勇者が来なかった村
「三袋、足りない」
レオン・ハルトは帳簿から顔を上げた。店の奥の塩袋は十二。帳簿には十五。
「トム。塩が三袋足りない」
「知らん」
「先週持ってっただろ」
「二袋だ」
「四袋」
「……三じゃなかったか?」
「増えたな」
パン屋のトムは干しリンゴをかじりながら笑った。
「塩三袋くらい誤差だろ」
「足りなくなってから数えても増えない」
帳簿に十五と書いてあっても、目の前に十二しかなければ十二だ。紙に書いた数字を眺めていても塩は増えない。
そのとき、蹄の音が村へ飛び込んできた。
青い外套の王国兵が馬から転がるように降りる。
「村長は! 魔王軍です。北東より六十前後!」
村長ガルドが駆けつける。兵士は続けた。
「勇者カイル様の一行がこちらへ向かっています。ベルナを経由し、遅くとも三日後には到着します」
村人たちが安堵する。
「王国の記録では、リーベル村は人口百八十七名。全周を木造防壁で――」
「百八十だ」
レオンが遮った。
「今の人口は百八十。防壁も三年前の洪水で南東が流されてる」
「ですが、記録には……」
「いつの記録?」
兵士は答えられなかった。
ガルドは受領書に署名した。レオンが署名欄を指すと、「目の前で聞いたろ」とぼやく。
「王都の連中は見てない」
レオンは店へ戻り、村の数字を書き出した。
《人口 百八十》
《戦闘可能 十六+一》
元D級冒険者の自分を、十七人目と断言する気にはなれなかった。
薬師のミリアが紙を覗く。
「老人十八、子供三十三……名前で書いて」
「人数を把握したいんだ」
「避難させるとき『老人十八人、こっち』って呼ぶの?」
レオンは面倒そうに別紙の名簿を出した。
◇
一日目、魔族は来なかった。
村人は防壁を直した。レオンは北側の川を利用し、木材を東へ集中させた。食料配分ではトムと揉めた。
「働ける奴に多めでいい」
「腹減るのは子供だって同じだろ」
結局、配給は作業量と年齢を見ながら調整した。
夜、勇者は来なかった。まだ一日目だった。
二日目、魔族の偵察隊が現れた。一人が村人の槍で死んだ。
死体は異様に痩せていた。革袋は空。水筒もほとんど空だった。
腰の小袋から木彫りの鳥が転がる。子供が削ったように左右の羽が不揃いだった。
夕方、再び襲撃。村人二人が負傷した。
「あと一日だ」
トムがパンを配った。
「明日には勇者様が来る」
三日目。
街道の端で少年ニコが木の棒を持っていた。
「勇者様、今日来る?」
「予定では」
「予定って?」
「大人が、たぶん大丈夫って言いたいときに使う言葉」
「ふうん」
「今のは忘れろ」
昼になっても、夕方になっても勇者は来なかった。
夜、食料庫に魔族四人が忍び込んだ。一人が転び、パンと干し肉と剣を落とす。
追手が迫る。
魔族は剣を捨てた。
パンを拾って逃げた。
レオンは地面に残った剣を見た。痩せた死体。空の革袋。パン。
「考えてる」
「ろくなことじゃなさそうね」
ミリアが言った。
勇者は、その夜も来なかった。
◇
四日目。
ガルドは「今日いっぱい待つ」と言った。
レオンは反対した。
「待つのはいい。来ない場合の準備も始めよう」
「勇者様は来る!」
「来たら、そのとき喜べばいい。でも来なかったら?」
食料は減る。矢も薬も減る。
「守るものを変える。村じゃない。村人だ。家も柵も畑も作り直せる。死んだ奴は戻せない」
ガルドが問う。
「具体的には?」
「まだ分からない」
「分からんのか」
「だから考える。勇者を待つだけなら考える必要もない」
ガルドは長く黙ったあと言った。
「やれ。責任は俺が取る」
レオンは白布を持って魔族の野営地へ向かった。
隊長ザグは、折れた角を持つ大柄な鬼人だった。
「用件を言え」
「小麦を売る」
「我々はお前たちの村を襲う」
「知ってる」
「金はない」
「知ってる」
「なら何を取る」
「働け」
ザグは奴隷になるつもりはないと拒否した。
レオンは立ち上がる。
「襲うなら早い方がいい。こっちは毎日柵を直す。お前らは毎日飯が減る。村を落として何人死ぬ? そのあと怪我人を抱えて小麦袋を運ぶのか」
「脅しか」
「計算」
帰り道、魔族の子供が木彫りの鳥を持っていた。死んだ魔族のものと同じ形だった。
その夜、魔族の使者が村へ来た。
「隊長が、もう一度話を聞くと言っている」
翌朝、二時間の交渉の末、契約が成立した。
食料と薬を渡す。代わりに防壁修理、伐採、運搬、警備をする。互いに傷つけない。
ザグが聞く。
「我々を信用するのか?」
「しない。だから契約する」
魔族は六十一人いた。
レオンは六十一人を追加戦力として数えかけた。
「戦えるのは三十一だ」
ザグが言う。
「六十一いるだろ」
「あれが兵士に見えるのか」
子供、老人、負傷者、熱を出した者。
レオンは帳簿の《追加戦力》を消した。
◇
共同作業は揉めた。
人間の大工と魔族は丸太の置き方で怒鳴り合い、水桶を共有することすら嫌がる者もいた。
トムも魔族へパンを焼くことを嫌がった。
「昨日まで食料庫を襲ってた連中だぞ」
「嫌なら俺が焼く」
「お前、パン焼いたことある?」
「ない」
「窯は?」
「使ったことない」
「触んな」
トムは結局、六十一人分のパンを焼いた。
レオンは能力だけを見て作業配置を組んだが、兄を魔族に殺されたハンスを魔族と組ませ、殴り合いが起きた。
ミリアが言う。
「人は帳簿じゃない」
翌日、レオンは配置を作り直した。何ができるかだけでなく、誰となら動けるかをザグや村人に聞いた。
帳簿の余白に《一緒に作業可》という妙な印が増えた。
五日目にも勇者は来なかった。
六日目にも来なかった。
いつの間にか、村人は勇者の話をしなくなった。
ニコは街道ではなく、魔族の子供と川で石を投げていた。
「こいつ嫌い」
魔族の子も何か言い返す。
それでも二人で遊んでいた。
◇
七日目。
ザグが言った。
「来る。我々の元上官、バルガスだ。百ほど」
「話は?」
「通じる。聞かんだけだ」
バルガスは村の食料を要求し、ザグに帰還を命じた。
「人間の餌を食って犬になったか」
「食えるものを食って何が悪い」
「恥を知れ」
「恥で腹が膨れるなら食ってみせろ」
ザグは戻らなかった。
レオンは逃走と防衛を比較した。老人や子供を連れて逃げれば追いつかれる。今は防壁があり、弓があり、人間と魔族を合わせて戦える者もいる。
「戦った方が、生き残れる可能性が高い」
勝てるとは言わなかった。
配置を決めた。
敵は東から来ると読んだ。
外れた。
夜、西側で鐘が鳴った。
油壺が飛び、防壁に火がつく。東からも鐘。南東からも叫び声。
三方向だった。
「どこへ回す!」
ガルドが叫ぶ。
レオンは決められなかった。
計画は始まって十分もせず崩れた。
ガルドがレオンの胸を押した。
「東へ行け! 西は俺がやる!」
「人数が――」
「知らん! 村長は俺だ!」
レオンは東へ走った。
ザグが三人を相手にしていた。
「遅い!」
「予定と違う!」
「敵に言え!」
レオンも剣を抜いた。肩を切られ、ハンスに助けられた。
そこでようやく、戦うより見る方へ戻った。
弓兵を屋根へ上げる。荷車を倒して隙間を塞ぐ。ザグを動かし、射線を作る。
それでも全部がレオンの指示ではなかった。
大工が勝手に防壁を塞ぎ、魔族の女が勝手に屋根へ上がり、ハンスが槍兵をまとめた。
計画どおりではない。
その方がよかった。
西ではトムたちが火を消していた。
昨日まで口を利きたくもなかった魔族と水桶を渡し合う。
「遅え!」
魔族が何か怒鳴り返す。
「何言ってんだ!」
言葉は通じなくても、水桶は通じた。
トムが次の桶を取りに走ったとき、倒れた柵から敵兵が入ってきた。
トムの手に武器はなかった。
空の桶を投げた。
「誰か!」
剣が動いた。
◇
レオンが西へ着いたとき、トムは倒れていた。
「……トム?」
返事はない。
パン屋の前掛けをつけたままだった。
レオンはしゃがみかけた。
「レオン! 東だ!」
ガルドが叫ぶ。
「でも」
「今は行け!」
レオンはトムを置いて走った。
そのことを、あとで何度も思い出した。
◇
夜半、バルガス自身が東門へ出た。
「ザグ! 戻れ!」
「どこへ」
「我らのところへ!」
「戻る場所などないと言ったのは、お前だろう」
「人間に飼われるか!」
「飯をもらった」
「同じだ!」
「代わりに働いた」
「誇りを売った!」
ザグは少し考えた。
「小麦より安かったぞ」
バルガスが突っ込んだ。
ザグとバルガスがぶつかる。
周囲の敵兵がザグへ向かう。
「行かせるな!」
レオンが叫んだ。
自分がバルガスを倒すことはできない。
ザグが一対一で戦える場所を作る。
それだけだった。
ハンス、ガルド、村人、魔族が敵を止める。
最後、バルガスが血と泥で足を滑らせた。
ザグは逃さなかった。
斧が入った。
バルガスが倒れた。
敵兵が逃げ始める。
「追うな!」
レオンとザグが同時に叫んだ。
ザグが言った。
「真似するな」
「そっちだろ」
戦いが終わった。
◇
朝。
家が三軒焼けた。納屋が二つ。羊が十一頭死んだ。
怪我人二十六。重傷七。
死者は村人三人、魔族四人。
レオンは名簿を開いた。
エド。
マルク。
トム。
そこでペンが止まった。
昨日までいた。塩を四袋持っていった。本人は三袋だと言っていた。倉庫から二袋しか見つかっていない。
「……どこやったんだよ」
返事はない。
レオンはトムの名前を消さなかった。死亡欄に名前を書いた。それだけにした。
パン屋へ行くと、窯の火が残っていた。
昨日トムと水桶を運んでいた魔族の若者が薪を入れている。
レオンを見ると、気まずそうに立ち上がった。
「それ」
レオンは窯を指した。
魔族は何か言った。言葉は分からない。
火を指す。
魔族が頷く。
消さなかった。
ただ、それだけだった。
「……ありがとう」
通じたかは分からない。
魔族はまた薪を一本入れた。
◇
昼前。
街道に五騎の人影が現れた。
先頭は汚れた白い外套。背中には聖剣。
勇者カイルだった。
誰も歓声を上げなかった。
カイルは村の入口で馬を降りた。左足を引きずり、外套の下は包帯だらけだった。仲間たちも同じだった。
壊れた柵。焼けた家。人間と魔族が一緒に瓦礫を運んでいる。
カイルはそれを見てから、ガルドへ深く頭を下げた。
「すまない。遅くなった」
ガルドが聞いた。
「何があった」
「ベルナだ」
レオンは伝令の言葉を思い出した。
「五日前、魔王軍約三百がベルナを襲った。町の守備隊だけでは持たなかった」
「何人いる町だ」
レオンが聞く。
「千二百ほど」
「助かったのは?」
カイルは少し黙った。
「千百七十三人」
二十七人は死んだ。
でも千百七十三人は生きた。
レオンは壊れた柵とトムのパン屋を見た。
「じゃあ、そっちへ行って正解だったんだと思う」
カイルが何か言おうとする。
「ただ、だからって俺たちが怖くなかったことにはならないけどな」
カイルは口を閉じた。
「……すまない」
それだけだった。
誰が悪かったのかを決めても、トムは帰ってこない。
「それ、本物?」
ニコが勇者の聖剣を指していた。
「これか?」
「うん」
カイルは自分の剣を見る。
「たぶん」
「勇者なのに?」
「勇者でも分からないことはある」
「ふうん」
ニコはすぐ興味を失い、魔族の子供のところへ走っていった。
カイルがその背中を見る。
「……あれは?」
「魔族」
「それは分かる」
「なら聞くなよ」
説明は長くなりそうだった。
◇
勇者一行は二日滞在した。
怪我人の治療を手伝い、柵を直し、焼けた家を片付けた。
聖剣で丸太を切ろうとしてザグに止められた。
「そんな物で木を切るな」
「よく切れるぞ」
「そういう問題ではない」
結局、大工から斧を借りた勇者は「下手くそ!」と怒鳴られていた。
三日目の朝、カイルたちは出発することになった。
「この村を守ったのは、あなたなんだそうだ」
カイルがレオンに言う。
「違うよ。俺一人だったら二日目くらいで死んでる」
レオンは村を見る。
大工。ミリア。ハンス。ガルド。ザグ。魔族たち。
そしてパン屋。
トムの妻と娘が窯に立ち、昨日の魔族の若者がひどい形の生地を作っている。
「俺がやったのは数えただけだ。人と、飯と、使えるもの」
「それで村が救えるのか」
「救えてないだろ。三人死んだ。魔族も四人」
カイルは黙った。
「だから、救ったとか言われると困る。生き残っただけだよ」
「それでも、すごいことだ」
「じゃあ、みんなに言ってくれ」
カイルは笑った。
出発前、ガルドが言った。
「今度は三日と言わずに来い」
「努力する」
勇者一行は村を出ていった。
今度は何人かが手を振った。
◇
生き残ったあとの方が面倒だった。
家がない。柵は穴だらけ。薬も小麦も減った。
そして魔族がいる。
「いつまでいるんだ」
村人から当然の質問が出た。
レオンはザグに聞いた。
「いつまでいる?」
「知らん」
「行く場所は?」
「ない」
「じゃあ探す?」
「どこを」
「知らん」
「役に立たんな」
「お前に言われたくない」
村全体で話し合った。
三時間かかった。
最初の一時間はほとんど怒鳴り合いだった。
結論は中途半端だった。
魔族はひとまず村の南側に住む。空いた土地を使う。働いた分の食料を渡す。畑を作るなら土地を貸す。問題が起きたら、その都度考える。
ミリアが言った。
「最後、全部『その都度考える』じゃない」
「起きてない問題の答えなんか分からん」
「あなたらしいわ」
翌日から南側で家を作り始めた。
人間の大工と魔族は、また怒鳴り合っていた。
仲良くはなっていない。
それでも同じ家を作っていた。
◇
十日ほどして、王国の役人が来た。
勇者から報告が届いたらしい。
役人は村の魔族を何度も見た。
「これは……捕虜ですか?」
「違う」
ガルドが答える。
「では傭兵?」
「それも違う」
「では何なのです?」
ガルドがレオンを見る。
見るな。
レオンも分からない。
「住んでる」
「はい?」
「ここに」
役人は手元の紙を見て、村を見て、また紙を見る。
どこかで見た動きだった。
「王都へ人口、被害、戦死者、家屋、家畜、それから魔族について報告をお願いします」
「明日までに作る」
◇
夜。
雑貨屋の机で帳簿を広げた。
焼失家屋三。納屋二。羊十一。
村人死亡三。
魔族死亡四。
村人は百八十から百七十七。
魔族は六十一から五十七。
レオンは書いた。
《村人 百七十七》
《魔族 五十七》
ペンが止まった。
計算は合っている。
百七十七と五十七。
合計二百三十四。
塩三袋のときとは違う。
数字は間違っていない。
それでも、何か違った。
外で声がする。
店を出た。
南側で人間の大工と魔族が家を作っている。
「だからそこじゃねえ!」
「ではどこだ!」
「こっち!」
「最初からそう言え!」
その横をニコと魔族の子供が走っていく。
「返せ!」
「嫌だ!」
魔族の子が覚えた人間の言葉らしい。
パン屋ではトムの娘が窯からパンを出している。魔族の若者が一つ取ろうとして手を叩かれた。
「まだ!」
「一つ」
「駄目!」
「小さい」
「駄目!」
普通に喋っていた。
レオンは店へ戻った。
《村人 百七十七》
《魔族 五十七》
二本の線を引いた。
新しい王国指定の報告書を出す。
村名。
リーベル村。
被害。
死亡者。
負傷者。
最後。
人口。
《現在の生存者 二百三十四名》
書いた。
それだけだった。
◇
翌朝。
ガルドに書類を渡した。
「確認して」
「また書類か」
「村長だろ」
「お前が村長になれ」
「絶対嫌だ」
ガルドが読み進め、最後で止まった。
「二百三十四?」
「ああ」
「数、違わないか」
「合ってる」
「村人は百七十七だろ」
レオンは帳簿を見なかった。
「昨日まではな」
ガルドが顔を上げる。
窓の外ではザグが丸太を担ぎ、その後ろから大工が怒鳴っている。
ガルドが鼻で笑った。
「揉め事が増えそうだな」
「もう増えてる」
「食料も足りん」
「畑増やす」
「家もいる」
「作ってる」
「王国が何と言うか分からんぞ」
「そのとき考える」
ガルドはため息をつき、ペンを取った。
レオンが指差す必要はなかった。
署名する。
「これでいいか」
「ああ」
書類を受け取る。
ガルドが店を出ようとして、振り返った。
「レオン」
「何」
「塩の件、どうなった」
一瞬、分からなかった。
思い出す。
「まだ一袋足りない」
「トムの倉庫は?」
「全部見た」
「じゃあどこ行った」
「知らない」
ガルドが笑った。
「帳簿係が聞いて呆れるな」
「うるさい」
ガルドが出ていった。
レオンは棚を見る。
あれから塩は何袋も使った。もう最初の数字なんて意味がない。
帳簿を開く。
トムの名前がある。
そこだけ少し見た。
消さない。
死亡欄には記録した。
でも、元の名簿から線を引く必要はないと思った。
帳簿を閉じる。
外へ出た。
朝だった。
壊れた柵を直す音がする。
パンの匂いがする。
人間の声。
魔族の声。
喧嘩する声。
笑っている声。
全部、同じ村から聞こえてくる。
三日だけ耐えればいいと言われた村。
勇者を待っていた村。
勇者が来なかった村。
そこには今、二百三十四人が暮らしていた。




