「まだ、弟子じゃなかった日」
その日、与太郎はブログを書いていなかった。
書こうとして、やめた。
世界の終わりも、日本の行方も、
今日はどれも言葉にする気が起きなかった。
ノートパソコンを閉じ、
理由もなく山奥の寺まで歩いた。
「……ここ、WiFiあるんだよな」
それだけが目的だった。
寺の境内は静かで、
人の気配も、説法の声もない。
与太郎が縁側に腰を下ろした瞬間、
違和感に気づいた。
WiFiルータの上に、何かいる。
小さい。
ねこ耳。
正座。
「……なんだ、それ」
しゃみは振り向いた。
「にゃむ」
それだけ言った。
与太郎は一瞬、
幻覚か疲労かを疑ったが、
どちらでもないと判断した。
「……ここ、お前の場所か?」
「うん」
「勝手に使っていいのか」
「誰のものでもないにゃむ」
与太郎は少し笑った。
「いい答えだ」
しばらく沈黙。
風の音。
ルータの小さな点滅。
与太郎は、
なぜかここで“逃げなくていい”と感じていた。
「……お前、何してる」
しゃみは少し考えてから答えた。
「隣に座ってる」
「誰の?」
「疲れた人の」
与太郎は目を細めた。
「世界、救ってるつもりか」
「救ってないにゃむ」
即答だった。
「じゃあ、何だ」
「重くならないようにしてる」
与太郎は、その言葉で完全に足を止めた。
「……それ、
一番やっちゃいけない役目だぞ」
「どうして」
「世界を背負わない代わりに、
誰かの“逃げ場”になる」
「うん」
「逃げ場はな、
必要だけど、
感謝されない」
しゃみは首をかしげた。
「感謝、いる?」
与太郎は答えなかった。
そのとき、
与太郎のスマホが震えた。
通知はゼロ。
電波はある。
それなのに、
なぜか胸が少し軽くなっている。
「……お前、名前は」
「しゃみ」
「変な名前だな」
「師匠も」
与太郎は吹き出した。
「師匠じゃない」
「じゃあ、何」
「……与太郎だ」
「よたろう」
しゃみは、その名前を
一度、口の中で転がした。
「与太話みたいな名前にゃむ」
「よく言われる」
与太郎は立ち上がり、
帰ろうとした。
だが、最後に振り返って言った。
「なあ」
「にゃむ」
「俺は世界を救うためにブログを書いてる」
「うん」
「でも、多分、救えない」
しゃみは少し考えてから言った。
「じゃあ、書かなくていい日もあるにゃむ」
与太郎は、その言葉に
なぜか胸を突かれた。
「……」
「師匠」
「だから違う」
「じゃあ、
世界のこと考えすぎてる人」
「長い」
「よたろう」
与太郎は、
その呼び方を否定しなかった。
帰り道、
与太郎は久しぶりにブログを更新した。
タイトルは短かった。
「救わない人に、救われた日」
本文は、ほとんど書かなかった。
その夜、
しゃみはWiFiルータの上で
うさぎの動画を見ていた。
説明のない叫び。
理由のない行動。
「……」
しゃみは小さく合掌した。
「この人、
弟子にしなくていいにゃむね」
それが、
二人の始まりだった。
おわり




