第五話
僕に、とあてられた部屋は立派すぎて、最初身の置き所に困ってしまった。しかし、食事と湯あみをすませ、ベッドに座っていると、ほんの少しこの空間に自分がなじみ始めていることに気付いた。
「レイ、入りますよ」
扉を開けて入ってきたのは、ミールだった。いつものくたびれたシャツではなく、清潔そうなシャツとズボンをはいていた。僕は布がたっぷり使われたワンピースのような寝間着の裾を翻して、ベッドから飛び降りた。
*
食事の後、ミールが席をはずしている間、僕はタール・シュタインと話をした。まずは、自分の妻であるミラ・シュタイン夫人の振る舞いをわびてくれた。
「普段は、あそこまで常識のない行動は取ったりしない女なのだ」
「いいえ。許しもなく名乗ったわたしが悪いのです」
こちらの世界でも家柄のようなものがあり、身分の高い家の未成年の女児は、許しがなければ名乗ったり声をあげることははしたないとされているらしい。あとでこっそりミールが「伝え忘れていた私が悪いのです。怖い思いをさせてしまってすみません」と謝ってくれた。謝ってもらうようなことではなかった。僕は気にしていません、ともう一度念を押した。むしろ、もっと取り返しのつかない場面で失態をやらかさなくて良かったとさえ思った。
「ああ、ありがとう。君はやさしい子だね」
そう言ってから、タール・シュタインは、昔話を始めた。
彼の話は、なぜミールがこの家を離れ、あの森に住んでいたのかという僕の疑問を全て解決してくれた。
シュタイン家には、ミールのほかに、娘がいた。ミリアと言う名で、少し内向的だが素直なやさしい娘だった。親馬鹿かもしれんがね、とタール・シュタインは笑っていた。随分年がいってからできた娘だったからタール・シュタインもミールも可愛がっていたそうだ。もちろん、母親であるミラ夫人も。しかし、彼女はいなくなった。ある日突然いなくなったのだ。
「魅入られてしまったのだ、と思ったね」
ミリアは、魔術の才能があった。年頃になれば、僕が通わせてもらえる学校に、入学する手はずになっていた。けれど、できなかった。だって、彼女は姿を消してしまった。
「・・・ミールは、魔女の森にいたのだろう?」
「魔女の、森?」
ミールが住んでいたのは、魔女の森と呼ばれる森で、子どもが迷い込むと妖精に魅入られて帰ってこないと信じられているようなところだった。町の子どもたちは大人たちに絶対に森の中へ入ってはならないとしつけられる。子どもたちも、教えを守って森の中に入らない。そんな森へ、妹を探しにミールは入っていったのだ。そして、何年も帰ってこなかった。
「気が済めば帰ってくると思って、私たちもミールに帰って来いとは言わなかった。時々、生きていることを知らせるつもりか、精霊をよこすばっかりで」
タール・シュタインは深いため息をついた。ミールと同じ色の瞳が、僕を見下ろす。その中には、痛みや喪失、そんなものが浮かんでいた。
「きっと、ミールが帰って来てくれる気になったのは、君のおかげだ。ありがとう、レイ」
*
ベッドに腰掛けながら、ミールが謝った。
「すみません」
「・・・なぜ謝るのですか?」
僕がベッドに再び腰をおろしながら聞くと、ミールが申し訳なさそうに僕の顔を見て、言った。
「父から、妹の話を聞いたんでしょう?」
いなくなってしまった妹の手がかりがあるかもしれないと、ミールはあの森へ行き、そして暮らしていた。僕を見つけたのも、妹の手がかりを探している途中だったのだろう。
・・・妹がいなくなったのは、もう、五年も前になる、とタール・シュタインは言っていた。そして、ミールは、五年間もの間、あの森の中で妹を探し続けていたのだ、とも。
「私は、二度とこの家に戻ってくるつもりはなかったんです。今考えるとなんて傲慢だったのかと思います。なんせ、妹を失った両親の元から、文字通り一人息子になってしまった私が、妹を追うように家を飛び出て行ってしまったのですから、ひどい親不孝者です。・・・それに気がついたら、今度は恥ずかしくて家に帰ってくることなどできないと思いました」
ミールの顔は穏やかだった。その顔を見て、僕はミールが全部説明してしまうつもりで、ここへやってきたのだとわかった。
――そう、ずっと不思議だった。ミールが僕を見つめるとき、どこか遠くを見つめているようなに見えていた。あの森で暮らしているころ、僕は自分のことで手いっぱいだったけれど、わずかな違和感のようなものをいつも感じていた。慣れない環境に神経が過敏になっているだけかとも思ったし、頼るしかない人間のことをいちいち詮索して機嫌を損ねるのも怖かった。・・・だけれど、それは気のせいではなかったのだと、タール・シュタインの話を聞いて僕は勝手に納得した。
「私は、ずっと妹を探していました。でも、手掛かりすらないのです。半年もすると、半分妹のことなんて忘れていました。一年たつと、気恥かしさと意地で、帰れなくなった。・・・だから、君を言い訳にして、この家に帰ってきました。妹との思い出の、この場所に」
僕はミールが膝の上に乗せていた手をつかんだ。
「それのどこがいけないんですか。わたしは、あなたにたくさん助けていただきました。言葉も、住むところも、食事も。あなたになにかを返せたこともないわたしを、大事だと言ってくださいました。それが、妹さんの代わりでも」
だから、僕を口実にするというのなら、いくらでもすればいい。そんなことで役に立てるのなら、いくらでも口実にしてもらって構わない。
――だって、あなたは確かに、僕を助けてくれた。途方に暮れていた僕を、あなたは助けてくれた。
「レイ、あなたはやさしい子ですね」
ミールが僕を抱きしめてくれた。
「わたしはあなたが倒れているのを見たとき、妹が・・・ミリアが帰ってきてくれたのではないかと思ったんです。おかしいですよね、あなたはこんなに綺麗な黒髪なのに。あの子とは、全然違うのに」
ミールが愛おしげに僕の髪を撫でた。彼の妹とは全く違う、黒い髪を。
「瞳の色も、顔かたちも、仕草も、なにひとつ似ていないのに。・・・私は、あなたに妹を重ねて、自分を慰めていたんです」
僕はミールの背中にすがりつきながら、されるがままになっていた。
「・・・そして、私は、あなたと暮らしているうちに、妹はもう本当に返ってこないのだと実感したんです。・・・ああレイ、すみません。私はあなたにひどいことを言っている」
後悔したようなミールの声が降ってきた。しかし、僕はそんなのはいまさらだ、と思った。
――ひどいこと?ひどいことなら、もうずっと前に起こってしまっているんです。
僕は、僕という存在を傷つけられるのに慣れている。
けして痛みに慣れているわけではないけれど、傷めつけられることに、多少は耐性が付いている。
ミールとの間に腕を差し込んで、ほんの少し体と体に隙間を作って、罪悪感に満ちた、悲哀にゆがんだミールの顔を見上げた。綺麗な顔。表情がなければいっそ冷たいほどに整った顔が負の感情に満ちているさまは、とてつもなく美しかった。
やさしくしてくれた。精神的にも肉体的にも、追い詰められていた僕を、ミールは救ってくれた。
・・・誰かの代わりだったけれど。
僕はやはり、どこへ行っても、誰かの代わり以上の存在にはなれないのだ。
黙ったままだった僕を見て、どう思ったのかミールが重苦しそうに言った。
「・・・レイ、そんなかなしそうな顔をしないでください。本当に、ごめんなさい」
だが、ミールの言葉は、見当違いだった。
――違うよ、ミール。僕は、かなしいんじゃない。やりきれないんだよ。どう言えばあなたがいつものように微笑んでくれるのか、あなたを安心させてあげられるのか、僕はあなたにあんなに世話になったのに、そんなこともわからないから。
あの狂った部屋で、あの人を相手にしていた時には、こんなふうに悩まなかった。正気を失っていたあの人は、僕の言葉なんて必要としていなかったから。
「・・・ミールは、わたしにとてもよくしてくれました。謝らなくてはいけないのはわたしです。お礼を言わなくてはいけないのも、わたしです」
けれど、とミールは言った。
「あなたに、私は酷いことをしていました」
――ああ、ミール。そんなふうにあなたに言われたら、僕は、どうしたらいいのか本当にわからない。
だって、あなたは僕を代わり以上に見ることはないんでしょう?
ああ、ミール。あなたに伝えたい言葉が見当たらない。もどかしい。
――それでも僕は、あなたを慰めたいんです。
スカートをはいているだけでも、微笑んで傍に座って話を聞いているだけでも、駄目なのだ。僕はミールの首にしがみついた。
「・・・ミール、あなたはわたしの大事な恩人です。大切な人です。だからあなたは、わたしに対して悪いとか、そんなことは考えなくてもいいんです」
期待しないから。僕は心の中でそう囁いて、ミールの首筋に頬を擦り寄せた。
「・・・ありがとうございます、レイ」
しっかりした男の体。初めてこの世界で訪れた夜、不安と混乱で鳴いていた俺の傍にずっといてくれた。あんなふうに、他人のぬくもりを感じたのは、初めてだったかもしれない。
――だから、あなたに少しでもなにか返せるなら、いくらでも嘘をつこう。
本当はかなしいだとか、つらいだとか、代わりなんて、嫌だ、とか、そんなそぶりを見せないように、嘘をつこう。
「本当に、ありがとう」
――だからもう、お願いだから、なにも言わないで。
僕は、ぎゅっとミールの首に強くしがみつき、そのままミールが黙っていてくれるように祈った。