女王さまと白い王子さま
空を支配するのは、あたしの書いた数式。
けれど、あたしの心を支配するのは、隣に立つこの少年の、あまりにも非論理的な優しさだわ。
二〇一九年。横須賀の空に浮かぶ通信中継基地は、あたし、黒木舞桜の知性が到達した、物理的な「聖域」の境界線。
ドローンの冗長構成も、落雷を無力化する雷光吸収システムも、すべては勇希と過ごすこの清らかな時間を、外敵という名の不純物から守り抜くための、当然の帰結。
たとえ、あたしの長身という名の「バグ」が、可憐な淑女を演じるあたしの邪魔をしようとも。
たとえ、キャンパスを徘徊する女子大生という名の「害獣」が、あたしの至宝を蹂躙しようと群がってこようとも。
あたしは、電気マキビシと投網キャノンを手に、物理現象のすべてを味方につけて戦い抜く。
……けれど、月に一度襲い来る「内側からの重力」だけは、あたしの論理回路を情けなく焼き切ってしまうのね。
「勇希……。あたしのこの震えを、あんたの体温で上書きしなさいな」
水嚢に挟まれた悦楽と、吊るされた美少年の悲鳴。
そして、とんこつラーメンの湯気よりも熱い、あたしの独占欲。
戦うクールビューティーによる、最も「尊い」という名の非合理な実験が、今ここに開始されるわッ!
「中継基地の安定性は既に論理の内で証明されている」
あたし、黒木舞桜は、視線の先を見据えながら、淡々とした口調で語った。
「問題は自然の非合理性。即ち、雷と、転落による地上の被害よ」
あたしは、隣に立つ勇希に聞こえるように、できるだけ柔らかく、品のある声を意識した。
通信中継基地の安全対策は、三重構造になっていた。
まず、飛行制御を担う小型ドローン群の冗長構成。
次に、姿勢制御が完全に破綻した際のパラシュートの冗長構成。
そして、あたしが「駄目押し」と呼んだ、機器を包む複数のエアバッグの展開システムだ。
「万が一に備えて、地上にいる人たちの安全は完璧に守らなきゃいけないもの。当然の帰結よね」
あたしは、潤んだ瞳で勇希を仰ぎ見て、小さく微笑んでみせた。
黒木柔道整体院の娘として、普段は道着に汗を流す庶民のあたしだけれど、勇希の前では最高の淑女でありたい。
本当は、この設計に難癖をつけた大人たちを物理的に黙らせてやりたいところだけれど。
今は、勇希の優しい視線に包まれて、あたしの心は穏やかな春の陽だまりにいるみたいだった。
「舞桜は本当に優しいんだな。自分の研究より、周りの人のことを一番に考えてる」
勇希がそう言って、あたしの頭をそっと撫でてくれた。
あたしの顔は瞬時に沸騰して、真っ赤な林檎になってしまった。
「……そんな、当たり前のことでしょう?」
あたしは、内心で荒れ狂う歓喜のダンスを必死に押し殺して、可憐な学徒を演じ続けた。
脳内では、勇希にこうして優しく包み込まれることで、あたしの細胞が官能的なまでに活性化していくシミュレーションが走りそうになる。
……だめよ、あたし。
あのおぞましい成人向け漫画みたいな展開を、勇希との清らかな時間に持ち込むなんて非論理的だわ。
「おい、舞桜。さっきからニヤけすぎだろ。また変なこと考えてんじゃねえか?」
空気の読めない拓矢が、あたしの幸せを切り裂くように口を挟んできた。
「……おだまりなさい、拓矢くん」
勇希に見えない角度で、あたしの瞳は一瞬だけ絶対零度の冷徹さを宿した。
あたしのこの神聖なひとときをノイズで汚す下僕には、後で相応の「再教育」が必要のようね。
「……ひ、ひいっ!? 勇希、舞桜の目が笑ってねえよ!」
拓矢は、あたしから放たれる目に見えない圧に気圧され、ガタガタと震え出した。
「どうしたんだ、拓矢? 舞桜はこんなににこやかじゃないか」
勇希は不思議そうに小首を傾げた。
ええ、そうなのよ。勇希。
あたしは今、世界で一番幸せな女の子なんだから。
「さあ、実験を始めましょうか。あたしの論理が、この空を完璧に支配する瞬間を見ていてね」
あたしは勇希の腕にそっと手を添えながら、誇らしく空を見上げた。
「まあ、上手くいくと思う。通信中継機自体がドローンを冗長構成で装備してあって、尚且つパラシュートも冗長構成で装備。駄目押しに複数のエアバッグを展開すれば、万が一の機器落下時にも、一切の被害は出ないわ」
あたし、黒木舞桜は、落雷対策について付け加えた。
「そして、その更に上空に配置した雷光吸収ドローンが、雷の脅威を物理的に無力化する」
あたしの解説が響くたび、キャンパスのあちこちから、鼓膜を突き破らんばかりの黄色い悲鳴が上がる。
「見て、黒木先輩! 今日も一段と凛々しくて素敵すぎる……っ!」
「あの長身から放たれる圧倒的なオーラ……。まさに、あたしたち県立大学の至宝だわ!」
あたしは内心で、砂を噛むような乾いた、そして酷く疲れた笑みを浮かべた。
歌劇団のスターか何かに見立てているのか知らないけれど、あたしはただの柔道整体院の娘だ。
それに、この175センチという無駄に長い身体は、あたしにとってはただのコンプレックスの塊でしかない。
隣に立つ勇希は、身長165センチ。
女の子と見紛うほどに中性的で、お人形さんのように美しい美青年だ。
並んで歩けば、あたしの方が10センチも高い。
世間的には、あたしが勇希を護衛する騎士様か、あるいは「年下の美少年を囲う女魔王」にでも見えているに違いない。
ああっ! どうしてあたしは、こんなに可愛げのない身体に生まれてしまったのかしら!
「この簡易通信網構築のネックは安全性。落雷による機器の破損は回避した。あとは機器の転落による危険性の除去」
あたしは、自分の考案した多重安全装置を改めて確認した。
ドローンによる飛行と、パラシュートによる転落防止だけでは、満足出来なかった。
機器自体を複数のエアバッグで包み込む方式を採用した。
そのエアバッグは、魔王AIが計算した落下速度と衝撃角に基づき、着地寸前で最適な配置、最適な速度で爆発的に膨張する。
「まあ、やってみましょう」
北野学長が眼鏡の奥で目を細めた。
「魔王、善きに計らえ」
あたしは短く命じた。
指令を受けた魔王は、中核となる2つのドローンのプロペラ回転数を瞬時に停止させた。
機体はバランスを崩し、100メートルの高度から県立大学の空き地へと急速な落下を開始した。
秒速数十メートルの落下の中、パラシュートが開くと同時に「転落防止のエアバッグ」が閃光のように展開された。
機体は空中で一瞬静止したかのような錯覚を生じさせ、柔らかく、静かに、地面に落ちた。
まるで、巨大な綿菓子が落ちてきたかのように。
「キャーッ! 舞桜様ーっ! 抱いてーっ!」
「今の指示を出す時の横顔、マジで尊すぎて死ねる……!」
女子大生たちの狂騒が最高潮に達する中、あたしは勇希の顔色を伺いながら、消え入りたい衝動に駆られていた。
こんなに勇ましく振る舞ったら、またファンが増えてしまう。
そしてなにより、勇希に「舞桜って、僕よりずっと男らしいな」なんて思われたら……。
あたしは潤んだ瞳で、そっと自分のデカい身体を小さく丸めるようにして、勇希の裾を掴んだ。
「……上手くいって、よかったわ。勇希」
あたしは猫を100匹被った淑女の声色で囁いた。
脳内では、この長身のあたしが勇希を拉致し、逃げ場のない白い部屋で「開発」し尽くすという、おぞましいエロマンガ的な妄想が暴走し始めていたけれど。
「当然の帰結よね…」
あたしは、自分でも制御不能なニヤけ顔を必死に隠しながら、勇希の肩にそっと顎を乗せた。
はたから見れば、美少年に甘える女魔王。
けれどその実態は、背が高い自分に絶望しながら、彼氏との身長差に萌え狂う、ただのアホの子女子大生だった。
「ふむ」
北野学長は、ただひとこと、感嘆の声を漏らした。
それは、あたしの「論理の暴力」に対する、素直な敗北宣言であった。
「一切の被害は出ませんでした。論理的に見て、最適な結果です」
あたし、黒木舞桜は、成功にも関わらず、表情ひとつ変えずに言い放った。
隣で一部始終を見ていた勇希は、ただ微笑んでいる。
「舞桜の論理は、いつも完璧だからね」
勇希に褒められ、あたしの脳内の計算リソースが一時的にフリーズしかける。
ああっ! 今のあたし、ちゃんと可憐な女の子に見えているかしら!?
「ところで黒木くん。陸上自衛隊の協力もあって、高高度気球は利用させてもらっています。この立体パラグライダーでの空中通信中継基地を設置する理由はなんですか?」
北野学長の素朴な疑問に、あたしは間髪入れずに答えた。
「獣害の予防です」
あたしは通信端末で、実家の果樹園の写真を提示した。
画面に映し出されていたのは、最盛期を迎えようとする果樹園。
無残にも地面に散乱した若い桃。引き裂かれた枝葉。
巨大な羆の足跡と、猪の鼻掘り跡が、あたしの怒りを戦慄かせる。
けれど、あたしが本当に「獣」として駆逐したいのは、この写真の動物たちだけじゃない。
「……雷……怖いのよ……」
あたしは、勇希の服の裾をギュッと握りしめ、消え入りそうな声で囁いた。
落雷という物理現象の暴力は、あたしの乙女心を非論理的に破壊する恐怖の対象だわ。
だからこそ、上空の雷光吸収ドローンで、雷を完璧に支配下に置かなければならない。
それから、この簡易通信網の真の目的……。
それは、このキャンパスを徘徊する、あたしへの「尊い」という黄色い悲鳴を上げ続ける女子大生たちの包囲網よ。
あたしから見れば、群れを成して襲いかかる彼女たちは、実家の桃を荒らす羆と同じくらいの脅威だわ。
あたしと勇希の清らかな時間を、その下世話な視線で蹂躙しようとする「獣」たち……。
彼女たちの動向をリアルタイムで監視し、最適な脱出ルートを演算するための通信網。
「この通信網があれば、いかなる外敵からも、大切な場所を守り抜くことができますわ」
あたしは潤んだ瞳で勇希を見つめた。
当然の帰結よね。
内心では、女子大生たちの包囲を突破して、勇希を逃げ場のない白い部屋へ「保護」する準備を、人工知能魔王に爆速で命じていた。
「熊だろうが羆だろうが猪だろうが、黒木家の墾田永年私財法を脅かすヤツは許さねえ!」
あたし、黒木舞桜の口調は、技術者の冷静さを完全に失っていた。
故郷の土地を守る農民の純粋な怒りに満ちたあたしの剣幕に、北野学長と勇希は苦笑いを浮かべている。
「え、ここ横須賀だよ? 丹沢じゃないよ? 羆は出ないでしょ?」
勇希は懐疑的なジト目を貼り付けて、あたしをたしなめるように言った。
その清涼感あふれる呆れ顔さえ、今のあたしには「女子大生」という名の獣から守るべき至宝に見える。
北野学長は、苦々しい面持ちで言葉を続けた。
「う~む。過疎化が進み、高齢化で手入れされなくなった農地が、獣たちの『自然の狩り場』に変わってしまう。これは現代の日本の農家が抱える、最も深刻な問題のひとつですね」
「農家は、収穫を前にして、この被害を見るのが一番辛いんだ。農作物を作ることよりも、獣害を防ぐことに、多くの時間と労力を費やすんだから。それがまた、『老い』というノイズで身体が動かないとなると……」
勇希も眉をひそめて付け加える。
「老い」という言葉に、あたしの論理のスイッチが再び入った。
「だから、この通信中継基地で、広域かつリアルタイムでの獣の行動追跡を行うの。そして、奴らの非合理な侵入を、この論理の暴力で完全に排除するわ」
あたしは表情を引き締め、テーブルの上に広げられた試作品を次々に提示し始めた。
「これは電気マキビシよ」
あたしが取り出したのは、見た目は安価なジョークグッズのような黒いプラスチック製マキビシだ。
けれど、その内部には莉那が開発した高性能の静電気発生装置が組み込まれている。
「いい、勇希。このキャンパスに蔓延る、あたしたちを包囲しようとするあの女子大生たちも、実質的には羆と同じだわ」
あたしは、自分に向けられる「舞桜様ー!」という黄色い悲鳴の主たちを、冷徹な視線で射抜いた。
「雷……怖いのよ……。だから、空も地上も、あたしの配置した物理現象で完全に封鎖してやるの」
震える手で勇希の袖を掴みながら、あたしは内心で魔王AIに爆速の演算を命じた。
背が高いあたしが、こうして小さくなって勇希に甘える姿。
これさえも、あのアホな女子大生たちの眼には「尊い供給」として映るのかしら。
あたしは乾いた疲れを滲ませながらも、勇希との二人きりの脱走ルートを、電気マキビシの配置図と共に脳内に展開した。
「当然の帰結よね」
あたしは潤んだ瞳を勇希に向け、淑女の微笑みを貼り付けた。
「……ねえ。これ、相手は獣じゃなくて女子大生だよね? やってること、完全に『対人制圧用兵器』のテストになってない? 舞桜、戦う気マンマンじゃねえかッ!」
ずっと沈黙を貫いていた拓矢が、耐えきれずに怒涛のツッコミを叩きつけた。
「おだまりなさい、拓矢くん。あたしはただ、物理現象を最適に配置して、不純物を排除しようとしているだけです」
あたし、黒木舞桜は、勇希に聞こえるように、鈴を転がすような淑やかな声で返した。
「いやいや! 今の投網キャノンとか、ベルヌーイの定理を悪用した人間捕獲装置にしか見えないから! 女子大生が網に絡まって転がってる姿なんて、どんなエロマンガのワンシーンだよ!」
「…………」
あたしの瞳から、一瞬でハイライトが消えた。
勇希の前で「エロマンガ」なんて単語を出す不敬罪。
このフニャチン野郎は、あたしの論理の導火線に自ら火をつけたことに気づいていないのかしら。
「拓矢くん。そんな破廉恥な妄想を口にするなんて、教育上よろしくありませんね。……ちょっと、あちらで物理学の基礎から再教育して差し上げますわ」
あたしは聖母のような微笑みを浮かべたまま、勇希に見えない死角で、拓矢の股間を真下から鷲掴みにした。
「あ、が……っ!? ひ、ひいぃっ、物理的に……潰れ……る……っ!」
「当然の帰結よね。……勇希、ちょっと拓矢くんが『知性の欠如』という深刻なバグを起こしたみたいだから、お話ししてきますね」
あたしは潤んだ瞳で勇希を仰ぎ見て、可憐に小首を傾げてみせた。
「舞桜は本当に友達想いなんだな。拓矢、しっかり教えてもらうんだよ」
勇希の清らかな信頼の言葉が、あたしの胸に突き刺さる。
ごめんね、勇希。
あたし、この後こいつを6000メートルの深海圧と同じくらいの万力で「わからせて」くるわ。
あたしは拓矢を物陰に引きずり込みながら、魔王AIに次の演算を命じた。
投網キャノンで捕らえた女子大生(獣)たちを、どのように効率よく隔離し、勇希との二人きりの「聖域」を確保するか。
あたしの脳内では、すでに「女子大生捕獲作戦」の数式が完璧に記述されていた。
「……さて。地獄の物理講義を始めましょうか、フニャチン野郎」
あたしの冷徹な囁きが、キャンパスの隅で虚しく響いた。
当然の帰結よね。
「……っ、う、あ……」
唐突に、あたし、黒木舞桜の脳内演算回路が、非論理的な熱量の塊に焼き切られた。
下腹部を直接万力で締め上げるような、この忌々しい鈍痛。
間違いないわ。月に一度、あたしの心身を蹂躙し、すべての合理性をバグらせる「マンスリーバグ」の襲来よ。
「……あう……っ。なんですか、この非効率な身体の仕組みは……」
あたしは、冷や汗で額に張り付いた髪をかき上げ、潤んだ瞳で天を仰いだ。
重圧を味方にするはずのあたしの知性が、今は自分自身の内側から発せられる不機嫌な重力に押し潰されている。
視界がチカチカと点滅し、周囲のすべての音が、あたしを嘲笑う不純物へと変貌していく。
「……勇希……」
あたしは、助けを求めるように隣の勇希に手を伸ばした。
けれど、あたしの指先が触れるより早く、勇希は本能的な危険を察知した小動物のような速さで、音もなく数歩後退した。
「あ、えっと……舞桜、ごめん! 僕、ちょっと北野学長に報告してくることがあったのを思い出したんだ! じゃあ、また後でね!」
勇希の綺麗な顔が、恐怖で引き攣っている。
あたしの愛しい王子様は、全速力で脱兎のごとくキャンパスの彼方へと退避していった。
「……逃げたわね、あの美少年……」
あたしは、氷のような冷徹な視線で、勇希の背中を見送った。
愛する者の危機に背を向けるなんて、非論理的にも程があるわ。
今のあたし、逃げ場のない白い部屋で、勇希に徹底的に「開発」という名の介抱をしてもらわないと、バグで爆発しそうなのに。
「…………」
次に、あたしのビームでも出そうな鋭い視線は、隣で固まっている拓矢へと向けられた。
拓矢は、あたしと目が合った瞬間、両手で耳を塞ぎ、亀のように首を縮めて硬直した。
一切の言葉を発さず、ただの置物と化して、あたしという嵐が過ぎ去るのを待つ構えだ。
「……なにか言いなさいよ、このフニャチン野郎」
あたしの声は、地を這うような低音で、殺気すら帯びていた。
「黙っていれば、あたしの怒りの物理現象を回避できるとでも思っているのかしら?」
「…………」
拓矢は、頑なまでに貝のように口を閉ざしている。
その徹底した「無」の境地に、あたしの不機嫌は成層圏を突き破って、銀河系の果てまで到達した。
「……おだまりなさいッ! なにも喋っていないけれど、あんたのその卑猥な沈黙が、あたしを辱めているのがわからないの!?」
あたしは、痛む腹部を押さえながら、拓矢の股間へと「再教育」のアイアンクローを叩き込んだ。
「あ、が……っ!?」
拓矢は絶叫を上げそうになったが、なおも必死に口を噤み、白目を剥いて悶絶した。
「……当然の帰結よね」
あたしは、冷徹な仮面を貼り直そうとしたが、あまりの痛みに再び瞳を潤ませた。
誰もあたしのバグを修復してくれない。
この非合理な世界を、あたしは一人で耐え抜かなければならないのね。
「……勇希の、薄情者……ッ。後でたっぷり、物理的にわからせてあげるんだから……!」
あたしは、女子大生(羆)たちの嘲笑うような視線を射殺しながら、不機嫌という名の魔王として、重い足取りで保健室へと向かった。
「……おだまりなさいッ! なにをそんなに饒舌に語っているのよ、このフニャチン野郎!」
あたし、黒木舞桜は、潤んだ瞳に怒りの雷光を宿し、拓矢に向かって言い放った。
「お、お黙りなさいって、喋ってないじゃん! 俺、一言も発してねえだろ!」
拓矢は、ついに耐えきれず絶叫を上げた。
周囲の女子大生たちが、その剣幕にビクリと肩を揺らす。
「あんたの存在そのものが、あたしの脳内リソースを不快な周波数で汚染しているのよ! この沈黙は、雄弁な侮辱以外のなにものでもないわ。当然の帰結よね!」
あたしは、激痛の走る下腹部を抱えながら、もはや物理法則を超越した八つ当たりを展開した。
「……待ちなさい、勇希。どこへ行こうというのかしら?」
全力で退避しようとしていた勇希の背後に、あたしは音もなく……いや、怨念のような重圧を伴って立ち塞がった。
「あ、あはは……。舞桜、保健室の場所を確認してこようと思って……」
勇希の顔が引き攣り、冷や汗がその美しい頬を伝う。
その清らかな恐怖の表情が、あたしのバグった本能をさらに加熱させる。
「……いいわ。場所なら、あたしの脳内地図に完璧に記述されているわ。……行きましょう、二人きりの、白い部屋へ」
あたしは勇希の細い手首を、万力のような力で掴み上げた。
逃がさない。このマンスリーバグという名の不条理を、勇希という名の清涼剤で上書きしてやるのだ。
「あ……。……さらば、勇希。おまえの犠牲は、俺が一生忘れないぜ」
拓矢は、連行される親友の背中に向かって、直立不動の姿勢で最敬礼を捧げた。
その目は、処刑場へ向かう戦友を見送るかのように、悲壮な光を湛えている。
「……助けて、拓矢ーッ!」
勇希の悲痛な叫びは、あたしが発する「魔王の不機嫌」という名のノイズに、無残にもかき消された。
「うるさいわよ。……これから、あたしのこの非合理な痛みを、あんたの体温で論理的に中和してもらうんだから。……当然の帰結よね~」
あたしは、顔を真っ赤に染めながら、フラフラと覚束ない足取りで、けれど確実に勇希を引きずりながら、キャンパスの奥へと消えていった。
▲ ★ ◆ ★ ▲
「……やっと、解放された…」
白井勇希は、幽霊のような足取りで保健室から戻ってきた。
その顔はゲッソリと疲れ果て、中性的な美貌も今は見る影もない。
マンスリーバグで暴走した舞桜に、生きた「寸止め抱き枕」として数時間も拘束されていたのだ。
勇希は、直立不動で自分を出迎えた拓矢に対し、恨み節の籠もったジト目を向けた。
「……拓矢、よくも僕を見捨ててくれたね。あれは物理的な拷問より酷かったよ」
勇希の掠れた声に、拓矢は冷や汗を流しながら苦笑いを浮かべた。
「いや、悪かったって! でもあの時の舞桜は、俺が何を言っても『物理的にわからせる』モードだったからさ。親友として、おまえの尊い犠牲は無駄にしないぜ」
拓矢は、おあずけ状態のまま疲弊した勇希を憐れみ、ポケットから一枚のディスクを取り出した。
「ほら、これでも見て元気出せよ。藤枝から借りてきた『エロクッコロDVD』だ」
差し出されたパッケージには、水平方向に吊るされた女性の肢体が、卑猥な構図で映し出されている。
「……なに、これ」
勇希は呆れたようにパッケージを見つめたが、その刹那、医学徒としての脳内に強烈な閃光が走った。
写真の中で重力から解放されるように吊るされた肉体。
それが、あたかも失われた「論理」のパズルを埋めるピースのように見えた。
「……そうか。当然の帰結だね」
勇希は白衣の襟を正し、真剣な眼差しでパッケージを凝視した。
「人類の直立二足歩行は、進化の過程で内臓を骨盤側へ押し下げ、うっ血や圧迫という『構造的バグ』を抱えさせた。でも、この四足歩行のような水平構造なら……」
「おい、勇希? 急にどうしたんだよ。そのDVD、そんなに刺さったのか?」
拓矢が困惑する中、勇希は止まらない思考を言語化していく。
「腹部を水嚢のハンモックで吊るせば、内臓は脊椎からぶら下がる本来の配置に戻るわ。直立時の重力ストレスが消失して、血管やリンパのねじれが解消される。これこそが、舞桜を救うための予防医学的アプローチだよ!」
「……いや、それエロDVDなんだけどな」
拓矢のツッコミも虚しく、勇希の頭脳はすでに「水嚢サンドイッチ」の設計図を完成させていた。
▲ ★ ▲
二人はラボの片隅で、例の「エロクッコロDVD」をモニターに映し出していた。
もちろん、音声はミュートだ。
勇希にとっては、あくまで「人体構造の再設計」のための解剖学的資料に過ぎない。
画面の中では、水平方向に吊るされた女性が、重力から解放された肉体の神秘を晒している。
「見て、拓矢。この腰椎の反りと、腹腔の伸展。これこそが内臓デフラグの理想形だわ」
「いや、どう見てもアウトな映像だろ! これ舞桜に見られたら、俺ら二人とも物理的に消滅するぞ!」
その時であった。
バタンッ! と、ラボの重厚な扉が、物理法則を無視した衝撃音と共に撥ね飛ばされた。
「……ちょっと、待ちなさい」
低い、地を這うような声音が響く。
そこには、マンスリーバグによる不機嫌をエネルギーへと変換し、完全復活を遂げた黒木舞桜が立っていた。
その背後には、怒りの雷光が幻視できるほどの圧倒的な威圧感。
まさに、プレイバックパート2を地で行く、不機嫌な魔王の帰還であった。
「……なにを、見ていらっしゃるのかしら? この、フニャチン共」
舞桜の視線が、音声を消されたモニターに固定される。
吊るされた女性の肢体。その卑猥な構図。
「あ、これには論理的な説明が……っ!」
勇希が慌てて「あたし」口調のまま弁明しようとしたが、舞桜の冷徹な一瞥がそれを遮った。
「勇希。あんた、あたしをあんな風に吊るして、どうにかしようと考えていたのね……」
舞桜の頬が、怒りか、あるいは別の非論理的な熱情か、朱に染まっていく。
「さらば、勇希……。俺は一足先に貝になるぜ!」
拓矢は、今日四度目の最敬礼を捧げ、音もなくラボの隅へフェードアウトした。
「……覚悟なさい。その『水平方向の論理』、あたしの身体で、一秒間に10億回の演算を上回る密度で、徹底的に検証してあげるから…」
舞桜は、勇希の首筋を万力のような指先で捉えた。
「バカにしないでよ! そっちのせいよ!」
勇希は、舞桜が設計した「四足歩行回帰型・全方位水嚢プレス」の試作機に、水平方向に吊るされて泣いていた。
本来は舞桜を救うための論理だったはずが、不機嫌な魔王と化した舞桜の手によって、勇希自身が最初の「解剖学的モデル」として実験台に供されたのだ。
「あら、勇希。あんたが自ら提示した論理よ。内臓を脊椎からぶら下げ、直立二足歩行のバグをデバッグする……。当然の帰結よね」
舞桜は、40度の温熱を保つ最高級のグルコマンナンポリマーが詰まった水嚢を、勇希の背中とお腹からサンドイッチのように押し当てた。
「う、ううっ……。お腹が、温かい水嚢で……。内臓の重力が、キャンセルされていく……っ」
勇希は、水平に吊るされた状態で、身体の深部へと浸透する水の波長に翻弄されていた。
四足歩行時代の黄金配置へと回帰させられる肉体の悦楽。
それは医学的な正しさを証明すると同時に、中性的な美少年の精神を「バグの中へとさらに深く沈めていく。
「舞桜…勇希くん、ひぎぃ言ってる…やめたげて」
ラボの隅で貝になっていた拓矢が、ようやく口を開いた。
「おだまりなさいッ、このフニャチン野郎! 元はと言えば、あんたが変なDVDを持ってきたのが全てのノイズの始まりでしょ!」
勇希は吊るされたまま、頬を真っ赤に染めて拓矢を怒鳴りつけた。
その口調は、もはや舞桜のそれと同期し、完璧な「女子化」を遂げている。
「……ふふっ。勇希、いい声で鳴くようなったわね。このまま顔面も硬めのポリマーで固定して、眼圧の最適化と視界のクリア化……『頭部デフラグ』も並行して行いましょうか」
舞桜は不機嫌な笑みを浮かべながら、勇希の顔面に「顔面ハンモック」を装着しようと歩み寄る。
「や、やめて! これ以上僕を開発しないで……っ!」
「さらば、勇希。おまえの顔面が、究極の彫刻としてアップデートされるのを、俺は物陰から見守らせてもらうぜ」
拓矢は、水平に吊るされて涙を流す親友に向かって、今日五度目の最敬礼を捧げた。
「当然の帰結よね…」
舞桜は、勇希の美しい顔を水嚢で包み込みながら、悦びに満ちた吐息を漏らした。
★ ▲ ★ ▲ ★
「あ、これ…… いい……」
あたし、黒木舞桜は、勇希とフニャチン拓矢が開発した水嚢サンドイッチに横たわって、うっとりとした声を漏らした。
温かなポリマーの波が、あたしの「マンスリーバグ」による不快な重力を、論理の彼方へと押し流していく。
「フニャチンっておまえ……勇希、注意しろよ?」
どうやら後半も声に出ていたらしいけれど、そんなことは些細なノイズだわ。
あたしのアンダーアイアンクローを炸裂させても、一向に硬くなる気配のない拓矢は、文句なくフニャチンという定義に収束する。
「無理! 手遅れ!」
勇希が諸手で顔を覆って蹲る。
最高学府の医学生でありながら、あたしのこの非論理的な暴走を止められない勇希の困り果てた顔も、今は極上の癒やしに見えた。
「全人類……ログアウトすればいい……」
そこへ、青い顔をして、親友のサブリナこと福元莉那がラボに現れた。
天真爛漫なギャル系美女であるはずの莉那も、今は徹夜明けのエンジニア特有の、死んだ魚のような瞳をしている。
あたしは、満足げな吐息をひとつ漏らすと、その至福の場所を譲ることにした。
「サブリナぁ、これ使ってみ?」
あたしは、水平に吊るされた水嚢サンドイッチの固定を解き、サブリナにその「聖域」を明け渡した。
「……なに、これ……。柔らかくて、温かくて、海より深い……」
サブリナの身体が、水嚢の間に吸い込まれるように沈んでいく。
重力から解放された肉体が、静かな歓喜の声を上げているのが、あたしの論理回路にも伝わってきた。
「……おい、勇希。これ、もう本来の目的を見失ってねえか?」
拓矢が、呆れたようにモニターを見つめながら呟いた。
画面には、水嚢に挟まれて恍惚の表情を浮かべる莉那の姿が、医学的データと共に映し出されている。
「いいや、これこそが真の救済だ。肉体のバグを、物理現象でデバッグする」
勇希が、どこか悟りを開いたような、遠い瞳で答えた。
「当然の帰結よね…」
あたしは、勇希の隣に寄り添い、今度は自分の意思で、その細い肩に頭を預けた。
水嚢よりもずっと心地よい、大好きな体温が、あたしの心拍数を穏やかに整えていく。
サブリナの体力が回復したら、次は3人でこの「論理のゆりかご」を量産する計画を立てましょうか。
キャンパス中の「獣」たちを、この心地よさで無力化する。
それこそが、あたしの描く、完璧な平和へのロードマップなのだから。
物理学において、完全な「安定」など存在しない。
それは、複数の力が拮抗し、奇跡的なバランスの上に成立している、一瞬の静寂に過ぎないのよ。
あたし、黒木舞桜が、どれほど完璧なドローンの冗長構成を組み上げ、落雷という名の暴力を無力化したとしても。
あたし自身の内側に潜む「非合理な重力」だけは、あたしの知性をもってしても、完全な制御は不可能だったわ。
けれど……。
水平方向に吊るされ、温かなポリマーの波に包まれた時、あたしは気づいてしまったの。
直立二足歩行という進化のバグを、物理現象でデバッグする悦び。
そして、あたしの隣で困り果てた顔をしながらも、その細い肩を貸してくれる、勇希という名の、この世で最も尊い定数。
「勇希。あんたの体温が、あたしの演算回路に直接流れ込んでくる……。これが、あんたたちの言う『癒やし』という名の、非論理的なプログラムなのね」
サブリナが水嚢の海に沈み、フニャチン拓矢が物陰で貝になる。
そんな騒がしいラボの片隅で、あたしは少しだけ、自分の175センチという大きな身体を許せるようになった気がするわ。
当然の帰結よねッ!
あたしのこの高貴な肉体が、勇希との愛という名の「水圧」に最適化されていくのは、宇宙が開闢したその瞬間から、数式によって決定されていたことなんだから!
さて。サブリナの体力が回復したら、次はあたしと勇希の「二人用・密着型水嚢プレス」の設計、爆速で進めさせてもらうわよ。
……拓矢、あんたは隅で、あたしたちの愛の重力波でも観測していなさいな!




