第9話 結ばれた紐と拒絶の言葉
噂と彼の言葉で、私は身を引こうと決めた。
その決意は一晩寝かせても変わることなく、むしろ明け方の冷気の中でより硬く、鋭いものになっていた。
ほとんど眠れないまま、私はベッドから這い出した。
部屋の隅には、半分ほど荷物が詰まった行李が口を開けている。
昨夜書こうとして失敗した手紙の残骸が、屑籠の中で白く浮き上がって見えた。
「……行かなきゃ」
私は顔を洗い、冷たい水で強引に意識を覚醒させた。
店に行くのはこれで最後かもしれない。
ミレイさんに挨拶をする前に、やらなければならないことが一つだけある。
机の上に置かれた、革の手袋。
これを持ち主に返さなければ、私は本当の意味でここを去ることができない。
手袋を上着のポケットに押し込む。
その重みが、また私を現実に引き戻す。
これは返却ではない。関係の清算だ。
アパートを出ると、朝霧が町を包んでいた。
視界が白く霞み、自分の足元さえおぼつかない。
まだ人通りのない道を、私は食堂へ向かって歩いた。
店に着いたら、カウンターに手袋を置き、短いメモを残して立ち去ろう。ミレイさんには会わずに、鍵だけ返して。
それが一番、誰も傷つかない方法だ。
店の裏口に回り込もうとした時だった。
霧の向こうに、人影が立っていた。
「……誰だ」
鋭い声。
空気がピリリと張り詰めるのが分かった。
私は思わず足を止めた。
霧が晴れるように、その姿が輪郭を帯びる。
ダズだった。
彼は腕組みをして壁に寄りかかり、何かを待ち構えるように立っていた。
その表情は、これまで見たどの瞬間よりも険しい。
眉間に深い皺が刻まれ、瞳には剣呑な光が宿っている。
「英雄」の顔だ。私に向けられていた、あの不器用な優しさはどこにもない。
「リネットか」
私だと認識すると、彼はわずかに警戒を解いたが、表情は硬いままだった。
「……おはようございます。こんな朝早くに、どうしたんですか」
震える声を悟られないように、私は努めて平静に尋ねた。
ポケットの中の手袋を握りしめる。
今だ。今ここで、「これ、忘れてましたよ」と言って渡せばいい。
けれど、彼は私の言葉を遮るように、一歩踏み出してきた。
「ちょうどよかった。お前に話がある」
「え……」
「ここ数日、俺がこの店に出入りしていたことで、妙な噂が立っているらしいな」
心臓が跳ねた。
彼は知っていたのだ。自分たちのことが、町の人々の口の端に上っていることを。
「迷惑をかけてすまなかった。俺の配慮が足りなかった」
謝罪の言葉。
けれど、その声のトーンは冷たく、事務的だった。
まるで、部下に作戦の変更を伝える指揮官のような響き。
「これから、俺を取り巻く状況が変わる。王都での……いや、詳しくは言えないが、厄介なことになるかもしれない」
彼は視線を私から外し、遠くの霧を見つめた。
「だからリネット。お前はもう、俺に関わるな」
息が止まった。
頭の中で、何かが崩れ落ちる音がした。
「……関わるな、というのは」
「言葉通りの意味だ。俺が来ても、もう店には顔を出すな。必要以上に俺の近くに寄るな」
彼は再び私を見た。その瞳は、私を拒絶しているように見えた。
あるいは、私という存在を自分の世界から切り離そうとしているように。
「お前は、静かに暮らしたいんだろう? だったら、俺のそばにいない方がいい」
それは、私のためを思っての言葉だったのかもしれない。
けれど、今の私には「死刑宣告」にしか聞こえなかった。
『お前がいると邪魔だ』
『英雄のそばに、追放された女がいるのは不都合だ』
そう言われているのと同じだった。
「……はい、分かりました」
喉の奥から絞り出した声は、掠れて消え入りそうだった。
私は、ポケットの中で握りしめていた手袋から、そっと手を離した。
返せない。
今ここでこれを渡してしまえば、「貴方の忘れ物を届けるような親しい関係」を自ら証明してしまうことになる。
関わるなと言われた人間に、私物を返す資格さえない。
「今まで、ご迷惑をおかけしました」
私は深く頭を下げた。
顔を上げたら、涙を見られてしまうと思ったから。
「……リネット」
彼が何か言おうとした気配がした。
けれど私は背を向け、逃げるように走り出した。
店には寄らない。もう、ここにはいられない。
彼の視界に入ることさえ許されないのなら、私が取るべき選択肢は一つしかなかった。
「はぁ、はぁ……っ」
自宅への道を駆け戻りながら、涙が溢れて止まらなかった。
分かっていたはずだ。
彼と私は違う世界の人間だと。
それでも、厨房で並んで立ったあの時間だけは、本物だと思いたかった。
彼もまた、私を必要としてくれていると、自惚れていたかった。
アパートのドアを閉め、鍵をかける。
背中でドアに寄りかかり、ずるずると座り込む。
ポケットの重みが、今はただの呪いのように感じられた。
「……バカみたい」
涙を拭い、私は立ち上がった。
泣いている時間はない。
彼が「関わるな」と言ったのなら、私は彼の視界から完全に消えるべきだ。
この町にいれば、いつかまた彼とすれ違うかもしれない。
そうなれば、彼にまた「迷惑」をかけることになる。
私は部屋の隅にある行李の前に座り込んだ。
昨日放り込んだままの衣服や小物が、乱雑に重なっている。
その上から、残りの荷物を次々と詰め込んでいく。
丁寧に畳む余裕なんてない。ただ、自分の痕跡を消すように、すべてを箱の中に押し込めた。
ミレイさんにもらったエプロン。
ハンスさんがくれた木彫りの熊。
それらを見るたびに手が止まりそうになるのを、無理やりねじ伏せる。
ごめんなさい。ごめんなさい。
心の中で謝り続けながら、私は行李の蓋を閉めた。
「っ……!」
蓋を縛る紐を手に取る。
麻紐のざらついた感触が指に食い込む。
ぎゅう、と力を込めて結び目を作る。
きつく、固く。二度と解けないように。
それは、この町での思い出と、彼への想いを封印する儀式のようだった。
紐を引く手に、震えが走る。
この結び目を完成させてしまえば、私はまた「何者でもない私」に戻る。
追放され、居場所を失い、ただ流されるだけの存在に。
「本当に、これでいいの?」
静まり返った部屋に、自分の声が響く。
彼に言われたから? 迷惑だから?
それで私は、また逃げるの?
「自分で決めた」つもりで、結局は誰かの言葉に従って、自分の居場所を捨てようとしているだけじゃないか。
行李の紐を握ったまま、私は動けなくなった。
指先が白くなるほど強く握りしめても、心の震えは止まらない。
ダズのあの顔。
「関わるな」と言った時の、どこか苦しげに見えた瞳。
あれは本当に、私を邪魔だと思っての言葉だったのだろうか。
「……分からない」
私は行李に額を押し当てた。
行きたくない。
この町が好きだ。ミレイさんの店が好きだ。
そして、本当は、彼のそばにいたい。
けれど、私にはその資格がない。
彼自身が、それを否定したのだから。
窓の外では、完全に夜が明け、新しい朝が始まろうとしていた。
街の人々が動き出し、日常の音が聞こえ始める。
その賑わいが、私を余計に孤独にさせた。
私は重い行李を持ち上げようとして、よろめいた。
物理的な重さではない。
ここを去ることの重さが、足に鉛を巻きつけているようだった。
本当に私がいなくなるべきなのか?
その問いかけだけが、結び目のように胸の奥で固く絡まったまま、解けずに残っていた。




