BRAND NEW CHERRY
「はじめましてごきげんよう」
彼女は桜吹雪の中微笑んだ。長く黒い髪が春風になびき、桜の花びらが吹雪のように舞い落ちる。
しかし、道行く人々は誰も彼女に一瞥することはなく、彼女もそんな事を一々気にしてはいない。
例えば今彼女がした挨拶は大きな桜の木に向けられたものだとしても。
「今年のあなたは無口なんですね」
彼女は大人びた容姿で少女の笑顔を浮かべて桜を見上げる。曇り無い青空に桃色の桜は良く映えていた。
「また明日来ますね。ごきげんよう」
彼女は逞しい桜の幹に触れると鼓動を感じるように愛おしく撫でて、その場を去る。
街行く人々は、忙しなく往来する。
「また来たわ。ごきげんよう」 翌日、晴れ。満開の桜は今日も一枚、一枚と数多の花びらを散らせていく。風情にも今日の彼女は傘をさしていた。日傘ではなく雨傘を。
「また今日も凄いですね。綺麗綺麗」
返しの言葉はない。今日は木漏れ日が暖かい、温暖な日。しかし悲しきかな平日のこの日、彼女の周りには仕事に勤しむ人々の姿が。今日という日を満足に満喫出来ないことは実に哀れだ。とは思いつつも裏腹に自分は桜を独り占めにしているという勝手な優越感に浸る。
「思うにみんなはもっとアナタを観た方が良いと思いますね。一度、立ち止まって心行くまで。今この瞬間にでも、余裕を持って」
彼女は桜の木の下で無粋に眉を寄せたが、やはり人々は彼女の存在に気付くことはない。
「さて……と、また明日来ますね」
そう言い残し彼女はその場を立ち去った。雨傘をクルクルと回して鼻歌を歌いながら揚々と。
街は今日も人々で溢れかえるが、彼女のように立ち止まり桜を見上げることはない。
彼女曰わく、勿体ないことに。
「生憎の雨……ですが」
実に雨と言える雨が、今日一日を濡らす。彼女はそれでも顔に笑みを絶やさず、見上げれば灰色の曇天に塗りつぶされた空に色を着ける桜に感嘆の吐息を漏らした。
「雨に濡れるアナタも綺麗ですよ。でも……散るのが早くなってしまいますね……」
だがそれもまた一興。今までの桜は皆そう言い残してきた。
「はじめまして。あなたはどうして私にいつも話しかけるのでしょう?」
三日目、やっと桜から返事が帰ってきた。が、人々はそんな物に耳を傾けてはいない。聞こえてやすらしないのだから。
「やっとお話できますね。嬉しいです」
殊更、彼女の笑みに輝きが増す。
「あなたと話すのは初めてですけど……私は今まで毎年十五回、毎年違うアナタとお話をしてきたんですよ?」
「あなたは……生きてはいない方なんですね」
「ええ。ずっと昔に肉体は骨になった身です」
今度は、少し寂しそうな笑みを。
「でもあまり気にはしてないですよ? 死んだ身になればこうやってあなたとお話出来るようになれましたしね」
「……前向きな方なんですね。去年の私はどんな私でしたか?」
「たくさんたくさんお話をするような方でした。今年のアナタはあまり口数は多くないのですね」
そして彼女と桜は雨の中語らい続けた。
彩とりどりの傘が、互いに干渉せずに今日も街を行き交う。
「また来ちゃいました」
同日、夜。雨も上がった深夜、空は月に雲がかかる程度に晴れて。今宵は稀に観る夜桜日和。
「夜にこうやってアナタを観るのも私好きなんですよ?」
「物好きな方ですね。たかが私に会うために夜にまた訪れるなんて」
「アナタが綺麗ですからね。誘宵です」
「誘宵?」
「宵に誘われた、から誘宵。私の言葉遊びです」
アスファルト舗装の道路には桜の花びらが貼り付いて、彼女は月と並んだ桜を見上げる。
「雨が降った後は空気が澄んでますから月もよく見えますね。あなたに劣らず綺麗な月夜ですよ」
「……あなたは一人で寂しくないのですか? 何人にも干渉できず、この世をさ迷って」
「そうですね~……こんな今宵だからこそ吐露できる気持ちもあるのかも。正直に言えば私は寂しいです。けど孤独と感じた事はないですね」
「あなたは孤高な方なんですね」
「そんなに良いものではないですけどね」
桜が風に揺られた時、それはそれは笑ったように優しく。夜桜は常の散り際のものよりも儚く、煌めく。
彼女はこの光景を見ていつも感じる。真っ当に生きる命の力強さを。
彼女の魂は永くこの世に留まりすぎて、彼女自身にも何時この虚ろが終わるかは計り知れない。生きてはいない、確実死んでいる。
それでも彼女はそれを受け入れて存在する。桜にはそれが孤高でも彼女にはそんなものを孤高と名付けるのがおこがましく思っていた。
自分如きがそんなものを語る資格はないのだと。
「すっかりと花びらも散ってきてしまいましたね」
「格好良く言うならばそれは宿命ですからね」
「……怖くはないですか? 来年あなたがこの桜の花びらを舞わせるときはアナタではないですのに」
初めてではないだろうか。いつも微笑みを絶やさない彼女がこんな寂しそうに言葉を吐いた事に桜は少しばかり戸惑うも。
「いいえ。死ぬのではないのですから恐怖はありません。と、格好良く言ってみますが…………一つ辛いことがありますね。あなたとお話することが出来なくなる」
「私は……」
「でも私はここにいます。心はここにあります。生まれ変わってまたあなたと会う事が叶うなら一年待つのも一興でしょう」
「…………あなたは、前に私に言いましたよね……私の事を孤高な人だと。違うんです、実は私は自分からここを選んだんですよ。自分で命を絶って今ここで現世にしがみついてるんです」
堰を切ったかのように彼女の心の内が溢れ出す。止められず抑えられず。それでも明るく気丈に話す彼女だがかえって痛々しい。
「誰にも相手にされず、だから自分から死んで、でも消え去る勇気がなかったんですよね~。やっとアナタ達とお話出来て…………でも私は死んでから立ち止まったままで……だから私、全然孤高なんかじゃない、私は孤底の存在なんです」
「……可哀想ですね」
「……私、この話をしてそう言われるのは慣れました」
「いえ、あなたではなくあなたの生命が、です」
多分、桜がもしも人だったならば至極自然な様子でそう言ったと想像できる。
それほどまでに言葉にトゲはない。
「生命が可哀想……ですか……それは初めて言われましたね」
少し感心したように彼女は顎に手をやり、ふぅむ……と唸る。
「生命が可哀想……うん。いい言葉です。私が誰かに掛けて良い言葉ではないですが心にクるものがありますね」
「どうせこの世に生まれたなら正々堂々天寿を全うしなければ、生命に失礼ですからね」
「あなたがこの桜を散らせる事が正々堂々天寿を全うすることなら格好いいことこの上ないですね」
「私はそこに誇りを持っていますから」
全盛を過ぎた桜はそれでも美しく咲き誇るがだが刻一刻と散っていくとは目に見えて死んでいくのと同義。
もうすぐ先には自分の天寿があると言うのに桜は全く極めてその事を怖れてはいない。それはあまりにも眩しくて、眩しくて彼女は今になってそれを渇望する。変わり行く、移り行く桜に憧れを抱いて今を悔いている。
彼女は、人々の中で立ち止まって桜を見上げていた。
暦は五月となり桜は文字通り、散った。散り続けて散りきった。彼女はそれを最後まで見届けて最期まで桜の側に居続けた。
いつものように。
いつものことだったから。
「散りましたね~見事に」
やはり彼女は笑顔を携えて。
「これからまた暑くなる季節ですよ」
桜は何も答えない。夏に向けて新芽を宿し、今年も青青とした葉を付けるのだろう。
「以前あなたは言いましたよね。心はここにあると、ここにいますと。この別れで私はまた来年の春には違うあなたと合間見えるのですね」
全ては移ろう。人も木も季節も。
「でも来年はアナタも違う私とここで出会うんですよ」
例外はない。死んだものでも。
「私の心はここにある。あなたの心がソコにあるように私の心もここにある」
言って、彼女は自分の胸に手をあてがう。鼓動はなく、血潮もない存在で。
しかし心はあるのだ。
故に例外なく彼女もまた違うのだ。
「さて、来春を待つとしましょう。私がここにまだ居られたならのお話ですが。それではまた会う日までごきげんよう。おさらば」
彼女は言い残してその身を人の流れの中へと投じる。誰も彼女には気付いては居ないが、彼女もそんなことを気にしてはいない。
今日もまた、誰にとっても変わり行く日常。