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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

「出会ってしまった」らしく婚約破棄されましたが、隣国の王太子に見初められて寵愛されているうちにどうやら国は滅んだようです

掲載日:2026/02/08

「ああ、見えてきた」


 壁は崩れて、ところどころに痕跡を残すのみになった木造の校舎にはツタが生い茂っていた。


 人間の気配を察知したのか、ガサっと草むらで何かが動く。

音のした方に目をやると、驚いた顔でキツネがこちらを見ていた。


「ここが中庭か、うわあ、すごい草だな」


 あたしの横でカイトはきょろきょろと辺りを見まわす。


 人の営みが失われた土地はこうも急速に自然に支配されるものなのか……もはやアカデミーの面影はなく、ただ午後の日差しが緑に覆われた地面を照らしていた。


 辺りには赤色の花が一面に揺れていた。


 ポピーによく似てるけど、違う。

外来種で、他の植物を駆逐しながら勢力圏を広げていく、美しい侵略者だ。


「ここでしょ、覚えてるわ」


 あたしは緑に覆われた壁の前で立ち止まる。


「あたし達が、別れ話をしたところ」


 振り返った視線の先、カイトは少し困ったような顔で笑った。





 その日、あたしは婚約を破棄された。


「エリーシャ、君には本当に悪いと思ってる」


 冬がすぐそこまで迫った放課後の少し冷え込む中庭、婚約者……今となっては元婚約者だけど、カイトが真剣な顔で言った。


「君が、その、悪いわけじゃないんだ。今まで楽しかったし、本当に君には感謝してる、でも……」


 カイトは少しうつむいてから、まっすぐあたしを見た。


「出会ってしまったんだ」


 カイトが言いたいことはわかる。

最近カイトと噂になってる、リリーベル嬢のことだ。


「ごめん、本当に……自分でも信じられないんだけど、彼女をひと目見てから、もう、彼女のことしか考えられなくなって」


 いったいなにを聞かされているんだろう。

あたしの視線に気づいたのか、カイトも気まずそうにうつむいた。


「だから、ごめん。卒業パーティーでは君の手を引けない」


 カイトの声は静かだけどきっぱりとしていた。

あたしは何も言わずに立ち上がると、カイトに背を向けたまま中庭を後にした。


 このとき、あたしは悲しいのか怒りなのか、よくわからない感情がぐるぐるして、少しイラついていた。


 もしかしたら、その割り切れない感情こそが平和の証だったのかもしれない。


 卒業パーティーはおろか、アカデミーで講義を受けることすらもう2度と出来なくなるなんて、そのときのあたしは知らなかった。





 風が髪を揺らしていく。


「リリーベル嬢……なかなか強烈なのにいったなって思ったのよ」


 彼女を思い出しているのだろうか、カイトはしばらく切なそうな顔で黙っていた。


「結局、なにもしてやれなかったな」


「仕方ないわ」


 あたしは赤い花を眺める。


「あんな時代だったんだもの」


 すべては去ってしまった。

ほんの数年の間にあたし達の世界は目まぐるしく変わった。


 今となっては当たり前のように享受していた平和の方がずっと非現実的な気さえする。





 可愛らしい木彫り細工に、色とりどりのお菓子、キラキラに飾り付けられた屋台とはうらはらに、あたしの心は冷え切っていた。


 クソみたいな気分だ。


 少しは気が晴れるかと思って聖樹祭のマーケットに出てみたものの、まわりはカップルだらけだし、激混みだし……うわ、雪まで降ってきた。


 もういいや、姪っ子へのプレゼントだけ買ってさっさと帰ろう。


 木彫りの飾りを見ているときだった。


「ラービピーサンミター?」


 女の子だからお姫さまがいいかな?

いや、まだ子どもだし小鳥とかの方がいいのか?


「ラービピーサンミター?」


 なんだ、さっきから……横を見ると若い男が立っていた。


 もしかして、私に話しかけてる?


 最近増えたんだよな、隣国からの観光客。

森を挟んで隣接しているシャリージは、圧倒的な武力で勢力圏を拡大し続けている。


 小さく舌打ちする。


 属国にでもしたつもりなんだろうか?

言葉くらい覚えてから来い。


「なにか用ですか?」


 あたしはイラつきを隠さずに言った。


「あ、ああ、イヤ」


 彼はあたしの反応を気にした様子もなく、笑って言った。


「きれいだと思ったけど、よくわからなくて……よかったら選んでもらえないか?」


 恋人か、奥さんにでも買っていくのだろうか。

少し気持ちが暗くなったけど、地元の工芸品をきれいだと言われて悪い気はしない。


「これはね、聖樹祭のための飾りで、ひとつひとつにちゃんと意味があるの」


 正確に伝わってるかはわからないけど、彼は頷きながら聞いている。

ひととおり説明が終わったあと、彼は木彫り細工の天使を手に取って笑った。


「きれいだ」


 そのあと、あたしと彼は屋台のワインを飲みながらマーケットを歩いた。

言葉は通じたり通じなかったりだったけど、なんとなく新鮮で、塞いだ気持ちに風が通るような気がした。


「あたし、エリーシャっていうの」


 背の高い彼を見上げると、彼は笑顔で返した。


「俺はサラーム」


 サラームか、どこかで聞いたことがある気がするけど、隣国ではよくある名前なのかもしれない。


「うちの国は森に囲まれてるでしょう。森は人がここに住む前からずっとあったから、神聖なものとして大事にされてるんだ」


 風に揺れる黒い針葉樹を眺める。

なんだろう、お酒を飲んだせいか足元がふわふわする。


 森を歩いていくと、木立に紛れるように1頭の黒い馬がいた。

おそらくサラームの馬なんだろう、慣れた手つきで馬の頸を撫でると、ひらりと飛び乗った。


「森に、狼はいないのか?」


 低い声で、サラームがつぶやいた。


「狼……? あっ……」


 気づけば体が宙に浮いていた。

両脇に手を入れて軽々とあたしを馬上に乗せると、間をおかずにサラームは馬を走らせた。


 マーケットの賑わいが急速に遠くなる。

なにが起こっているのか状況に考えが追いつかない。


「いや……下ろして、お願い」


 震えながらサラームを見上げて、全身が凍りついた。


 サラームは獣のように鋭い目をぎらりと光らせながら、愉しくて仕方がないような顔であたしをじっと見下ろしていた。

それは、今まで誰の上にも見たことがない表情だった。


「おとなしくしてないと落ちるぞ」


 サラームはそれだけ言うと、ぐいっと体に押し付けるように抱き寄せた。

腕の力が強くて、息が止まりそうになる。


 胸板は硬く、熱く脈打っている。

足元からざざっと恐怖が波のように上がってくる。


 どうしよう……あたし、どうなってしまうの?


 まるで得体の知れない大きな生き物に捕らわれてしまったみたいだ。


 こうしている間にもサラームは慣れた様子で馬を走らせていく。


 この馬はどこへ向かっているんだろう


 身動きを封じられて会ったばかりの男に抱えられながら、あたしは流れる景色を見ていることしかできなかった。


「こんなに緊迫した情勢なのに、呑気にマーケット……しかも観光客を受け入れるんだからな、平和ボケも極まれりだ」


 いったい何を言ってるの?

早口の外国語は半分も聞き取れない。


「会えてよかったよ……君だけは生かしておいてあげる」


 馬の揺れが激しくて、あたしの意識はいつのまにか途切れていた。





"廊下は静かに"


 ひしゃげたプレートが草の間に落ちている。


 中庭に向けて大きく開かれていた窓はもう形もなく、秩序を失った樹木は部屋内までその枝を広げていた。


「試験、嫌いだったな」


 薄暗い空間にあたしの声は妙に響く。


「好きなやつなんていねえだろ」


 後ろでカイトが笑いながら言った。


「なんかさ、試験前に『全然勉強してないよ』とか言うやついなかった?」


「ああ、いたな」


 床板はところどころ剥がれて、赤い花はここにもその存在を示している。


「あれは、なんだったのかしら」


 振り返ると呆れたように笑うカイトと目があった。


「知らねえよ」





 目を覚ましたのは、見知らぬ城門の前だった。

黒々として、いかにも要塞といった風情の石造りの城が視界に入る。


「殿下! お帰りなさいませ」


 物々しく鎧を着込んだ衛兵が姿勢を正して敬礼をする。


 なんだろう……これ、夢かな?


「見るものもないような国だったが、ひとつだけ収穫があった」


 耳元で聞こえた声で、一気に現実が戻ってきた。

低くて、甘くて、鋭い声。


 体の芯がぞくりと震える。


 サラーム……そうだ、思い出した。


 周辺諸国を次々と攻め落として、シャリージを大国にした立役者。

その苛烈な攻勢から、ついた異名は『炎の王太子』サラーム。


 それが、まさに今、あたしを物のように抱え上げて冷たい目で笑っている男だった。


 抱きかかえられたままベッドまで連れられたあたしは、当然のように裸にされて、奪われた。


 自分の身に起こったことが信じられない。


 ぎゅっと自分を抱きしめるように身を縮める。

恐ろしくて恐ろしくて仕方がなかったのに、あたしはサラームの腕の中で、何度も艶めいた声をあげて、最後はしがみついていた。


 体と心がばらばらになってしまいそうだ。


「お願い……お願いです、家に帰して下さい」


 震えるあたしの髪をゆっくり撫でながら、サラームは優しい声で言った。


「君の家か……悪いけど」


 唇には笑みをたたえたまま、サラームの目が鋭く光った。


「それはもう無理だな」





 長い廊下を抜けると、かつて舞踏室だった場所には青空が広がっていた。

日差しを受けてまぶしく光る雲がゆっくりと空を流れていく。


 シャンデリアの重みに天井が耐えられなかったのだろうか。

床にはバラバラになったろうそくとガラスが散乱していた。


 この部屋で学生生活最後のイベント、卒業パーティーが行われていた。


 卒業パーティーで誰をパートナーに選ぶかは、学生にとって試験の成績なんかよりはるかに重要なことだった。


 毎年、幸福な恋愛の成就や、あるいは悲劇だとか、きっとこの部屋はいろんなドラマを見てきたんだろう。


「あたしと、踊ってくださる?」


 ひらりと一回転してポーズを決める。


「もちろんです、美しい人……と言いたいとこだけど」


 カイトはひざまづいたまま、差し出した手を引っ込めた。


「ダメだ。さすがにもう……踊れねえよ」





 やばっ、遅刻しちゃう!


 あわてて体を起こすと、真っ白な壁が目に入った。

妙に広いベッドの上、何も身につけていないことに気づいて、一気に現実が襲いかかってくる。


 震える手でぎゅっとシーツを握りしめる。


 そうか……夢じゃなかったんだ。


「お目覚めですか?」


 背後から落ち着いた女性の声が聞こえた。

振り返ると年はあたしより10ほど上だろうか、質素な服に身を包んだ女性が静かに立っていた。


「本日からエリーシャ様の身の回りのお世話をさせていただきます、アイーダと申します」


 アイーダは深々と礼をした。


 あたしは部屋を見まわして、深く息を吸った。

落ち着け……落ち着いて、まずは状況を正しく把握するんだ。


 逃げ出すにしてもなんにしても、ここがどんなところかわからなきゃ話にならない。


「とりあえず着る物をちょうだい、いつまでもこんな格好でいられないわ」


 昨日まで着ていた普段着はどこにいったのか、アイーダが出してきたのは真っ赤なドレスだった。


 パーティーでもないのにこんな大げさなドレス……目立って仕方がないけど、裸よりはマシだ。


 そのとき、にわかに外が騒がしくなった。


 何事かとバルコニーに出ると、石造りの見慣れない街並みの奥、深い森のさらに遠くの空に黒い煙が上がっているのが見えた。


 あれは、あの方向は……まさか……!


「殿下のお帰りだ!」


 喧騒にまぎれて声が聞こえた。

人の波をかき分けるように黒い馬がさっそうと走り抜ける。


 間違いない、サラームだ。

歓声で迎えられたサラームは、誇らしげに右手を高く掲げた。


 その手にあるものを見て、あたしは悲鳴を上げた。


 お優しくて、少しお茶目なところがあって、みんなから慕われていた。

サラームの腕からぶら下がっていたのは、無念に目を見開いた国王陛下の首だった。


 その日、戦の興奮が冷めやらぬまま、サラームは再びあたしを抱いた。


 祖国を燃やして、国王陛下を殺した男。

悲しくて憎くて仕方がないのに、あたしの体は前よりもさらに深く反応を示してしまう。


 サラームが去った後、悔しさに涙を流すあたしにアイーダが静かな声で言った。


「心中、お察しいたします」


 顔を上げると、アイーダは暗い目であたしを見ていた。


「わたくしは、元は奴隷でした……戦争で、主人を殺されまして」


 アイーダの瞳は、諦めと怒りのくすぶったような色で濁っていた。


 なんなんだ、ここは……こんなの、まるで地獄じゃないか。





 教室では机が沈み込むように床を破っていた。

あまり真面目な学生ではなかったあたしは、講義中いつもチラチラ時計を見ながら時間をやり過ごしていた。


 木枠ごと外れ落ちたかつての窓からはゆるく西日が差し込んでいる。


「カイト、見て、こっち」


 あたしが小さく手まねきすると、廊下にいたカイトはこちらに歩いてきた。


「ああ、もうちょっと静かに来て」


 小声で言うとカイトは怪訝そうな顔をする。


「静かにってなんだよ」


「これ」


 あたしが指をさした先を見て、カイトの顔がほころぶ。


「なんだこれ、可愛いな」


 教室の隅、小さな陽だまりではキツネが3匹、重なり合うようにして眠っていた。





 あの地獄のような出来事から半年ほどが経った。


 サラームはあたしの何を気に入ったのか、王宮内に部屋を与えて、夜ごとに訪れるようになった。


 あたしの家族を殺して、祖国を滅ぼした男。


 許すことなんてできるわけがないのに、サラームの体温に馴染みきった体は、知らず知らずのうちにその熱を求めてしまう。


 自分の体の浅ましさが嫌になる。


 カイトと再会したのはそんなときだった。

彼はわずかな生き残りを集めて、レジスタンスを組織していた。


 アイーダに連れられて行った城の裏庭で、衛兵に扮したカイトを見たとき、はじめは誰だかわからなかった。


 戦争が彼を変えたのだろうか。

いつものんびりして、どこか浮世離れしたようなカイトはもう影もなかった。


 ボサボサの頭に、やつれた頬、そこにいたのはかつてのアカデミーの同級生でも、優しくてちょっと頼りない婚約者でもなく、祖国のために命をかけるレジスタンスのリーダーだった。


 祖国を滅ぼした男の寵姫として毎夜抱かれているあたしの姿は、カイトの目からはどんなふうに見えているんだろう。


「あの、リリーベル嬢は……?」


 カイトの顔が悔しそうにゆがむ。


「聖樹祭の炎で……死んだ、守れなかったんだ」


 ぐっ……と胸が詰まる。

リリーベル嬢の笑顔を思い出す。


 天真爛漫でいつも子供のように可愛らしく、そして、大げさというか……どこかわざとらしい仕草は女子学生からは少し疎まれていた。


 もう、彼女もこの世にはいない。


「なあ、君の立場だって、決して安全なものじゃないんだろ? 俺たちと一緒に戦わないか……一緒に、あいつらの手から祖国を取り戻そう」


 カイトが取り出したのは木彫りの天使だった。


「夜中の12時になったら爆発する。これをサラームの枕元に置いてくれればいい、あいつさえいなくなれば……」


 木彫りの天使……こんな血生臭い戦争とは無縁だった頃の、平和の象徴。

爆弾を詰め込まれた天使の微笑みはどこか嘆いているようにも見える。


「ダメよ」


 やりきれない思いであたしは首をふる。


「そんなこと、そんな恐ろしいことあたしには……」


「君はそれでいいのか?」


 あたしの言葉をカイトは強い口調で遮った。


「あいつらは、根こそぎ壊していったんだぞ、すべてを!」


 カイトの放つ空気におされて、息がうまくできなくなる。


「あいつら、聖樹に火をつけたんだ……なんて言ったと思う? 『聖なる木はよく燃えるな』って、笑ったんだぞ」


 強く握りしめられた天使は今にも壊れてしまいそうに見えた。


「悔しくないのかよ……」





 緑に覆われた石造りの階段を登る。


「おい、危ないぞ」


 カイトの声に思わず笑ってしまう。


「危ないって……あれだけのことがあったのにしぶとく生きてるあたし達なんだから、こんな階段なんてなんでもないでしょ」


 カイトはまぶしそうな目でこちらを見上げていた。


 階段を登りきると真っ赤な花に覆われた大地と、遠くの深い森が等しく柔らかい夕陽に包まれているのが見えた。





「エリーシャ様、それなあに? 可愛らしいわ」


 サラームの娘、サザム王女が目を輝かせながらこちらを見る。


「触っちゃだめ!」


 不満そうなサザムを振り切るようにあたしは天使を抱えて部屋へと急ぐ。


 結局、受け取ってしまった。


『経路は確保してる。仕掛けたらすぐに城を出ろ』


 カイトの言葉が頭の中で繰り返される。

おそらく、サラームは今日もあたしの部屋に来るだろう。


 枕元にこれを置いて、サラームが寝ている間にベッドを抜け出せばいい。

それで、終わる。


 祖国を焼かれた悔しさも、憎いはずの男に抱かれて、心も体も塗り替えられていくような恐ろしさも、すべて終わらせられる。


 夜、鏡台で髪をとかしながら、あたしは緊張に押しつぶされそうになっていた。


 もし、今日に限ってサラームが来なかったら?


 さっきから胸は激しく鳴りっぱなしだ。


 いや、もしかしたらあたしはサラームが来ないことを望んでいるの?


 鏡の中の自分を見つめる。


 人を殺すことが怖い?

でも、あいつは家族を殺して、あたしの祖国を奪った……殺されて当然の男だ。


 じゃあ、なんで……? あたしは何を迷っているの?


 答えは出ないまま、背後でドアが開いた。


「殿下……」


 サラームはベッドサイドに置かれた天使を一瞥すると、気にもしてない風にあたしを呼んだ。


「来いよ、エリーシャ」


 殺戮者とは信じられないくらい、優しくて、甘い声。

ぐっと唇をつぐむと、あたしは立ち上がってベッドへと入った。


 サラームはいつものようにあたしを抱き寄せて流れるように肩を撫でてから、動きを止めた。


「どうした?」


 びくっと、体が震える。


「今日は何か変だぞ」


 もしかして……サラームには見破られている?


「どうした? エリーシャ、何かあったのか?」


 サラームはあたしの頭を撫でると、ぎゅっと強く抱きしめた。


 やめて……嫌だ。


 なんで、この人は冷酷な侵略者のままでいてくれないんだろう。

なんで……なんであたしに憎しみだけを抱かせてはくれないんだろう。


 あたしはサラームから自由になりたいのに、サラームを殺して、この恐ろしく優しい腕から抜け出さないといけないのに。


「今日は、ずっとこうしていようか」


 その言葉は、死刑宣告のように聞こえた。


 時間は刻一刻と迫っている。


 どうしよう……どうすればいい?

サラームの熱い腕に包まれながら必死に考えをめぐらせる。


 いっそ、この腕の中で共に滅びてしまうのも悪くないかもしれない。

あたしの命をもって、すべてを終わらせる。


 それでいい、もう、考えるのも疲れた。


 そのとき、時計が12時を指した。


「だめ!」


 何が起こったのか自分でもわからなかった。


 あたしは、天使を掴むと、抱きしめるように自分の体で包みこんでいた。

歯を食いしばって、目を閉じる。


 どれだけ時間が経ったのか、再び目を開けたとき、驚いた顔でこちらを見るサラームと、静かな微笑みをたたえた天使がぼんやりと見えた。


「それが、どうかしたのか?」


 サラームは皮肉っぽく笑うと、ぼう然とするあたしから天使を取り上げて枕元に置いた。


「こんなものに怯えてたのか」


 ぎらりと、サラームの瞳に愉悦の炎が灯る。


「可愛いよ、エリーシャ」


 ぐいっと強い力で抱き寄せると、サラームは熱く唇を重ねた。


 なんであたしは、サラームを庇うようなことをしたんだろう。

頭に浮かんだ疑問は体の芯から湧きあがる熱に溶かされてすぐに意味をなさなくなる。


 微笑む天使の横で、あたしはいつにも増して情欲の波に深くのまれていった。


 眠っているサラームの顔を眺める。


 殺戮だ侵略だと血生臭い言葉が常についてまわる彼も、こうしている時はただの男に見える。


 あたしの日常にふらりと現れて、すべてを壊していった男。


 胸が締め付けられる。

あたしは、この残酷な男に死んでほしくないと思っているんだ。


 頬に手を伸ばすと、すぐさま強い力で手首をつかまれた。


「なんだ……エリーシャか」


 サラームはそう言って手の力をゆるめる。


「どうした?」


 あたしは答えずに頬を撫でると、ゆっくりと唇を重ねた。

背中にまわされたサラームの腕に力が入るのがわかった。


 あの日、カイトが渡した天使の中には何も仕込まれてはいなかった。


 ただの狂言だったのか、それとも手違いだったのかは今でもわからない。

もしかしたら、カイトもまた、微笑む天使の中に爆薬を詰めることができなかったのかもしれない。


 その日以降、アイーダの姿を見ることはなくなった。





「また、ここに戻ってくるなんてな」


 カイトは祈るように空を眺めた。


 力で奪ったものはさらに強い力に奪われて……そうして全ては風のように去っていった。


 卒業パーティーに沸く校内も、木彫りの素朴なマーケットも、もうどこにもない。


「風が強くなってきたわね……遅くなる前に帰りましょうか」


 カイトは頷いて大きく伸びをした。


「今日は月末だから、晩餐にデザートがつく。君も来るだろ?」


 あたしは静かに首を振る。


「遠慮しておくわ、今日は、ほら」


 カイトは思い当たったように「ああ」と小さく言った。


「そうか、命日だったな……あいつの」


 あたしは頷いて遠い空を見る。

いつのまにか空は夕闇に変わっていた。





 あの日、遠い祖国の空に見た煙が今は城から上がっている。

あたしは信じられない思いで城門につるされているサラームのなきがらを見ていた。


 レジスタンスも、どんな軍勢でも決して攻め落とせなかったはずの城は、跡目争いに付け入った家臣の反逆によってあっけなく瓦解した。


「なにやってるんだ! 早く逃げるぞ」


 カイトの叫びにあたしは首をふる。


「いいの……あたしは、殿下と運命を共にする」


 家族を失って、祖国を失って、そして一番恨んでいたはずの、愛しい人を失って、どうしてこれ以上生きている必要があるんだろう。


「馬鹿!」


 すぐ近くにいるはずのカイトの声はまるで窓の外で吹く風のように遠く聞こえる。


「こんな時代に、せっかくここまで生き残ったんだろ! しぶとく生きなくてどうするんだよ」


 ぼんやりとカイトを見ると、顔を真っ赤にして涙を流していた。


「死んだ……死んでいった奴らの分まで、俺たちが生きるんじゃないのかよ」


 あとで知ったことだけど、レジスタンスで出会ったカイトの恋人……不思議な瞳を持つ遠い国の少女もまた、乱世の炎の中に消えていた。


「なあ……」


 カイトはぎゅっとあたしの手を握った。


「生きてくれよ、その、俺、俺のために生きてくれよ」


 ひとこと、ひとことしぼりだすように、カイトは話す。


「それでいつか、平和な世の中になったら……アカデミーのこととかさ、懐かしいって笑いながら話そう」


 カイトの手のひらは、遠い昔の記憶みたいな匂いがした。





「お帰りなさい」


 スープの匂いがする家から、子ども達と一緒に小柄で飾り気のない女の人が出てきた。


「ああ、ただいま」


 優しい顔で笑うと、カイトは集まってきた子どもの頭を撫でた。


 カイトは12歳上の女性と結婚して、森の中の小さな家で戦災孤児たちの面倒を見ている。


 なんというか、カイトの好みは一貫している。

あたしが振られた理由も今ならよくわかる。


「じゃあ、またな」


 子どもに囲まれながら手を振るカイトに、あたしも手を振り返す。


「うん、また」


 森を抜けて草原に出る。

ふと見上げた空には青白い月が静かに光っていた。



 おしまい

 最後まで読んで下さってありがとうございます。

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