろうか。だんだん、息があがってきた。
――もう、だめ……。
そう思った時だった。前のほうから涼しい風が吹いてきた。今まで聞いたことがないような音が、聞こえてくる。
アシェイラは走る速度をしだいにゆっくりなものにし、それから立ち止まった。下をのぞきこむ。
森はそこで、切れていた。崖になっている。下まではめまいを起こしそうなくらいあり、底に河が流れていた。ごーっという音を反響させている。
崖は剣をいくつも並べたみたいに切り立っていて、道のようなものはまったく、見当たらなかった。橋もない。河の向こう岸には森が広がっていたのだけど、河幅はかなりあるので飛び降りても、樹に飛びつくことはできそうになかった。
アシェイラは崖から下がった。森を振り返る。
が、アシェイラは火に完全に、取り囲まれてしまったようだった。まだこちらに近づいてきていないけど、夕焼けよりも鮮やかな赤の色が目の奥に残った。
火の勢いはかなり強い。音と風とで、それがわかった。火はまだ遠いのに少し前に出ただけで、汗がどっと出てくる。
と、その炎の壁を、何かが横切ってきた。こちらに近づいてくる。
――リースヴェルト。
アシェイラは相手の顔を見上げた。腰の剣に手をのばした。剣の柄をつかむ。
リースヴェルトは数十歩のところで、足を止めた。値踏みするかのようなまなざしで、アシェイラを見た。
火のなかをくぐり抜けてきたはずなのに、リースヴェルトのローブやマントには焦げあともないし、すすもついてなかった。しかし、前はエルカの血で、真っ赤に染まっていた。「どうして」
一度、ことばが出てくると、激しい感情がわきあがってきた。リースヴェルトを,にらみつける。
「どうして、エルカを殺した」
顔が歪んだ。涙を流しそうになる。自分がどんな表情を浮かべているのか――泣いているのか、怒っているのか、わからなかった。「貴方の寿命は今日、ここで尽きます」
リースヴェルトが言った。黒い剣を構える。「ですから今はそれを、知らないほうがいいでしょう」
アシェイラは剣を鞘から抜いた。剣先をリースヴェルトに向ける。赤い炎を受けて、剣の刃が輝きを放った。
「寿命が尽きる、なんて言い方をせずにはっきりと言ったら? あたしを殺すって」
「……いいでしょう。今からアシェイラ、わたしは貴方を殺します」
リースヴェルトの表情は変わらなかった。まっすぐ、見つめかえしてきた。
「しかしエルカと違って、貴方には個人的な恨みがありません。ですから、貴方には死に方を選ばせてあげましょう。炎に巻かれるか、わたしの剣の手にかかるのか、どちらかをね」
「生き延びるという選択は、ないのかしら?」
「ありません。たとえこの時を百回、迎えたとしても、貴方が生き延びることはないでしょう」
「ずいぶんと自信があるみたいだけど、絶対と言い切れるのかしら」
「――試してみますか」
アシェイラはリースヴェルトをにらみつけた。しかしすぐに、顔を横に振った。地面の上に、剣を突き刺した。
「ご心配なく。向こうでは、エルカが待っているはずです。それに――わたしもじきに、そちらに参ります。その時にすべての理由を、話して差し上げましょう」
「そうね」
アシェイラが顔を上に向けると、リースヴェルトが近づいてきた。剣に手を添えた。
「リースヴェルト」
剣が振り上げられる前に、アシェイラはリースヴェルトに話しかけた。
「はい?」
「あなたは三つ、間違ったことを言っているわ」
アシェイラはリースヴェルトによく見えるように親指と人差し指、それに中指の三本を立てて見せた。
「まず、ひとつ目」
と、アシェイラは立てたばかりの親指を折り曲げた。
「向こうでは、あなたはあたしに会うことはできないわ。あたしは天の上で、あなたは地の底に堕ちるのだから」
リースヴェルトの黒の瞳に、炎の明かりを浴びたアシェイラの顔が映っていた。燃え上がっているように、真紅色に包まれている。
「ふたつ目」と、アシェイラは人差し指を折り曲げた。
「さっき、あなたはあたしが生き延びれるかどうか、試してみるかと聞いたけど、試すのではないわ。生き延びるのよ」
アシェイラは最後に上に向けていた中指をゆっくり、折り曲げた。笑みを浮かべる。
「そして――三つ目。あなたがあたしを殺すのではない。逆よ。あたしが、あなたを殺す」
アシェイラは走った。リースヴェルトのほうではない。崖だ。何も考えず、崖から下へ飛び込んでいった。