女王さまとボッチの御曹司
十一月の横須賀。
海風は冷たくあたしの頬を撫でるけれど、あたしの脳内演算回路は、不純物まみれの妄想によって臨界点を超えていた。
「勇希。……あたしを、開発しなさいな」
第一京浜を爆走するバイクの背後で、あたしは叫んだ。
それは、高貴なる黒木舞桜が、愛する勇希という名の暴君に捧げた、究極の降伏宣言。
……のはずだった。
ヘルメットのスピーカーが、あたしのその「秘められた性癖」を、音速を超えて周囲へと垂れ流していたとも知らずに。
国家予算を動かし、雷さえも支配下に置くあたしの知性が、まさか「設定ミス」という初歩的なバグによって、実の父親やバスの乗客たちの前で全裸同然に晒されるなんて。
当然の帰結よね、なんて笑えないわよ!
成金御曹司の万桜が札束でラボの壁をぶち抜き、サブリナが高級チョコで買収され、愛しの勇希が嫉妬のあまりあたしの胸に解剖学的なアイアンクローを叩き込む。
「ひゃんッ! ……ちょ、痛いわ、勇希! そこ、あたしの繊細な乳腺が物理的に破壊されてしまうわッ!」
羞恥で顔面をプラズマ加熱させながら、あたしは戦う。
家族のジト目と、社会的な死と、そして自分の内側で暴走し続ける「メスに堕とされたい」という非論理的なプログラムに。
戦うクールビューティー、黒木舞桜。
今夜、あたしの純潔という名の鉄壁の論理が、横須賀の夜に甘く、激しく、デバッグされる!
「おお、我が最愛天使。舞桜。名前を変える気になったかい?」
暑苦しい声があたしの鼓膜に響くことを拒絶した。
あたし、黒木舞桜は、瞳に絶対零度の殺気を宿し、茅野万桜を射抜いた。
「サブリナぁ、なんか言ったぁ?」
あたしは拒絶する。大手ゼネコン茅野建設の御曹司、茅野万桜の言葉と存在を。
なんだマオウって。役所、仕事しろよ。
「ええ、言ってない。小鳥の囀りじゃ~ん?」
サブリナもスルーする。
が、
「サブリナの旦那。どうかこれで、ひとつ。お願いしやすよぉ」
万桜は、サブリナを高級アイスチョコで買収する。
「茅野屋よ。そなたも悪よのう?」
う、売りやがった。
なんてヤツだ。
「なにしに来たのよ茅野? ここは関係者以外は立ち入り禁止よ?」
あたしの塩対応に、茅野は不敵に笑った。
「ここウチのテナント。俺、関係者。莉那ちゃんも居ていいって言ったもーん」
居直りやがった。
「おだまれ! この成金御曹司!」
ビームでも放出しそうな鋭い視線が、高級チョコを頬張るサブリナこと福元莉那と、その隣でニヤつく男の眉間を貫く。
「ここが茅野建設の持ち物だなんて、非論理的な地主の横暴だわ! 大体、名前を変えろってプロポーズ? せめてお友達になれてからにしてくんない」
あたしは不機嫌さを隠そうともせず、鼻を鳴らした。
名前が似ているというだけで、運命的な繋がりを主張してくるこの男の存在は、あたしの脳内リソースにとって有害なノイズでしかない。
「そんなに怒るなよぉ、舞桜。ほら、君の好きな特製アボカドスムージーも持ってきたよ?」
万桜が、いかにも胡散臭い笑顔で銀のトレイを差し出す。
「毒でも盛ったんでしょ! そうやってあたしを昏睡させて、逃げ場のない白い部屋へ連行し、あたしの知性と純潔を蹂躙しながら『苗床』として再開発しようっていう魂胆じゃないの!?」
あたしは反射的に身を強張らせ、自分の身体を抱きしめるようにして後退した。
講堂でのガムテープ事件以来、あたしの被害妄想は、あらゆる「施し」をエロマンガ的な罠へと変換する高性能なバグを搭載したようだ。
「……舞桜、落ち着けよ。茅野、引き攣ってるから。あと開発の方向性が、インフラ整備から逸脱しすぎだよぉ……」
ラボの隅で、今日ものんびりと医学書を読んでいた白井勇希が、困ったようなジト目を向けてきた。
「あら、勇希。あんた、この男があたしに卑猥な目的で接近しているのを、黙って見ていられるの!? あんたのその清らかな理性は、あたしが『物理的にわからせ』られるのを待っているというのかしら!」
あたしは、愛しの勇希にまで矛先を向け、顔を真っ赤にして詰め寄った。
「ひ、ひいっ!? 言ってない! 僕はただ、舞桜の脳内が心配なだけだよ!」
勇希が諸手で顔を覆って蹲る。
「……おい、なんだこの混沌?」
ずっと貝になっていたフニャチン拓矢が、ようやく口を開いた。
「おだまりやがれッ、このフニャチン野郎! あんたは大人しく、この不法侵入した万桜を、物理の法則に従って外へ排出しなさいな!」
あたしは、拓矢の股間へと本日一発目のアンダーアイアンクローを炸裂させた。
「あ、が……っ!? 理不尽……すぎる……っ!」
拓矢の絶叫がラボに響き、莉那はチョコを食べながら「またやってる~」と楽しそうに笑っている。
横須賀の11月は、あたしの暴走する被害妄想と、賑やかすぎるノイズによって、冬の気配を感じさせないほどに加熱していた。
「舐めんなよ茅野? あたしが黙ってテメエの蹂躙を許すと思ってか?」
あたし、黒木舞桜は、氷のような冷徹な視線で茅野万桜を射抜いた。
鋭い眼光が、高級チョコを貪るサブリナを通り越し、不遜な御曹司の眉間を貫く。
「あたしの後ろには、泣いて謝った国のトップがいるのよ。あんたの会社なんて、あたしの一言で物理的に解体できるって理解してるかしら?」
あたしは先日の一件で総理大臣に作った「貸し」を、冷徹な論理の切り札として突きつけた。
「……っ!? ひ、ひいっ! 舞桜、怖い、怖いよぉ! その目はマジでヤバいヤツだろ!」
万桜は、あたしから放たれる目に見えるほどの殺気に気圧され、ガタガタと震え出した。
「おだまりやがれ! あたしをガムテープで縛って『開発』しようとした連中と同じ末路を辿りたいのかしら!?」
あたしは不機嫌さを爆発させ、一歩前へと踏み出した。
★▲★▲★
「拓矢のは、黒くないけど硬いぞ舞桜? てか味見が過ぎねえ?」
莉那が高級チョコを齧りながら、とんでもない爆弾を投下した。
一瞬、ラボ内の空気が絶対零度の氷河期へと叩き落とされる。
あたし、黒木舞桜は、自分の右手がまだ拓矢の股間を万力のように締め上げている現実に、脳内リソースのすべてを動員してフリーズした。
「……は? な、なにを、なにをおっしゃっていますの、このギャルは!?」
あたしは沸騰した顔面を隠すように、拓矢の股間から弾かれたように手を引き抜いた。
指先に残る、あの異常なまでの硬度と、鍛え上げられた筋肉の熱量。
それが「黒くて硬い」という卑猥極まりない言語表現と脳内で連結され、あたしの被害妄想回路が爆発的なオーバーロードを起こす。
「味見……? あ、あたしが、このフニャチン野郎のナニかを、あんなことやこんなことするために事前検品していたとでも!?」
あたしは潤んでなどいない、血走ったような鋭い視線で莉那を射抜いた。
「違います! これは純粋な物理的制裁! あたしを『開発』しようと企む不届き者への、正当防衛としての『わからせ』ですッ!」
あたしは真っ赤になった顔を誤魔化すように、意味もなくラボのホワイトボードを叩いた。
「……舞桜……さん……。黒いのは……俺が履いてる……タクティカルパンツの……生地の色だろ……。硬いのは……鍛えてるからで……」
地面に這いつくばったまま、拓矢が虫の息で論理的な反論を試みる。
「おだまりやがれ! そんな卑猥な物質的特性を誇示して、あたしの純真な思考を汚染しようとした罪は重いわよ!」
あたしは再び拓矢へと襲いかかろうとしたが、隣で固まっていた勇希の視線に気づき、動きを止めた。
「……勇希。今のは違うの。あたし、別にこいつの『黒くて硬いもの』に興味があるわけじゃなくて……!」
「…………」
勇希は、見たこともないような虚無の表情で、あたしと拓矢を交互に見つめていた。
「ああっ、もう! 全部茅野、あんたがここに来たせいよ! 責任取って、今すぐこのラボから物理的に消滅しなさいな!」
あたしは全ての元凶である成金御曹司を指差し、絶叫した。
★ ◆ ★ ▲ ★
「拓矢ぁ、あたしじゃ不満んんん~?」
サブリナのコキュートスは、留まることを知らずに波及する。
その言葉に含まれた、底なしの沼のような、それでいて軽薄なまでの色気に、ラボ内の温度がさらに数度、物理的に低下した。
「え、舞桜……拓矢と、その……したの?」
勇希が俯き、消え入りそうな声で呟いた。
その声音に含まれた、湿り気を帯びた絶望の響きに、あたし、黒木舞桜は、一瞬だけ思考の歯車を止めたわ。
「あたしと拓矢が、なにをするのよ?」
あたしは、自分の中に芽生えた不可解な動揺を隠すように、あえて挑発的な笑みを浮かべて囁き返した。
知性の勝利を確信する、いつもの冷徹な女王様を演じたつもりだった。
けれど、次の瞬間。
「……っ!?」
衝撃が走った。
勇希の右手が、あたしの薄い着衣越しに、右の乳房を鷲掴みにしたのよ。
それは慈しむような愛撫などではなく、獲物の骨を砕かんとする猛禽の爪……。
圧倒的な物理的圧力が、あたしの神聖な領域へと炸裂したわ。
「ちょ、痛いわ。放して勇希……」
あたしは、肺から空気が漏れ出すような掠れた声を上げた。
抵抗しようと勇希の瞳を覗き込んだ瞬間、背筋に凍るような悪寒が走る。
笑っていない。
勇希の瞳が、一点の光も通さない深淵のように、冷たく、昏く、あたしを射抜いている。
ヤバい。
こいつ、完全にキレてるぅ!
「物理的な……制裁……? 再教育……? そんなに味見がしたいなら、まずは僕が、舞桜の身体の隅々まで解剖してあげなきゃいけないよね……」
勇希の低い声が、あたしの鼓膜を震わせる。
「な、なにを、なにをおっしゃっていますの、この医学生……っ! これじゃ、あたしが成人向け漫画の、逃げ場のない白い部屋で蹂躙される女主人公みたいじゃないの!」
あたしは、あまりの恐怖と、経験したことのない屈辱的な刺激に、顔面をプラズマ級に加熱させた。
「莉那、茅野、逃げるぞ……っ! 今の勇希は、物理法則じゃ止められない!」
拓矢が股間の痛みを堪えながら、脱兎のごとく出口へ向かう。
「……って、待ちなさいッ! 下僕のくせに、あたしをこの肉欲の魔王の生贄にして逃げるつもり!?」
あたしの絶叫も虚しく、ラボの扉が虚しく閉まる音が響いた。
残されたのは、激しい独占欲を剥き出しにした勇希と、その手の中で無残に形状を変えるあたしの身体だけ。
ひいっ!
あたしの純潔、今日こそ物理的に開発されて、牝に堕とされてしまう!?
★ ◆ ★ ◆ ★
「解剖……? そ、そんなに医学的な知的好奇心に溢れた瞳で、あたしの組織を検分しようとしないで……っ!」
あたし、黒木舞桜は、右胸を蹂躙する勇希の指先から伝わる圧倒的な「熱」に、脳内の演算装置が焼き切れそうになっていた。
目の前の勇希は、あたしを未知の症例として弄ぶ冷徹な研究者へと変貌している。
「……拓矢と、なにを、どこまで、どういう物理現象として共有したのか……。吐き出させてあげるよ、舞桜」
勇希の低い囁きが、あたしの鼓膜を官能的に震わせる。
このままでは、あたしの清らかな知性は、勇希という名のブラックホールに呑み込まれ、事象の地平線の彼方へと消失してしまう!
「や、やめ……。そんな、逃げ場のない白い部屋の実験台にされるような展開……あたしのデリケートな論理回路が、耐えられるわけ……あぁんッ!」
更なる握り込みの衝撃に、あたしは背中を大きく反らせた。
「……あ、あら? ちょっと待ちなさいな、勇希」
あたしは、熱に浮かされた瞳をパチリと開き、至近距離にある勇希の顔を凝視した。
「……なに? 言い訳なら、後でじっくり聞いてあげるから」
勇希の指先が、あたしの着衣のボタンへと、無慈悲な解体作業を開始しようとした、その時。
「あんたのその右手、アイアンクローの角度……さっきあたしが拓矢に叩き込んだ、股間へのアンダーアイアンクローの軌道と、左右対称で完璧に一致しているわ!」
あたしは潤んだ瞳を輝かせ、驚天動地の発見を宣言した。
「……は?」
勇希の動きが、一瞬だけ止まる。
「いい、勇希! あたしの右胸に加わっているこのベクトルの合成力。これは、あたしが拓矢の下半身に与えたモーメントと、完全に逆位相の関係にあるのよ! つまり……あんた、無意識のうちにあたしと『協力』して、このラボ内の物理的なエネルギー保存の法則を完成させようとしているのね!?」
「…………舞桜?」
勇希の瞳から、少しずつ殺気が抜け、代わりに深い「呆れ」という名のノイズが混ざり始める。
「当然の帰結よね! あんたがあたしの胸を揉めば揉むほど、拓矢の股間の痛みは宇宙の総エネルギーとして等価に変換され、あたしたちの愛は物理的な調和へと至るわけだわ! ああっ、素晴らしい! これが、愛の熱力学第二法則……ッ!」
あたしは、自分勝手な理屈を爆速で連結させ、真っ赤な顔で勝利のポーズを決めた。
「……もう、いいや。舞桜の脳内、やっぱり成人向け漫画と物理の教科書が、変な化学反応起こして爆発してるだけだね」
勇希は深い吐息とともに手を離し、がっくりと肩を落とした。
そのまま、あたしの頭を「アホの子をあやす」ような優しい手つきで、ぽんぽんと叩く。
「ひ、ひどい! あたしの気高い論理をアホ扱いですなんて! ……でも、その……開発されないで済んだのは、物理的な勝利と言わざるを得ないわね」
あたしは乱れた着衣を整えながら、不機嫌そうに、けれど少しだけ名残惜しそうに唇を尖らせた。
横須賀ラボの夕方。
あたしの不治の病である「被害妄想という名のバグ」は、今回もまた、アホな物理のオチへと力学的に帰結したのだった。
当然の帰結よね。
★ ◆ ★ ◆ ★
「おまえ……ホントにしてないよね?」
勇希が拓矢の肩に腕を回し、ヘッドロックを掛けながら問い質す。
あたしの彼氏、白井勇希は、最高学府の医学部に通う中性的な美青年であると同時に。
「いや、してないってばマジですってば」
拓矢が必死の形相で否定する。
「ホントぉにぃ? ホントぉにござるかぁ?」
勇希は、この四人の中で最も凶悪だ。じつは。
今も20センチも背が高い斧乃木拓矢の臀部を、膝でゲシゲシ蹴りつけている。
あたし、黒木舞桜は、右胸に残る痛みの余韻に、思わず身を縮めた。
医学的に鍛えられた指先によるアイアンクローは、物理現象という言葉で片付けるには、あまりにも破壊的すぎたわ。
「……ちょっと、勇希。あんた、握力がつよいんだからオッパイにアイアンクローはやめて欲しいわ。あたし、泣きそうに痛いんですけど……っ!」
あたしは潤んだ瞳を隠すように、乱れた着衣を必死に整えながら抗議した。
「ああ、ごめん舞桜。でも、拓矢が君を味見したとか言うから……。つい、解剖学的な興味が暴走しちゃって」
勇希は、拓矢の首を絞め上げたまま、爽やかな笑顔をあたしに向けた。
目が、やっぱり笑っていない。
「だから! それは拓矢のズボンの生地と筋肉の話でしょ! 味見っていうのは、あたしが物理的に制裁を加えたことへの比喩表現なのよ! 当然の帰結よね!」
「……帰結してねえよ……。俺、死ぬぞこれ……」
拓矢の顔が、酸素不足で紫色に変色し始めている。
「サブリナぁ、あんたもなんとか言いなさいな! あんたが下劣な言葉選びをするから、あたしの神聖な乳房が物理的な蹂躙を受けることになったのよ!」
あたしは、まだチョコを呑気に食べているサブリナに矛先を向けた。
「え~? だって拓矢、舞桜に揉まれて、なんだかんだ嬉しそうだったし~」
サブリナが、火に油を、それも高純度のガソリンを注ぐような言葉を投下する。
「……拓矢。やっぱり一回、開腹して中身を確認した方がいいかな?」
勇希の声が、冷徹な執刀医のそれへと変貌した。
「やめろぉ! 医療ミスに見せかけて抹殺する気満々だろ!」
十一月の横須賀ラボ。
あたしの被害妄想が引き起こしたエネルギーの不均衡は、勇希の嫉妬という名の、圧倒的な物理圧力に帰結しようとしていた。
当然の帰結よね!
★ ◆ ★ ◆ ★
「そう言えば、拓矢……この前、舞桜を防大までガムテで簀巻にして拉致したよね」
斧乃木拓矢の彼女であるはずのサブリナのヤツが、勇希を使って制裁するつもりのようだ。
売りやがった。
油を業火に投入するな。
案の定、勇希のアイアンクローが今度は左……いや、右に炸裂する。
あたし、黒木舞桜は、あまりの衝撃に言葉を失った。
「あがぁっ!? や、やめて勇希、そこ、さっきより感度が……あたしのデリケートな乳腺が破壊されてしまうわ!」
あたしは不機嫌さを爆発させ、潤んだ鋭い視線を勇希に向けた。
「……拉致? ガムテープで簀巻? 拓矢、君は僕のいないところで、舞桜をそんなエロマンガ的なシチュエーションで拘束したわけ?」
勇希の声は、絶対零度を通り越して、魂を凍りつかせる暗黒物質のようだった。
「ぎ、ぎゃあぁぁぁぁっ! 違う、あれは総理大臣の命令で、国家的な緊急事態だったんだってば! やめろ、その指の角度は医学生がやっていい加減じゃないだろ!」
拓矢が、音速を超えた絶叫とともに悶絶する。
「ホントぉにぃ? 国家の命令なら、女の子をガムテで縛ってもいいって、どの教科書に書いてあるのかなぁ?」
勇希は、拓矢の臀部を膝でゲシゲシ蹴りつけながら、さらに握力を強めた。
★◆★◆★
「してたら、どうしようか舞桜?」
物理的制裁を加えられた、あたしと拓矢にサブリナが冷たい声音で恫喝する。
サブリナの瞳は、面白がっているようにも見えるけれど、その奥に潜む絶対零度の圧力は、深海6000メートルの重圧よりも重苦しかった。
「ししししてないしぃっ! マジだし!」
あたし、黒木舞桜は、右胸の痛みを堪えながら、震える声で全力の否定を叩きつけた。
あたしの気高い論理回路が、恐怖という名のノイズで支離滅裂な信号を発している。
「だって相手、舞桜だろぉ? なにも起こらねえってば」
拓矢が、勇希のヘッドロックを振り解いて、爆弾投下した。
「……は? あんた、今なんとおっしゃいました?」
あたしは潤んでなどいない、ビームが出そうなほど鋭い視線を拓矢に突き刺した。
「なにも起こらない……? あたしという、物理法則を擬人化したような完璧な美少女を前にして、なにも起こらないなんて、それこそ宇宙の摂理に反する致命的なバグじゃありませんか!」
あたしは不機嫌さを爆発させ、真っ赤になった顔で喚き散らした。
「つまりあんたは、あたしにガムテープで拘束された状態の無防備な肉体美を晒されても、指一本触れる価値もない、ゴミのような存在だと断じたわけね! それこそが、あたしに対する最大の冒涜であり、蹂躙だわッ!」
「いや、そうじゃなくて……! そういう意味じゃなくて……!」
拓矢が絶望的な表情で首を振る。
「勇希! やっぱりこのフニャチン野郎、一回開腹して、その腐った認識能力を外科的に切除すべきだわ! 当然の帰結よね!」
「そうだね、舞桜。拓矢が君を『女として見ていない』っていう不敬罪も、追加で解剖リストに入れておくよ」
勇希は、中性的な美貌に邪悪な微笑みを湛え、拓矢の首をさらに強く締め上げた。
「ひ、ひいっ……! 地獄だ、ここは地獄だ……っ!」
拓矢の悲鳴が横須賀ラボに空しく響き渡る。
★ ▲ ★ ▲ ★
「まあ、君がそんなことはしない。それだけは信じてあげるよ拓矢……。でも、舞桜のオッパイって大きいけれど柔らかいよね」
勇希のヤツが、拓矢に対して、物理的なダメージを不可避にする呪文、土塊の罠を張りやがった。
中性的な美貌に底知れない独占欲を隠し持って、あたしを羞恥のどん底へと叩き落とそうとしている。
拓矢……。お願い、今は貝になって。
あの日の簀巻事件は、あたしが心のダムに全てを溜め込んで、水に流してあげるから!
そうじゃないと、目の前の「白き勇者」のアンダーアイアンクローが、次はあたしの神聖な女の子の部分を蹂躙しかねないわ!
「……舞桜……さん……。俺は……何も聞いてない……。何も、見てない……っ」
拓矢が、悟りを開いたような虚無の表情で呟く。
そうよ、それが正解よ拓矢!
あんたがここで一言でも「へぇ、そうなんだ」なんて相槌を打とうものなら、あたしたちの尊厳は物理的に消滅するのよ!
★ ◆ ★ ▲ ★
あたし、黒木舞桜は、バイクのハンドルを握りしめ、黄昏時の第一京浜を切り裂くように爆走していた。
背中には、あたしの腰を壊れ物でも扱うように抱きしめる白井勇希の体温。
身長175センチのあたしが前で、最高学府のオスカル系医学生である勇希が後ろ。この物理的な配置の不条理さに、あたしの乙女心という名の非論理的プログラムは、ずっとエラーを吐き出し続けていたのよ。
「あんた。溜まってんじゃないの?」
ヘルメットのトランシーバー越しに、あたしはド直球のストレートを投げつけた。
「溜まってるってなにがさ。バカじゃないの?」
ノイズ混じりに聞こえる勇希の声は、拗ねたように低かった。
ああ、もうッ! この最高学府の秀才は、あたしと同じで「寂しい」という感情の処理速度が致命的に遅いのね! あたしたち、最近全然二人きりになれなかったもの。
「ねえ。してもいいよ」
あたしは時速を維持したまま、第2球の直球を放り込んだ。
羞恥心で顔面が臨界点を超えて加熱し、ヘルメットの中は蒸気機関車のような惨状になっていた。
「……な、なにを、なにを言ってるのさ、舞桜」
腰を回す勇希の手が、ビクリと震える。当然の帰結よね! あたしのこの、物理学的な極大の譲歩に驚かないはずがないわ!
「決まっているでしょ! あんたがその最高学府で磨き上げた解剖学的知見を総動員して、あたしという検体を、隅々まで『開発』することよッ!」
あたしは、自分の心臓の鼓動を誤魔化すように、いつもの被害妄想という名のシールドを全開にして叫んだ。
「あんたのその嫉妬という名の重圧を、あたしの中に全部叩き込みなさいな! 当然の帰結よね!」
「……っ! ……わかったよ。そこまで言うなら、後悔しないでよね」
一瞬の沈黙の後、勇希の声から迷いが消失した。
代わりに、あたしの脇腹を掴む指先に、獲物を逃さない執刀医のような冷徹で、それでいて獰猛な熱が宿る。
「舞桜のその、物理学とエロマンガが混ざったおかしな脳内構造……。僕が、朝までかけて徹底的に『再教育』してあげるから」
あたしは、自分の投げたボールが、凶悪な変化球になって返ってきたことに戦慄した。
ああっ、このままじゃ、あたしの純潔という名の鉄壁の理論が、勇希という名の暴君に侵食されてしまう!
「当然の帰結よね! ……あぁ、でも、優しくしなさいよ。あたし、こう見えて繊細な構造をしているんだから……っ」
黄昏時の国道。
あたしたちを乗せたバイクは、エンジンの咆哮を響かせながら、終着点という名の「白い部屋」……物理法則を無視するような速度で爆走していった。
★ ◆ ★ ▲ ★
第一京浜を駆け抜け、期待と恐怖で物理的に加熱していたあたしたちのボルテージは、目的地に到着した瞬間に絶対零度へと叩き落とされた。
「……は?」
ヘルメットを脱ぎ、目の前の光景を見上げたあたし、黒木舞桜は、呆然と立ち尽くした。
「ようこそ! 我が最愛天使! そしてお供の医学生くん!」
眩いばかりの「白い部屋」……。最新鋭の設備が整ったその超高級マンションの入り口で、ガウンを羽織った茅野万桜が、シャンパングラスを片手にポーズを決めていた。
「……なんで、あんたがここにいるのよ?」
あたしの声から、官能的な響きが完全に消失した。
「え? ここ、ウチの持ち物件の最上階。舞桜が『白い部屋で開発』とか言ってたから、最高の環境を用意して待ってたんだよぉ。あ、賃貸契約書持ってくる?」
「…………」
あたしの腰にしがみついていた勇希の手が、スッと離れた。
執刀医のような冷徹な殺気を放っていた勇希の瞳から、急速に光が失われていく。
「あ、……あはは。そうだよね。この街の『白い部屋』の経済的支配者も、やっぱりこの成金御曹司だよね……」
勇希が、魂が抜けたような顔で呟いた。
「ちょっと待ちなさいよ、勇希! あたしの脳内シミュレーションでは、ここであんたが非論理的な暴君と化して、あたしをベッドという名の実験台に固定するはずだったのよ!」
あたしは真っ赤な顔で必死に訴えかけたが、一度萎んでしまった勇希の「やる気スイッチ」は、もはや物理的に修復不可能なレベルで陥没していた。
「無理だよ、舞桜……。この男の気配がする部屋で、君を再教育するなんて……。僕の医学的プライドが、猛烈に拒絶反応を起こしてる……」
「そんなッ! あたしのこの、高まりきった身体的エネルギーはどうなるのよ! 当然の帰結として、どこに放出されればいいのよッ!」
「え~? じゃあ俺が代わりに、舞桜を愛の茅野建設で再開発してあげようかぁ?」
万桜がヘラヘラと近づいてくる。
「この成金バグ野郎! あんたは大人しく、自分の資産の計算でもしてなさいな!」
あたしは本日何度目かわからないアンダーアイアンクローを、無防備なガウン姿の万桜へと、八つ当たり気味に炸裂させた。
「あぎゃあああああああッ!? なんでぇ!? 親切心じゃ~ん!?」
十一月の横須賀から続く、あたしたちの騒がしい夜。
愛の熱力学は、第三者の経済力という巨大な壁に阻まれ、ただのアホの子たちのコントへと帰結した。
「……帰ろうか、舞桜。コンビニでアイスでも買って」
「……そうね。バニラ味に、物理的な癒やしを求めることにするわ……。当然の帰結よね」
あたしたちは、地面にのたうつ万桜を放置して、再びバイクに跨った。
★ ▲ ★ ▲ ★
あたし、黒木舞桜は、横須賀駅前の実家、黒木柔道整体院の玄関先で石化した。
塾帰りらしい妹の黒木桜が、あたしと勇希に、まるで不治のバグを抱えたプログラムを見るような、塩っぱいジト目を貼り付けて立ち塞がっている。
「ただいま」
あたしが絞り出した挨拶も、桜の鉄壁の沈黙に虚しく吸い込まれた。
「桜、久し振り」
勇希が救いの手を差し伸べるように声をかける。けれど、そのジト目の視線は、容赦なく勇希の眉間にも貼りついた。
そして、桜はポソリと、あたしたちの尊厳を物理的に粉砕する核爆弾を投下した。
「姉ちゃん。そのヘルメット……スピーカーモードだったみたいだよ」
「…………え?」
あたしの脳内演算が停止した。
スピーカーモード。
それは、走行風に負けない大音量で、ヘルメットの外に音声を垂れ流す設定。
つまり、第一京浜を爆走しながら、あたしが叫んだ『開発』だの『苗床』だの『検体を隅々まで蹂躙しろ』だのという、成人向け漫画全開の非論理的な喚き散らしが……。
「……ま、待ちなさい桜! それは物理学的な定義の齟齬であって、決してあたしの破廉恥な独白が、国道沿いの善良な市民や、たまたま並走していた運送トラックの運転手さんの鼓膜を汚染していたという意味ではないわよね!?」
あたしは、プラズマ級に加熱した顔を覆いながら叫んだ。
「全部聞こえてたよ。姉ちゃんが『あたしをメスに堕として蹂躙しなさいよ』って叫んだ瞬間、たまたま後ろのバスに乗ってたんだ。……塾の友達も、みんな静かになったよ」
「ひ、ひいっ……! 社会的な死! あたしの知的なカリスマ性が、物理的な音声データによって完膚なきまでに消滅させられたわ!」
あたしは崩れ落ち、柔道整体院の冷たい床に膝をついた。当然の帰結よね、なんて言葉、逆立ちしても出てこない。
「…………舞桜。僕、もう医学部辞めて、誰も知らない山奥で薬草でも育てて暮らそうかな」
勇希もまた、中性的な美貌を真っ白に染め上げ、虚空を見つめている。
最高学府の秀才が、妹の放った一撃で、再起不能なシステムエラーを起こしていた。
「あ、それから。お父さんも、そのバスに乗ってたよ」
桜がトドメの一撃を刺す。
「おだまりなさいッ、この地獄からの伝道師! それ、パパが道場破りよりも恐ろしい形相であたしたちを『物理的に矯正』しに来るっていう予告じゃないの!」
十一月の横須賀。
あたしたちの官能的な夜は、妹のジト目と、スピーカーという名の非情なデバイスによって、最悪のバッドエンドへと帰結した。
「パパじゃねえだろう? お姉ちゃん。おう勇希、久し振りぃ~……ちょっと、お話しようか?」
あたしの肩と、勇希の肩をガシリと万力のような手が鷲掴みにした。
この声は振り返るまでもなく、父さん、黒木大雅のものだ。
逃げ場のない白い部屋どころか、逃げ場のない黒木柔道整体院の玄関。物理的な圧力のベクトルが、あたしたちの生存本能を直撃する。
「パパ! ただいまぁ、勇希が溜まっていてあたしのオッパイをアイアンクローで蹂躙するから」
あたし、黒木舞桜は、あまりの動揺に、脳内リソースがショートした。
口から出たのは、弁明ではなく、最悪の自爆コード。
ああっ、あたしの高邁な論理性が、恐怖という名のバグによって、実の父親に「娘の乳房がアイアンクローで開発されている」という衝撃的な事実を報告してしまった! 当然の帰結じゃないわよ、これ!
「…………」
勇希の顔色が、一瞬で土気色を通り越して透明になった。
最高学府の秀才が、今まさに「物理的に抹殺される」という未来の統計データを算出しているのが手に取るようにわかる。
「うん。中で聞こうか……ご近所さんの目もあるし……ねえ、お姉ちゃん……桜、今日は離れで飯食いな」
父さんの声は、低く、静かだった。
それが逆にあたしたちの恐怖を加速させる。
桜は、父さんに促されるまでもなく、祖父である善次郎の住む離れへ、音もなくフェードアウトしていった。
あたしたちという「汚染物質」が、純真な中学生の精神にこれ以上干渉しないようにという、家族の危機管理措置ね。
「あ、あの、大雅さん。これは解剖学的な見地というか……その、物理的な嫉妬のエネルギーがですね……」
勇希が震える声で釈明を試みるが、父さんの手の力はさらに強固なものへと変質した。
「ああ、いいよ。勇希が『何』を『溜めて』いたのか、道場でじっくり組み合いながら聞かせてもらおうじゃないか。……アイアンクローだっけ? 柔道にはない技だけど、関節の可動域については、俺も詳しいんだよねぇ」
「ひいっ!? パパ、やめて! 勇希はあたしの将来の専属主治医なんだから、物理的に解体されたらあたしの健康管理が非論理的な崩壊を迎えてしまうわッ!」
あたしは父さんの柔道着に縋り付いて叫んだ。
十一月の横須賀。
あたしのスピーカーモードが引き起こした情報漏洩は、ついに「黒木家の最終兵器」という名の巨大な災厄を招き寄せてしまった。
この後、道場の畳の上で繰り広げられる、勇希への「物理的な再教育」から、あたしは彼を守り抜くことができるのかしら!?
★ ▲ ★ ▲ ★
「それでベロチューしたの?」
父さんによる物理的な制裁(道場での徹底的な「可愛がり」)を受け、ボロ雑巾のようになったあたしたちを待ち受けていたのは、母である黒木佳代による精神攻撃だった。
居間のちゃぶ台を囲み、母さんの慈愛(という名の好奇心)に満ちた視線が、あたしの真っ赤な顔面を等角投影図のように観察している。
「その件に関しましては、記憶がそのぉ……不確かな部分が多く、現在、脳内の論理回路が精査中でして……」
あたし、黒木舞桜は、どこぞの汚職政治家のように曖昧な答弁で躱し、この場を物理的に離脱する機会を窺った。
「ベロチューは、舞桜がくすぐったがるからしてないよ佳代さん」
「…………は?」
隣で虫の息だったはずの勇希が、平然とした顔で向こう側に寝返りやがった。
あたしは、落雷を受けたような衝撃とともに、首が折れそうな速度で勇希を凝視した。
「な、な、なにを、なにを暴露していますの、この裏切り者の医学生はッ! それじゃあ、あたしたちがベロチュー未満の、言葉にするのも汚らわしい粘膜接触のシミュレーションを、過去に何度も試行錯誤していたと認めたようなものじゃないの!」
あたしは不機嫌さを爆発させ、潤んだ瞳で勇希の脇腹を小突いた。
「だって佳代さんに、嘘つくとまた大雅さんに道場連れて行かれるからさ。……舞桜、耳元で囁くと『ひゃんッ!』って変な声出すし、ベロチューどころじゃないよね」
「おだまりなさいッ! その『ひゃんッ!』は物理的な反射現象であって、あたしの乙女心が非論理的な歓喜に震えていたわけじゃないわよ!」
あたしはプラズマ級に加熱した顔面を両手で覆い、ちゃぶ台に突っ伏した。
★ ▲ ★ ▲ ★
「父ちゃん。なんでこっちで飯食ってるのさ」
桜は、離れの食卓で神妙な顔をして箸を動かす大雅に、容赦のないジト目を貼り付けた。
「いや、あれだよ……。娘の恋の進捗報告なんて、まともに聞かされてもよ……。あれだよ……。塩っぱいんだよパパは……」
大雅が困ったように、煮魚の骨を突きながら答える。
屈強な柔道家の背中が、今は物理法則に逆らえないほど小さく丸まっていた。
「パパって呼ぶの姉ちゃんだけだし、呼ばねえから、あたしは」
桜は、さらに塩分濃度の高いジト目を貼り付ける。
十一月の横須賀、黒木柔道整体院。
パパの逃避、桜の冷徹なジト目、そして母さんの包囲網。
あたしたちの恋の進捗報告は、家族全員を巻き込んだ非論理的な大混乱へと帰結していった。
★ ▲ ★ ▲ ★
翌日のラボ。あたしたちが足を踏み入れた瞬間、そこには物理的な質量を伴うほどの好奇の視線が渦巻いていた。
茅野のヤツが、あの白い部屋で手ぐすね引いて待ち構えていた理由……。女子大生という名の獰猛な熊たちから身を守るためにあたしが構築した空中監視網。それが、あろうことかあたしと勇希のタンデム走行中の失態を、克明に「監視」していたというわけね。
「茅野。ここは部外者は立ち入り禁止だと言ったはずだ」
あたし、黒木舞桜の声音は、怒りのあまり1オクターブ低く、重力波のようにラボの空気を震わせた。
「カオリン。例の物を」
茅野は、これ以上ないほど不遜で、勝利を確信した御曹司特有の顔をして杉野香織に命じた。
「御意御意、茅野っち先輩!」
杉野香織が、いつもの軽いノリで応じる。
「黒木先輩、残念でしたぁ~! 茅野っち先輩は今日付で、正式にこのラボの『特別外部顧問兼、後援資金管理責任者』として配属されましたぁ!」
「なっ……!?」
あたしは絶句した。杉野の手には、あたしが大好きな、そして昨日勇希と買いに行ったのと同じ高級アイスチョコが握られている。
こいつ……! あたしの愛弟子とも言える杉野が、コンビニスイーツという安直な甘味資源によって、経済的買収を受け入れたというの!?
「待ちなさい! あんた、自分の親父である佐々陸将に、コンビニスイーツひとつの貸しでコネクション採用を認めさせたというの!? 国防の要であるこのラボのセキュリティ・ポリシーは、チョコ一個の糖分で溶解してしまうほど脆弱だったというのかしら!」
あたしは真っ赤な顔で、勝ち誇る茅野と、チョコを頬張る杉野を交互に指差した。
「え~、だってぇ、このチョコ、陸自の売店には売ってないんですもん。パパも『予算を持ってくるヤツは拒まないのが軍の鉄則だ』って言ってましたよぉ?」
杉野が、悪びれる様子もなくチョコを口に運ぶ。
「……舞桜。これ、僕たちの昨日のスピーカーモードの音声データも、既に共有されてるってことだよね」
隣で勇希が、絶望的な予測値を算出し、幽霊のような顔で呟いた。
「勇希、白い部屋行こうか?」
十一月の横須賀。
あたしの知性は、茅野の資本力と杉野の食欲という、非論理的なタッグによって、かつてない存亡の危機に立たされていた。
当然の帰結よね、なんて……誰かあたしの口をガムテープで塞いでちょうだいッ!
物理学における「エントロピー」は、常に増大する。
それは、秩序あるあたしの生活が、勇希という名の不確定要素によって、修復不可能なレベルのカオスへと叩き落とされるのと、全く同じ理屈だわ。
まさか、第一京浜を爆走しながら叫んだあたしの「開発宣言」が、スピーカーモードという非情なデバイスによって、バスの乗客や実の父親の鼓膜へとダイレクトにデリバリーされていたなんて。
あたしの社会的な尊厳は、今まさに、事象の地平線の彼方へと物理的に消失してしまったのね。
「勇希。……あんたのその嫉妬という名のアイアンクロー、あたしの右胸に刻まれたこの物理的な痛みこそが、あたしたちが共有したバグの証なのね」
パパの道場での再教育、母さんの粘着質な進捗確認。
そして、チョコ一個で買収されたサブリナと、金に飽かせてラボを侵食する茅野万桜。
周囲のノイズは増大する一方だけれど、あたしの心拍数は、隣で不機嫌そうに手を繋ぐ勇希の体温によって、不思議と安定の極致へと向かっている。
当然の帰結よねッ!
あたしの高貴な論理回路が、勇希という名の暴君に「再教育」されることでしか得られない熱量があるなんて、物理の教科書のどこにも書いていなかったけれど!
さて。
次にバイクに乗る時は、スピーカーの配線を物理的に切断してから、勇希を「逃げ場のない白い部屋(あたしの自室)」へと連行してあげるわ。
……パパ、今度は絶対に、バスなんかで追いかけてこないでちょうだいなッ!




