第十話
日が落ちた後、シーアの待つ家に戻った。シーアは試験のことには触れず、疲れたか、と聞いてきた。それに「いいえ」と答えると、湯あみの支度をしてくれた。さっぱりした後、シーアが準備してくれた食事をし、早々と就寝した。
「お世話になりました」
朝食の後、馬車が行きかうところまでついてきてくれたシーアに僕は頭を下げた。シーアは相変わらず無愛想だったけれど、気をつけて帰れ、と見送ってくれた。
――そういえば、ミールと一体どういう知り合いなのだろう。
そんな疑問がわいて出たが、尋ねるほどのこともなかったので、僕は黙っていた。シーアは馬車が走り
だすまでそこに立って僕の方を見ていた。馬車が走りだした。僕が振り返ってシーアに向かって手をふると、シーアもふり返してくれた。
夕刻、乗り継いだ馬車から下りると、ミールが待ってくれていた。
「おかえりなさい」
「ただいま戻りました」
ミールの顔を見ると、ほっとした。思っていた以上に気を張っていたらしい。鞄を持ってシュタイン家の門をくぐると、タール・シュタインが出迎えてくれた。忙しいであろうに、お疲れさまとねぎらいの言葉までかけてくれた。僕はありがとうございますとだけ答えた。夕食はミールと、タール・シュタインと、ミラ夫人ととった。試験はどうだったと聞かれ、とりあえず全部かけましたと答えておいた。疲れていたが、黒板で文字の練習をしてから眠った。
次の日は、制服を作るために採寸をした。学園は六年ほどあるらしいとその時始めて知った。
制服は、女子は白いシャツに棒ネクタイ、紺のスカート。そして足首まで覆うローブ。基本的にこの格好で過ごすようだった。この世界に夏という概念はなく、一年中肌寒いくらいの気候なので、この格好の方がいいのだろう。
屋敷では、ひたすら文字の練習をした。読むのは問題ないのだが、書くのが遅すぎて、授業についていけないと思ったのだ。試験中も焦りすぎて、辛うじて読めるか読めないかくらいのみみずが這ったような文字になってしまった。文字が読めるようになってからは、字は自分で練習していただけだったので、ミールもようやっと僕の字が壊滅的に下手だということに気がついたらしい。だから、ミールが書いてくれた文字をひたすら書きうつし続けた。
その日は、屋敷で過ごす最後の日だった。長期の休みなんかには戻ってこられるらしいが、暫くは帰って来られないだろう。僕は、サーヤに会えないかと思って、絵本を抱えて庭のあたりを散策していた。
「レイ」
オレンジ色の花びらに目を奪われていたので、一瞬反応が遅れた。慌てて声の主を探すと、そこにはサーヤが立っていた。
「サーヤ、会えて良かったです」
サーヤは微笑んでいた。でも、どこかさみしそうにも見えた。それは、僕がサーヤをそういうふうに見ているからなのか、サーヤが本当にさみしいからなのか、判断がつかなかった。
「・・・暫くは会えないのね」
僕がなにも言っていないのに、サーヤはそう言った。僕は大して驚かず、うん、と頷いた。
「でも、また戻ってきます」
「・・・そうね」
オレンジ色の花びらが、サーヤの髪にひっついた。銀髪に絡み、また飛んでいく。僕はそっと聞いてみた。
「サーヤは、なにかしてみたいこと、ないですか?」
サーヤが驚いたようにひとつ瞬いた。きょとんとした顔が、可愛いと思った。そうね、とサーヤは小首を傾げた。
「海を見てみたかったわ」
「海?」
「そう。お屋敷の中にね、背表紙が深く澄んだ青い絵本があるの。それにはね、海の絵が描かれているのよ。とてもきれいな青い海。タイトルも内容も忘れてしまったわ。でもね、とても綺麗な青い海の絵があることだけは覚えているの」
屋敷の書斎には、それこそ山のように本がある。また機会があれば探してみよう、と僕は思った。その間にも、サーヤはその絵を思い浮かべているのか、どこか夢みがちな目をしてしゃべり続ける。
「主人公の男の子はね、森の奥に住んでいて、小さな湖しか知らないの。でも、そうしたらね、旅人のお爺さんが、主人公の男の子に言うのよ。『そんな水たまりを眺めていないで、きらめく海を見に行こう!』って」
「素敵ですね」
目の前にその情景が思い浮かぶ。僕も、海はテレビや本なんかでしか見たことがない。だから、いったいどんなものなのか想像もつかない。
「でしょう?」
ふふ、とサーヤは両手を胸の前で組んで、その場でくるりと回った。
「見てみたかったわ」
本当に残念そうにサーヤは言った。だから、僕も言った。
「わたしも、海は見たことがありません」
「あなたも?」
サーヤが僕をまじまじと見つめる。学校でそういう行事はあったけれど、僕は行けなかった。施設にいたころはそれが当たり前だったし、あの家に引き取られてからは、少しでも学校以外で家から離れることは許されなかった。
「・・・いつか、見に行きましょう。ふたりで」
「ふたりで?」
サーヤの目は、らんらんと輝いていた。その目は、この世のものとは思えないほど、不思議な色合いをしていた。でも、怖くはなかった。
だから、僕は頷いた。
「ええ、ふたりで」
「ふふふ、それはとても、とても楽しそうね!」
サーヤが嬉しそうに笑った。僕は、笑っているサーヤに差し出した。
「帰ってくるまで、この本、持っていてくれますか?」
「・・・わたしが持っていても、いいの?」
「この本は、嫌いですか?」
サーヤはふるふる、と首を横に振った。差し出した本が、サーヤの手に渡る。
「大好きよ。ありがとう、レイ」
風にさえかき消されそうなほどか細い声で、サーヤは言った。
サーヤの手には、ミールの妹が好きだった絵本。
僕はその光景に目を細めた。