終戦
——終わった。ついに戦いが、終わったのだ。
たとえそれを親しい者に腕を取られ、耳元で叫ばれたとしても、アシェイラは戦いが終わったことを決して、信じようとはしなかっだろう。
だけど、アシェイラは神殿の奥殿がファルファレル軍の完全な制圧下に置かれ、捕虜となった神官たちが地下牢に連行されるところや、サードレード市の城門が開放されるところ、軍の盟主であるユーリスが王の間にやって来るところも、実際に目にしてきたのだ。信じるほかなかった。
サードレード市が陥落したことは、ネスキア同盟のなかを電撃的に駆け巡っていった。
神官軍はサードレード市だけでなく、地方に散って戦闘を行っていたのだけど、中枢を失って軍として統一された行動をとれないようになっていた。激しい抵抗運動もしだいに鎮圧され、各地で投降する者が続き、四月の中頃にはファルファレル軍は次の行動——王にかわる者を地位につけ、都市国家としての形を整えるまでになっていた。
ウーリアス王の後継者はすべて、行方不明になるか亡くなっているので、王の血筋が見つかるまでの間、一時的にサードレード市を統治することが発表されていたが、市民のだれもが、これまで戦いを主導してきたユーリスを王として認めていることは、まちがいなかった。
そして——時はあっという間に春から初夏へと、移り変わっていった。
◆ ◇ ◆
「どうしても、行かれるのですか」
「あぁ。これからはわたしのような人間は、必要ないだろうから」
リースヴェルトの問いに、エルカの声が答えた。
「それにアシェイラには、ネスキア同盟の色々な場所を見せてやりたいからね」
ふたりが話をしているのはサードレード市を攻略する前、ファルファレル軍が集結していた、あの丘だった。
アシェイラは馬車の御者台から、顔をあげた。彼女が剣技の確認をしていたあの岩も、遠くにあった。
場所は同じなのに、季節が異なるだけでこんなにも、印象は違ってしまうものなのだろうか。それとも、あの時は戦いの前だから、見えていたものもしっかりと、見ていなかったのだろうか。
それとも、あの時は戦いの前だから、気づくべきことも、気づかなかったのだろうか。
アシェイラは不思議な気持ちで、丘の風景をながめた。
風は柔らかく、そのささやき声にいつまでも耳を傾けていると、眠気に誘いこまれてしまいそうだった。草の原がさぁーっと、緑の波をたてていった。
——いや、そうじゃないな。
これは戦いが終わり、平和になったからこそ、こんなふうに見えるんだ。
そのように、アシェイラは思った。
「——ペールシード師は今日、来られないそうです」
「まぁ、それは当然だろうよ。最後にひとつ、あいさつでもしたかったんだけど、師にはするべきことがいっぱい、あるんだからね。残念だけど、仕方ないよ」
エルカとリースヴェルトはまだ、会話を続けていた。ふたりの声が馬車の影から、聞こえてきている。
アシェイラは御者台から、地面の上に降りた。エルカとリースヴェルトの姿が目に入った。ふたりのそばまで、歩いていった。
リースヴェルトはいつも通り、腰のところを飾りひもで締めた銀色のローブに、袖なしのマントを肩にかけているのに対し、エルカはよろい姿ではなく、詰めものをした胴着に、すそがくるぶしまである上着、それにリースヴェルトがしているものと同じマントを、身につけていた。
アシェイラはエルカから、もうちょっと女の子らしい服装をしてみたらどうなんだい、と言われていたのだけど結局、落ち着くからという理由でチュニックとズボンという、革よろいと剣をはずしただけの格好をしていた。
ふたりがアシェイラを見た。微笑みかけてくる。
「どうして——」
リースヴェルトの微笑みを見て、アシェイラは何も考えられなくなってしまった。ことばが自然と、口から出た。
「どうして、リースヴェルトは来てくれないの? これまでずっと、どんな時でもいっしょだったじゃない」
——こんなこと、言うつもりではなかった。 いつか、別れの日が来ることはわかっていたのだ。それなら、湿っぽいお別れなんか、したくない。リースヴェルトの顔だって、最初は見ずにすませるつもりだったのだ。でも、声を聞いているうちに決心が揺らいでしまった。
リースヴェルトがひざをついた。アシェイラの顔をのぞきこむ。
「すみません」
そのことばに、アシェイラはため息をついた。リースヴェルトに抱きつくと、頬にキスをした。
エルカがリースヴェルトに近づいていった。握手をしようと、手を差し出す。が、リースヴェルトはそれに首を横に振った。
「さよならは言いませんよ。これが最後の別れではないのですからね」
エルカは肩をすくめた。
「これから、どちらへ」
「さぁ。行き先はまったく、決めてないんだよ。こっちが知りたいくらいさ」
「風まかせ、ですか。エルカ、貴方らしいですね」
「それじゃ、リースヴェルト——おっと、さよならは言わないんだったね」
「ええ」
「じゃ、いつの日かまた、会える時まで」
リースヴェルトがうなずいた。
「いつの日かまた、会える時まで」
アシェイラはエルカに続いて、馬車の御者台に昇った。
「グレイ!」
エルカが手綱を鳴らした。馬車がゆっくりと動きはじめると、グレイが追いかけてきた。アシェイラのいる御者台を振り返りながら、走った。
春の暖かな日ざしに、アシェイラは手をかざした。草原の向こうを見る。馬車の車輪のあとがつけられた道は丘をめぐり、東へと続いていた。
今ならばアシェイラにも、戦いが終わったことが実感できた。春の風にこんなにも、緑の草の葉のにおいが含まれていただなんて、知らなかった。
——でも、この道の先はいったい、どこに続いているんだろう。
馬車が進んでいるのはまだ、アシェイラにもなじみのある道だったけど、ずっとたどって行けばいつか、知らない場所に着くことになる。
それを思うと期待もあるのだけど、戦いとは別の怖さがわき上がってくる。
「どうしたんだい、アシェイラ。泣いているのかい」
となりで、エルカが言った。
「えぇ? 泣いてる? このあたしが? ちょっと、やめてよ」
アシェイラはエルカをにらみつけるようにして見ると、正面を向いた。
「後ろは、振り返らないのかい」
アシェイラの横顔に微笑みかけると、エルカは静かな口調で言った。
「いい。だって、リースヴェルトが言ってたでしょ。これが最後の別れじゃないって」
アシェイラがそう言うと、エルカが肩をすくめた。
「無理しちゃって」
エルカのそのことばを、アシェイラは無視した。吹きつける風に、顔をあげた。
「こんなものなのかな」
つぶやくようにして言うと、エルカが「え?」と、聞き返してきた。
「お別れをするのって。想像していたのとまるで、ちがっていたから」
「もっと、感動的なものだと思ってた?」
まさか、とアシェイラは口のなかで笑った。「そんなことは思ってないよ。でも、これまでずっと、いっしょにすごして来たのが明日にはもう、顔をあわせることがないんだと思うと、ちょっと妙な感じ。こんなことなら——」
「こんなことなら?」
——ずっと、戦いが続いてくれればよかったのに。
アシェイラは思ったけど、それをことばにして言うことはできなかった。
「なんでもない」
かわりに言うと、アシェイラは緑の地平線の向こうを見た。