第十一話
僕は小さなカバン一つに必要なものをまとめ、ミールとタール・シュタインに頭を下げた。
「行ってまいります」
「気をつけて行ってらっしゃい」
「休みには必ず帰ってくるんだよ」
ミールとタール・シュタインが心配そうにそう言った。わかりました、と僕は答えた。
「ミラの奴もくればいいのだがな・・・」
ミラ夫人は朝食の後、ミールトタールシュタインの目が届かないところできちんと学んでいらっしゃいと言ってくれた。なんとなく、それはミールたちに言わない方がいいと僕は思ったので、黙っておくことにする。
「奥さまはお忙しいんでしょう」
僕がそう言うと、ミールとタール・シュタインは複雑そうな顔をしていた。
「あなたに、精霊王のご加護を」
ミールが僕の頬に掌を当てながら言う。青灰色の瞳が、本当に大丈夫かと見下ろしていた。
「はい。行ってまいります」
二度目の台詞を告げながら、僕は笑って見せた。ミールも少し笑みを浮かべた顔で「手紙を書きます」と言った。
「今晩は、お世話になります」
学園は、全寮制だ。しかし、入寮は明日からで、僕は再びシーアの家を訪れていた。中から現れたシーアは迷惑そうにも、なにも考えていないようにも見えた。ただ言葉少なにこの間借りた部屋に通される。御厄介になります、と僕は頭を下げて鞄をおろした。
「合格、おめでとう」
ぼそ、と小さな声だったが、シーアは確かにそう言った。つやのある黒髪は前髪が長すぎて表情があまり良く見えない。お世辞でもなんでも、祝福の言葉をかけられて嫌な気分になる人間はいないだろう。僕は頭を下げた。
「ありがとうございます」
「・・・食事ができたら呼ぶ」
それだけ言うと、シーアはさっと出て行ってしまった。
食事に呼ばれるまで僕はひたすら文字の練習をし、簡単な食事をとった後、再び文字の練習をしてから寝た。けれど、一向に上達しないどころかこれであっているのか間違っているのかさえ分からなくなってきて、眠ることにした。
朝、鐘がふたつなり、同時に目が覚めた僕はあわてて僕は起き上がった。下に降りて行くと、シーアが朝食の支度をしていた。
「おはようございます」
「おはよう。よく眠れたか」
「はい」
焦げ目のついた丸く薄いパンと、果物らしきものとなにかの乳が混ざった甘い飲み物。それから、塩漬けの肉の塊。この世界で肉はかなり貴重だ。それが、朝食に出てきている。豪勢な朝食だ、と僕は思いながら手を組んだ。精霊王へのあいさつを済ませてから、果汁の混ざった乳を飲んだ。甘くておいしい。屋敷ではおやつの時間によく出てきていた。シーアは塩漬けの肉をかじっている。薄いパンを咀嚼しながら「おいしいです」と言えば、シーアがちらりと僕の顔を見た。今日はひげもそってある。
「・・・なにか、学園で困ったことがあれば、いつでもここへ来い」
聞きとりづらい小さな声でシーアが言った。
誰かに、こんなふうに気を使ってもらえるのは、とてもうれしいことなのだ。それを、僕はこちらの世界に来てから知った。嬉しいような、むずがゆい気恥かしさで耳が熱くなるのを感じながら、この間から何度目かになる感謝の言葉を伝えた。
食事の後、僕はシーアに別れを告げて、学園へやってきた。
入学を許された生徒たちは入学式の前に寮へと荷物を預けに行く。僕も荷物を抱えて寮の廊下を歩いていた。今寮の中にいるのは荷物を抱えた新入生ばかりで、時々指導のためにかちらほら上級生の姿が見える。渡された札と合致する番号の部屋を開ける。ベッドと机と小さな本棚があるだけの小ぢんまりとした部屋だった。しかし、ひとりで生活するには十分すぎるスペースだった。着替えが数枚とタオルなど必要最低限のものが入ったカバンを置いて、入学式会場へ向かうことにした。扉を開けると、向かいの扉もちょうど扉が開き、中から出てきた少女と目があった。
「あら、あなたも新入生よね」
「はい」
「一緒に行かない?」
意思の強そうな深い蒼の瞳に、蜂蜜のような巻き毛の少女が、快活にそう言った。
「はい」
僕が頷くと、少女が首を傾げた。
「あなた、いやなら断ってもいいのよ?」
「いやじゃないです」
「そうなの?わたしはユーリ・サラシャよ。よろしく」
「レイ・シュタインです」
よろしくお願いします、と僕は頭を下げた。
「同い年・・・よね?」
ユーリが僕を見下ろしながら言った。確かに、ユーリが平均的な入学生の平均身長だとすれば、僕はずいぶん小柄な部類に入る。しかし、僕の場合年齢も曖昧だから、その質問には正確には答えかねた。しかし、ユーリは沈黙をそう重く受け取らなかったらしい。あっさりした口調で言った。
「同級生なんですもの、敬語はいらないわ」
「ごめんなさい、面倒を見てくださった方が、こんな口調だったので・・・」
こちらに来て教わった話し方がこれなので、砕けた口調と言うのが苦手なのだ。そう言うと、ユーリは合点がいった、というふうに頷いた。
「ああ、なるほど。なら、わたしはこのままでもいいかしら?」
「構いません」
僕が頷くと、なら行きましょうとユーリが言い、連れ立って歩き始めた。
寮は、この間試験を受けるときに訪れた建物から少し離れた場所にあった。人の流れに沿って歩いていくと、この間は中に入らなかった大きな建物の扉が開いて、人々はそこへ吸い込まれていく。扉の傍に立った上級生らしき青年が「新入生はこの中へ」と大きな声で呼びかけている。
ユーリに促され、僕は開かれた扉をくぐった。
入学式は、以前いた世界とそう変わらなかった。ひたすら、学園の教師や偉い立ち場の人間が長々としゃべる。席は決まっていなかったので、僕とユーリはほぼ中央あたりの席に座った。特に意味はない。隣をちらりと見ると、ユーリはちゃんと前を向いて気真面目に話を聞いていた。慌てて僕も壇上に視線を戻した。しかし、少しするとすぐに集中力は切れてくる。時計もないから、どれくらい時間が立ったかわからないのも辛かった。お尻が痛いな、と思い始めたころ、ようやっと式が終わったようだった。周囲が立ち上がり始めたので、僕もユーリも立ち上がった。
「この後、食事が出るようだから、一緒に行かない?」
「はい。ぜひ」
「・・・あなた、はいしか言わないのね」
「そんなことは・・・」
いやだと言わなければならないようなことを、まだ言われていない。他になんと言えばいいのかわからずに、僕はうつむいた。そういうつもりじゃないの、とユーリが言った。
「あなたがいやじゃないなら、いいの。わたし、せっかちで思ったことはすぐに言ってしまうから、いやだと思ったのなら、その場で言ってくれる?」
「はい。わかりました。わたし、いやじゃないです。あなたと一緒にお食事したいです」
僕がそう言うと、ユーリは「ならいいわ」と微笑んだ。
昼食を取った後、再び新入生は入学式を行った部屋に集められた。
「これから名を呼ばれたものは、呼んだ教師のもとへ行くように」
教団の上に教師らしき黒いローブをはおった者たちが現れた。そのうちの一人はトーイだった。
ユーリはだいぶ前に呼ばれ、赤毛の女性教師が呼んだ列に加わっていた。あまりにも長いこと名を呼ばれないので、もしかしたら自分の名前はないのではないかとバカげた心配をしてしまったが、ようやっと名を呼ばれた。
「レイ・シュタイン」
僕の名を呼んだのは、トーイだった。やさしげな顔を向けられ、僕はトーイのもとへ集まった生徒たちへ駆け寄った。
「えー、このクラスを担当する、トーイ・フィリップだ。と、まあ、今更だな」
それはそうだ。入学試験の会場にいたのだから。生徒たちからも笑い声が上がる。
ここは入学式を行った場所ではなく、入学試験を行った場所に似ていた。入学式会場のあった大きな建物から伸びる長い廊下の先にある建物の、螺旋階段の頂上。・・・バウムクーヘンのひとかけらみたいな形の部屋の壇上に立つトーイは、ぼさぼさの髪をかきまぜながら「じゃあ自己紹介してって」と右手をあげた。並んだ長机に適当に座っていた生徒たちはパラパラと立ち上がり、名前を告げては座っていく。僕も立ち上がり、名乗ってすぐに座った。
その日はそれで終わった。