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第六話

屋敷の中は好きに使ってくれて構わないよ、とミールは言ってくれたので、僕は真っ先に、本の在り処を訪ねた。学校に行くということは、読み書きにもなれなくてはいけない。一応練習はしていたが、いまいち不安だったので、時間があれば簡単な本を読んだり、外で字の練習をした。タール・シュタインが「最近はこういう服がはやっているらしいよ」と与えてくれたドレスを汚さないよう、庭の隅、うつくしいオレンジ色の花の傍で、僕は木の枝で地面に文字の練習をしていた。

ふと背後に人の気配がしたので、ミールかと思って顔をあげると、少女が立っていた。僕と同い年くらいの、綺麗な真っ白い髪をしていた。


「誰ですか?」



この屋敷には、通いの家政婦のような人が数人いるばかりで、こんな子供はいなかったはずだ。僕がそう聞くと、少女は微笑んだ。


「あなた、だあれ?」


逆にそう尋ねられ、僕は答えに詰まった。

なんだろう。僕は、この家の人たちにとって、なんだろう。しかし、少女はそんなことどうでもいいのか、にこりと微笑んで言った。





「わたしはね、サーヤ。あなたのお名前は?」

















それから、うつくしいオレンジの茂みに、サーヤはたびたび現れた。うつくしい銀の髪に、冴えた青い瞳。冷たく見えそうな色合いだったが、可愛らしい顔がそれを柔らかい印象にしている。


「ねえ、レイ」


綺麗なレースのリボンで髪をまとめているサーヤは、いつも同じ綺麗なレースのあしらわれたドレスを着ていた。それは、レイが見ても随分古めかしいデザインのものだった。しかし、サーヤの清楚なふるまいには良く似合っていた。


「見て、リプの花が咲いているわ」

「え?」


地面から顔をあげると、サーヤが庭の隅の木を指さしていた。木には白い小さな花がたくさん咲いていた。リプの実は見たこともあったし好きだったが、花は始めて見た。


「今年もきっと、たくさんリプの実が取れるわ。食べたことある?」

「はい。とても美味しかったです」

「美味しいわよね」


僕とそう変わらないような、幼い声で言った。

大抵、サーヤとはそんなふうにあたりさわりのない会話をしていた。



晴れた日は大抵僕は地面をならして字の練習をしていたのだが、それじゃ効率が悪いだろうとタール・シュタインに黒板のようなものをもらった。ような、というか、僕には木の枠にはまった四角い黒い石に見える。その黒い石の表面に、チョークがわりに丸い平べったい石で、文字を書いていく。そしていっぱいいっぱい書きこんだあと、水でぬらした布でふき取ると、綺麗に文字が消えた。

サーヤは現れたり現われなかったりした。一体どこから現れているのか僕には見当もつかなかったし、わざわざ近所の子どもがこの家の中に忍び込んできているとも考えられなかった。後をつけて見ようと思わないでもなかった。しかし、とめどない話をして、僕が屋敷に引き上げようとすると、忽然といなくなってしまうのだ。文字通り、忽然と。そして、今日は現れない日だったらしい。

かつかつと石の表面に白い石を滑らせていく。大分いびつだけれど、文字は覚えた。造形文字のような、そうでないような文字。しかし、学校の授業について行けるだろうかと僕は不安になった。ふう、とため息をついた。疲れてきたので、今日はこれでもう引き上げて、部屋の中で本でも読もう、と僕は立ち上がった。

鈴が鳴るような、涼しげな音がした。

音、と言うより、なにかの鳴き声のようにも聞こえた。僕は周囲を見回した。鳴き声だけを頼りに探すと、庭の隅に、猫のような生き物がいた。姿は殆ど猫と変わらない。ただ、尻尾が三つある。土の上をゆっくりあるいていく猫のような生き物の後ろを、僕はそうっとついていった。その生き物はときどき僕を鬱陶しげに見つめながらも、逃げようとはしなかった。僕も、その生き物に触ろうとは思わなかった。屋敷の壁のあたりを歩いていると、窓からミールの声がした。


「ミール」

「なにをしているのですか?」


窓の外から上半身を乗り出してきて、ミールが僕に問うた。

「あの・・・」

僕が生き物の方を見ると、ミールがああ、と目を細めた。

「ミーアですね。大丈夫です、害はありませんよ。木の実などを食べる生き物です」

「ミーア」

「ええ。尻尾が三つあるでしょう?二十年は生きていますよ」

「そうなんですか」

にゃん、とミーアは鳴いて走って行ってしまった。あ、と僕が声をあげると、ミールが微笑みながら言った。

「野生みたいですから、また、気まぐれにやってくるかもしれませんよ」

「はい・・・」


「さあ、中へ入りなさい。お茶にしましょう」


















その日、僕はオレンジの茂みの傍で本を読んでいた。


「なにを読んでいるの?」


その時にもサーヤは現れた。その時僕は、書斎にあった本ではなく、タール・シュタインが読んでみなさいと貸してくれた絵本を読んでいた。いわゆる精霊に魅入られてしまった女の子の話だった。女の子はサーヤという名前だった。僕は名前の出ているページを閉じた。サーヤは普段と変わらない様子で微笑んでいた。




「ねえ、レイ」




僕は名前を呼ばれて、サーヤを見た。日に透けそうなほど淡い銀の髪が風になびく。





「あちら側ってどんなところだと思う?」





僕は膝の上に乗せた絵本を撫でながら、そう言うサーヤから目を逸らすことができなかった。笑っているのに、どこかうすら寒いような温度の声だった。





「・・・絵本では、すごく綺麗なところみたいに書いてあります。でも、人間がいくところではないとも書いてあります」


「レイは?あなたはどう思う?どんなところだと思う?」





まだ日も高くあたたかいのに、僕はとても怖くなった。なんだかここだけ切りとられて違う世界であるかのように感じられた。あたたかい風が頬を撫でて行く。どんな答えを返したら、サーヤは満足してくれるのだろう。僕はそれしか考えていなかった。



「・・・多分、精霊がいっぱいいて綺麗なところなんだろうけど、知っている人が誰もいないところに行くのはすごくさみしいと思います」


開いたページには、見たこともないきれいな風景。綺麗な精霊たち。


――でも、きっと、ここではないどこかはさみしい。

慣れない世界は、きっとさみしい。


サーヤが目を細めた。そして、なにかに耐えるように眉を寄せて、言った。




「・・・ねえ、レイ。それでもね、人って生きて行かなくてはいけないのよ。たとえそこが、知っている人のいない、見知らぬ土地でも、さみしいところでも、生きて行かなくてはいけないのよ」





僕に聞かせるためではなく、自分に言い聞かせているようにも聞こえた。苦しそうな、せつなそうな声だった。サーヤは黙り込み、唇をかんだ。怒りに満ちた顔で、悲しみに濡れた瞳で、僕を見下ろしている。


――君は、そうやって、あちら側で生きてきたの?


僕はそう聞いてしまいそうになった。しかし、背後で甲高い音がした。驚いて振り向くと、ミーアが生垣を抜けて行くところだった。


サーヤの方へ視線を戻すと、そこにはもう誰もいなかった。





どこかで、鈴の鳴るような音が聞こえた気がした。








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