第七話
学園への入学までひと月ほどになった夜、絵本を読んでいた僕の部屋へ、ミールがやってきた。この家にやって来てから、昼間はほとんど家におらず、夜になるとこうやって僕の部屋へやって来てくれるのだ。
「起きていますか」
ノックの後聞こえてきた声に、起きています、と答えた。これも、いつも通りのやり取りだった。僕は
読んでいた絵本を閉じて膝の上に置いた。ベッドまでやってきたミールがそれに気づいて、おや、と目を丸くした。
「これは、ミリアが一番好きだった本です」
そっとミールが絵本の表紙を撫でた。懐かしい、とミールの横顔が微笑んだ。
知っている。タール・シュタインもそう言っていた。
これは娘が一番好きだった本だ、と。
「絵本には、サーヤという名前の女の子が出てくるのですが、ミリアはこの子が大好きでした」
それも知っている。僕は曖昧に頷いた。それが眠そうに見えたのか、遅くにすみません、とミールが謝ってくれた。
「明日、町へ行きませんか」
「町?」
「知り合いの薬屋へ行きたいのです。よければ、あなたも一緒に来ませんか」
そういえば、この屋敷の外へ出たことがなかった。とりあえず、学校で困らないように文字を覚えなくてはと焦っていたから。ミールもタール・シュタインも、僕の書いた字を見て読めるんだから上出来だと褒めてくれたが、正直僕の字はかなり下手な部類になるだろう。そんなわけで、もっぱら文字の練習ばかりしていたから、外に出たいと思う暇がなかったのだ。ミールはそんな僕の考えを見透かしているかのように、息抜きにもなりますよと微笑んでくれた。そんなふうに気遣われているのに、断るような理由はなかった。
「行きたいです」
僕がそう答えると、ミールがよかった、と微笑んだ。
「それなら明日は少し早く起きてくださいね。さあ、絵本はもうおしまいです。お眠りなさい」
ミールはそう言って僕の額にくちづけた。怖い夢を見ないおまじないですよ、とこちらに来たばかりのころ、まだなにを言っているのかもわからないころから、ミールはそう言ってベッドに入る僕にキスをした。そうされると本当に悪い夢を見なくてすむような気さえしていた。ただの気安めだとは分かっている。・・・疲れすぎれば、悪夢だって見るだけの話だったのに。
「おやすみなさい」
僕も体を伸びあがらせて、ミールの額にくちづけた。
部屋からミールが出て行き、僕はベッドの中にもぐりこみ、目を閉じた。
――今度。
僕はごそりと寝がえりを打って、銀髪の愛らしい少女の顔を思い浮かべた。
――今度会えたら、まだあの絵本は好きかどうか、聞いてみようか。
そう思いながら眠りについた。
*
次の日、僕はミールと町へ出かけた。住宅地を抜け、にぎやかな通りに入る。
「はぐれないように」
そう言って、ミールが僕の手を握った。僕も、ミールの手を握り返した。ミールが器用に人の波間を塗って歩き、僕はその後ろをひたすらついて行った。石畳は元いた世界のコンクリートほど歩きやすくない。時々境目に爪先をひっかけながらも、僕は足を動かした。次第に人が少なくなっていき、ミールは細い路地のようなところへ入っていった。周囲は建物に遮られて薄暗く、道幅は狭い。ミールは多少ゆったりした歩調になった。
「大丈夫ですか?」
「平気です」
振り返ったミールに、僕は頷いた。
「もう少しですから」
「はい」
暫く歩くと、ミールが足をとめた。石を積んで作られた家だった。朽ち果てそうな木の扉をミールが叩いた。
「ごめんください」
そうミールは声をかけたが、なんの反応もない。留守なんじゃないのか、と僕が心配していると、扉が細く開いた。
「ああ、すみません。オール師はいらっしゃいますか?」
「・・・ミール・シュタインですか?」
小さな声がそう告げた。ミールが腰をかがめた。ここからは人影すら見えないが、対応しているのは子供らしかった。
「そうです」
「中へどうぞ」
扉が開かれる。僕はミールに手をひかれたまま中に入った。部屋の中は昼だというのに、薄暗かった。
「おかけになってお待ちください」
そう言って、古ぼけた椅子を指さしたのは、僕と同い年くらいの男の子だった。はっきりと顔は見えないが、色が白くほっそりとしていた。薄い唇の下に二つ並んだほくろが印象的だった。椅子に座っていると、男の子が不思議な匂いのするお茶を持ってきてくれた。ミールがありがとう、と受け取り、次に僕にコップを差し出してくれた。
「ありがとう」
僕がそれを受け取りながら言うと、男の子がちょっと驚いたように目を丸くした。綺麗な葡萄色の瞳。しかし、すぐに視線を逸らし、部屋の外へ出て行った。
「なんだ、今更来たのか」
「先生」
ミールがそう言って立ち上がったので、僕も慌てて立ち上がった。現れた男は、タール・シュタインよりは若かったが、ミールよりははるかに年上に見えた。
「薬を売りに来たのです」
そう言って、ミールが背負ってきた皮袋の中身を取り出した。瓶の中に詰められた煎じた薬草や、粉末状の薬、石のような固形型の薬が出てきた。今まで見たことがないものばかりだったので、僕は袋から出てくるそのひとつひとつをまじまじと見つめた。男も、ミールが取りだしたそれらをひとつづつ手にとっては、じっと見て、脇によけた。ふむ、と男は顎に手をやって、後ろの扉の方へ向かって言った。
「リュカ、こっちへ来なさい」
すると、さっきの男の子が扉から顔を出した。
「この子を連れて、上へ行っていなさい」
「え・・・?」
男の子が声をあげた。不満というよりも戸惑いが多く含まれた声に、僕はもしかしてこの子に嫌われているんじゃないかと不安になった。でも、さっき会ったばっかりで、嫌われるようなことはなにもしていない。どうしてそんなふうに思われてしまったのか、さっぱりわからない。僕はどうしたらいいのかわからなくて、ミールを見上げた。ミールも困ったように男の子を見下ろしていた。
「・・・こっち」
しかし、男の子がそう言って歩き出したので、ついて行くことにした。僕は扉をくぐるときに、後ろを振り返った。ミールがなにも心配はいらないよ、というふうに笑っていたので、僕も笑い返して、扉を閉めた。
部屋の外は細い廊下が左右に伸びていた。廊下は部屋の中よりも多少明るかった。男の子は左の廊下を少し行ったところで僕を待ってくれているようだった。駆け寄ると、男の子が僕に背を向けて歩きだした。まっすぐ歩いて行くと、階段が見えてきた。手すりもないうえ、急な角度で、僕は足を踏み外さないようにゆっくりと登っていった。階段を上りきると、やはり細い廊下が伸びていて、部屋が三つ並んでいた。男の子は一番手前の部屋の中に入っていった。扉を閉じないように押さえていてくれたので、僕も慌ててその部屋の中へと入った。中は窓ひとつなく、陰鬱な気配がした。しかも、どことなくひんやりとしていて洞窟のように薄暗く、明かりも蝋燭がひとつあるきりで、廊下よりも暗かった。
こんな暗い部屋でこの人は過ごしているんだろうか。
僕が入口のあたりで立ちつくしていると、男の子は僕を振り返って言った。
「座って」
部屋の中には、小さな机と椅子がひとつ、部屋の中央にあり、右側にベッド、左側には本がうずたかく積まれ、精製途中の薬草と、その道具が転がっていた。男の子は僕が椅子に座るのを確認して、自分はベッドに腰掛けた。薄暗い部屋の中で、僕は正面に座った男の子を見た。淡い色をした髪は、ろうそくの明かりに照らされて赤い。前髪が長くほとんど目を覆ってしまって表情がよくわからない。邪魔じゃないのかな、と僕は思った。見られていることに困惑しているのか、男の子が居心地悪そうに身じろぎした。
「・・・君」
「はい」
声変りはまだしていない、みずみずしい少年の声。僕は少しだけ視線をずらし、男の子の顎のあたりを見つめた。
「名前は?」
「レイです」
「僕はリュカだ」
そう言ったきり、リュカは黙った。物静かそうな見た目通り、口数の多い方ではなさそうだ。しかし、男が僕を連れて上へ行けと言ったのだから、ミールと男の話は長くなるのだろう。僕はなんとか話の糸口を見つけようと、部屋の中を見回した。そして、隅に転がっている薬草に目をつけた。
「あれ、この辺りでは珍しいですね」
その薬草は、この辺りで採取できず、かなり高値で売買されているものだ。だが、痛みを和らげる作用
があるので重宝される。
「そうなんだよ!」
リュカが立ちあがって、薬草のところへ飛んでいった。薬草を抱えて戻ってきたリュカは、机の上に薬草をどさっと置いた。僕によく見えるように、その薬草をひと束分けた。
「これは痛みを和らげる成分が含まれているんだ。でも、飲み薬にするために煎じると、苦すぎる。でもね、冷やすと苦みが少なくなるんだ」
饒舌にまくしたてながら、リュカが次々と薬草を広げて行く。僕も簡単な知識ならミールから教わっていたが、リュカはそれよりももっと深いところを説明してくれた。正直今の僕には難しくてところどころわかりにくかったけれど、僕が理解していないとわかると、リュカはていねいに、何度もかみ砕いて説明してくれた。これはなに?と尋ねると、打てば響くように説明してくれた。時間はあっという間に過ぎて行ったらしく、短かった蝋燭が溶けてなくなりそうなところで、部屋の扉が叩かれた。
「はい」
鎮静作用のある薬草の葉をもんでいたリュカは、指先についた汁をそばにあった布巾で拭ってから扉を開いた。廊下にはミールが立っていた。ミールはリュカを見下ろし、言った。
「随分と長い間レイの相手をしてくださって、ありがとうございました。さあ、レイ、帰りましょう」
「はい。リュカさん、ありがとうございました」
「あ、うん・・・」
どことなく残念そうにリュカが眉尻を下げた。
「・・・また、機会があれば、お話聞かせてください」
僕が笑って言うと、リュカはもちろん、と笑って頷いてくれた。