第二話
次の日も、大体同じようにして過ごした。ただ、朝食の後は家の裏に耕してある畑の手入れをし、昼食の後は家の掃除と洗濯と字の練習をした。食事は、畑を手入れしながら、虫に食われた野菜を収穫して、無事そうなところをかじったりしてすませた。とにかく、覚えなければいけないこと、覚えたほうがよいものがたくさんあった。いつまでもここに居させてもらえるわけがない。台所でミールに与えてもらった絵本で簡単な文字と単語を覚えながら、僕は元の世界のことを思い返しそうになり、慌てて首を振った。今は考えなくてもいい。ひたすらに文字と格闘し続けた。
ミールの帰ってくるであろう日も、僕は朝一で井戸に水を汲みに行った。
「おはようございます。水を分けていただけますか?」
井戸の淵に手をかけ、声をかける。
「レイ!」
鋭い声に、僕は後ろを振り向く。
「ミール」
そこにはミールが立っていたが、見たこともないような険しい顔をしていた。
「レイ、あなた、今、喚起呪文を唱えていませんでしたね」
ミールから、威圧感のような重苦しい気配が漂ってくる。僕は首をすくめた。
「ごめ、んなさい」
ぴしゃん、と背後で水の音がした。
台所で、机を挟んでミールと向かい合って座った。ミールからもう威圧感は感じられなかったけれど、居心地が悪かった。
「喚起呪文なしに精霊を呼びだし続けていると、魅いられると言われています」
「魅いられる?」
思わず僕は声を上げた。それにミールは軽く目を見開いて、閉じた。僕はあわててごめんなさいと謝った。少し間が合って、ミールは口を開いた。
「・・・説明していなかった私も悪いですね。前に、あちら側に連れて行かれる、と説明したと思いますが、あちら側とは、精霊たちのいるところだと言われています。詳しくはわかりません。けれど、精霊は気に入った者をどこかへ連れて行ってしまうと言われています。事実、連れて行かれた子どももいます。大人より子供がよく、喚起呪文なしに妖精を呼びだしていることが多いので、そう言われているのです。・・・だから、必ず呼び出す言葉を使い、呼びだすことを儀礼的、交渉的にしようとしているのです」
元の世界で言う、チェンジリングのようなものなのだろうか。僕は絵本に描かれていた、妖精というには不気味な老婆を思い出した。ゆりかごから人間の赤ん坊と妖精の子どもとをすり替えていた、不気味な姿。・・・いや、妖精が赤ん坊と自分の子を取り換えて連れて行ってしまう、とはまた違うか。神隠しに近いのかもしれない。おそらく誰もが連れ去られる現場なんて見たことがないのに、なにかが連れ去ったのかもしれない、と考えた時、畏敬の念を抱えるものを想像してしまうのはよくあることだろう。
「ですから、お願いです。レイ。けして呪文なしに精霊を呼びだしたりしないでください。・・・心配なのです」
また、ミールが、傷ついた色の瞳で僕を見ている。だから僕は黙って頷くと、ふう、とミールがため息をつき、立ち上がった。
「明日の朝、ここを発ちます」
「え?」
「ここへは多分戻ってきません」
「・・・え?」
「身の回りのものを詰めて、出ます。今日は早く休んでください」
体をひるがえし、おやすみなさい、とミールが階段を上って行った。
「え?」
僕はもう一度呟いて、テーブルの上の蝋燭台を落としてしまった。派手な音がしたので、階段の上からどうしました、とミールの声がしたが、僕はそれどころではなかった。出て行く、ここへは戻ってこない。・・・そうか、僕、置いて行かれるのか。しちゃいけないと言われていたのに、言いつけを守らなかったから。落ちた蝋燭台に視線を落とすと、ぼたりと床に水が落ちた。あれ、と思っていると、視界が曇って椀が見えなくなった。ああ、僕、泣いてるのか。
「う、あ、」
「どうしました!?」
珍しくミールが大きな声で、僕の肩をつかんだ。顔を上げると、ミールが驚いた顔で僕を見ている。まあ、当然だろう。多分僕は酷い顔をしている。
「ううーっ」
「レイ、どうしました?泣いていてはわかりませんよ?」
「あ、わ、たし、」
「はい」
「お、いて、かれるんですか・・・?」
「はい?」
「だ、って、戻ってこない、って」
「・・・あなたも一緒に行くんですよ?」
「え・・・?」
「・・・・・・そうですね、私の言葉の選び方が間違っていました。あなたも身の回りのものをまとめてください。明日の朝、ここを発ちます。だから今日はゆっくり眠ってください。明日、たくさん歩きますから」
涙をぬぐいながら、僕は何度も頷いた。
*
準備と言っても、僕の持ち物などないに等しい。何着かの着替えと、数日分の食料を詰めた鞄をミールと僕とで分けて鞄につめた。
「では、行きましょう」
「はい」
森に入るのは、さ迷っていた一日を除けば、初めてだった。森に入って迷ったらもう二度と帰ってこられないような気がしていたからだ。しかし、ミールはさくさくと進んでいくので、僕も置いて行かれないよう必死について行った。陽が落ちてきたので、ミールは火をおこし、軽く夕食を取った。
「寝なさい」
ミールに促され、僕はマントにくるまって横になった。
*
夢を見た。
僕は、スカートをはいていて、目の前に女性が椅子に座っている。女性はぬいぐるみを抱いて、絵本を僕に読み上げている。女性は、妖精やら神話やら、そう言った話がお気に入りだった。正直、つっかえつっかえで途中でやめたりするので、聞きとりやすいというわけではなかった。女性が絵本を閉じて、僕の頭を撫でた。
「あなたは可愛いわねえ、るり」
*
目を開くと、火の番をしているミールの顔が見えた。白い頬に炎の揺らめきが映り込む。
僕は詰めていた息をゆっくりとはいた。嫌な夢を見た。日本にいたころの夢。
僕はいわゆる孤児で、小学校へあがるくらいまでは施設で育った。特に不自由はなく、十八でこの施設を出されるまではこの暮らしが続くのだと思っていたある日、突然引き取りたいという男が現れた。普通、孤児で引き取られていくのは三歳以下の自我もまだ芽生えていないような子どもたちで、その年ごろを過ぎると引き取り手はなかなか現れない。よほど容姿が美しいとか、頭がよいとか、スポーツなり芸術なりに才能があることもならばまだその可能性はあったけれど、僕は容姿も平凡だし、頭がいいわけでもなかった。しかも男はかなりの金持らしく、すぐに僕はその人の家に引き取られた。豪邸と呼べるような家の中に僕は迎え入れられ、服を着替えるように言われた。わけがわからないまま僕は黒スーツの男が持ってきたスカートをはいた。
「女としてふるまえ。髪も伸ばせ」
今思い出してみても、あれがあの男が僕に言った唯一の言葉だったと思う。着替えを終えると男はいなかった。服を渡してくれた黒スーツの男に、ある部屋の前へ連れて行かれた。
「奥さま、失礼いたします」
黒スーツの男がそう言って扉を開いて、僕に中へ入るよう促した。逆らえるような雰囲気でもなかったので仕方なく中へ入ると、部屋の中はピンクだった。抽象的だが、とにかくピンクだった。壁紙もピンク、おかれている家具も濃淡はあれど、ピンク色をしていた。申し訳程度にカーテンが純白だったが、部屋を見た最初の感想は人間の内臓みたい、だった。そして一番恐ろしかったのは、部屋の真ん中で五十代くらいの平均的日本人女性が、フリルであしらわれた年端もいかぬような少女めいた服装で笑っていたからだ。
「あら、るりじゃないの。なにをしているの?こちらへいらっしゃいな」
戸惑って部屋の入口に立ちすくんでいると、黒スーツの男に背中を押された。
「行ってください」
黒スーツの男の目には、同情と後ろめたさがにじんでいた。僕は言われるがまま女性の傍に歩いて行った。背後で扉のしまる音がして、逃げられないのだと諦めた。
「どうしたの、もっとこちらへ」
手招きされて近寄る。すると、子どものようにはしゃいで遊びましょうと手を握られた。
――あ。
柔らかくやさしい手だった。
「さあ、なにをして遊びましょうか。お手玉は好き?」
僕はこの日からずっと、学校で過ごす以外の時間を、この女性と過ごした。
るり、というのは、この女性の娘だったらしい。体が弱く、数年前に死んだ。その娘を失った女性は、徐々に正気を失い、今のようになったらしい。おもざしがよく似た僕を娘だと思って相手をさせるために引き取ったらしい。らしい、らしい、というのは使用人たちが噂しているのをこっそりと切れ切れに聞いただけだったので信ぴょう性は定かでないからだ。でも、それでも良かった。女性は最初こそ怖いと思ったが、危害を加えられるわけでもない。ただ、自分よりもはるかに年上の人間が子どものような表情と言動を取るというアンバランスさから恐怖を感じたが、自分の妻をこんなところに閉じ込めておくあの男のほうが空恐ろしかった。そもそも娘のかわりをあてがって機嫌を取っておこうなんて良く考えつくものだ。外聞を気にして医者にも見せに行っていないらしい。黒スーツの男は僕に同情的で、女装に無理が出てくるようになったら、あの男が何不自由ない暮らしを約束する、と言ってくれたが、無理が出てくるってなんだろうと僕は思った。男の僕がスカートをはいていること自体無理がある。庇護の手が必要なこともわかっていたし、孤児院に戻ることも黒スーツの男の話からは難しかろうと理解したので頷いておいた。大人は素直な子どもに好感を抱く。往々にして大人が本当のことばかり口にするのではないということを知っているくらいには、それは真理だった。
「レイ?」
ミールがこんなふうに親切にしてくれることに裏があるのだとしても、それでもいい。可愛げのない考え方だ。でも、ひとりで生きていけるほど、僕はまだなにも学んではいない。この世界のことを知らない。
「起こしてしまいましたか?」
僕は起き上がらないまま首を横に振って見せた。なんて失礼なことを考えているのだろう、僕は。
下心があろうが無かろうが、この人が僕を助けてくれたことに違いはないのに。
「明日も早いですよ。もう一度目を閉じなさい」
僕はミールの言葉に従って目を閉じた。眠りはすぐに訪れた。夢の続きは見なかった。