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追放された私が作るご飯を、英雄になった幼馴染が毎日食べに来ます!  作者: 九葉(くずは)


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第8話 古い行李と書けなかった手紙

噂が私の胸を締め付ける。


あの夜、街灯の下で彼を突き放してから数日が過ぎていた。

厨房の窓から見える空は高く、鰯雲が流れている。秋の気配が深まると共に、私の心の中にも冷たい風が吹き始めていた。

エプロンのポケットは軽い。あの革の手袋は、自宅の引き出しの奥にしまってある。

持ち歩くことすら、もう許されない気がしたからだ。


「……リネットちゃん、聞いてるかい?」


「えっ、あ、はい。すみません」


私はハッとして顔を上げた。

作業台の上で、剥きかけのジャガイモが転がっている。

ミレイさんが心配そうに私を覗き込んでいた。


「どうしたんだい、ボーッとして。騎士様が来なくなって寂しいのかい?」


「ち、違います! そんなんじゃ……」


「隠さなくてもいいさ。でもね、あの方も今は忙しい時期みたいだよ」


ミレイさんは声を潜め、真剣な表情になった。

彼女がこうして声を低くするときは、決まって「街の裏事情」や「確度の高い噂」を仕入れてきたときだ。


「さっき酒屋の親父から聞いたんだけどね。ダズ様、近々『大きな任務』に就くらしいよ」


「……任務、ですか」


ピーラーを持つ手が止まる。

冷たいジャガイモの水分が、指先を濡らしていく。


「ああ。北の方でまた不穏な動きがあるとか、王都の警備体制が変わるとか……詳しいことは分からないけど、とにかく長期の遠征になるかもしれないって話だ。だから最近、この辺りで頻繁に見かけられてたのも、その準備の一環だったのかもしれないね」


心臓が、嫌な音を立てて脈打った。

大きな任務。長期の遠征。

それはつまり、彼がこの地を離れることを意味する。

そして同時に、彼が「英雄」として、より一層重要な立場に就くということだ。


「……そうですか。立派な方ですから、当然ですね」


私は努めて平静を装い、ジャガイモの皮を剥き始めた。

シュッ、シュッ、という音が厨房に響く。

リズムを刻むことで、動揺を悟られないようにする。これが宮廷で覚えた、感情を殺すための唯一の技術だ。


彼がここに来ていた理由。

「幼馴染だから」と言って手伝ってくれた理由。

それは、任務へ向かう前の、ほんの気まぐれな感傷だったのかもしれない。

あるいは、これから危険な場所へ行く前に、過去の縁を整理しておきたかったのか。


どちらにせよ、結論は同じだ。

私の存在は、これからの彼にとって「過去」のものでしかない。

いや、もし彼が私に情を抱いてくれているのだとしたら、私がここにいること自体が、彼の足枷になるかもしれない。

「追放された幼馴染がいる」という事実は、英雄の経歴における汚点になり得るのだから。


「寂しくなるねえ。この店も、あの方が来てくれてから随分と活気づいたのに」


ミレイさんの嘆息が、私の決意の背中を押した。

そうだ。彼がいなくなれば、この熱狂も終わる。

そして私がここに残れば、いつか必ず「追放された令嬢」という正体が露見し、ミレイさんにまで迷惑がかかる日が来る。


潮時だ。

ジャガイモを水に放り込む。

ボチャン、という音が、私の心の中で何かが閉じる音と重なった。


その日の夜。

仕事を終えて自室に戻った私は、部屋の隅に積んであった荷物を崩した。

この町に来た時と同じ、古びた行李だ。

蓋を開けると、防虫剤の樟脳の匂いが鼻をつく。


「……荷造り、しなきゃ」


狭い部屋を見渡す。

数ヶ月の生活で、物は少しだけ増えていた。

ミレイさんがくれた膝掛け。ハンスさんが彫ってくれた木彫りの熊。市場で買った安物のマグカップ。

一つ一つに、この町での温かい記憶が宿っている。

それを手に取るたびに、胸が締め付けられるような痛みが走る。


ここが好きだった。

ミレイさんの豪快な笑い声も、ハンスさんの冗談も、子どもたちの笑顔も。

そして何より、自分の料理で誰かが喜んでくれるこの場所が、私の初めての「居場所」だった。


「でも、ダメなの」


私は首を振り、マグカップを新聞紙で包んだ。

クシャクシャという音が、私の未練を押し潰していく。

私がここにいれば、いつかダズがまた来るかもしれない。

彼が来れば、噂になる。

彼が任務に集中すべき時に、私の存在がノイズになってはいけない。


私が消えればいい。

誰にも告げず、また別の町へ。あるいはもっと遠くの田舎へ。

そうすれば彼は、心置きなく英雄としての道を歩めるはずだ。


荷物は少なかった。

もともと多くを持っていなかったし、これからも多くを持つことはないだろう。

行李の半分ほどが埋まったところで、私は手を止めた。


引き出しを開ける。

そこには、あの日記帳と、彼の革手袋が入っていた。


日記帳を取り出し、パラパラとめくる。

『やくそく』のページ。

子供の落書きのような二人の棒人間が、無邪気に笑っている。

この約束は、もう果たされない。

私は日記を閉じ、行李の底へ沈めた。


そして、手袋。

手に取ると、やはり彼の匂いがした。

鉄と革、そして微かな温もりの記憶。

これをどうしよう。

持って行くべきか、置いていくべきか。

置いていけば、彼が取りに来た時にミレイさんが渡してくれるだろう。でも、そうすれば私が去ったことが彼に伝わってしまう。

持って行けば……それは泥棒だ。それに、いつまでも過去に縋ることになる。


「……返さなきゃ」


私は手袋を机の上に置いた。

明日、出発する前にミレイさんに託そう。「忘れ物です」と書き置きを添えて。

そうすれば、私はただの「店員」として終われる。


インク壺とペンを取り出し、羊皮紙を広げる。

ミレイさんへの置き手紙を書くためだ。

感謝の言葉と、急に去ることへの謝罪。

ペン先にインクを含ませる。


『ミレイさんへ』


そこまで書いて、筆が止まった。

白い紙の上で、黒いインクが乾いていく。

なんて書けばいい?

「実家の事情で」と嘘をつくか。「別の仕事が見つかった」と言うか。

どんな言葉を選んでも、彼女の悲しむ顔が浮かんでしまう。

「あんたはここにいていいんだよ」と言ってくれた彼女を、私は裏切ろうとしている。


「ごめんなさい……ごめんなさい」


涙が滲んで、視界が歪む。

ポタリ、とインクの雫が紙に落ち、黒い染みを作った。

私はその染みを指で擦ったが、広がるだけで消えることはない。

私の存在も同じだ。どこに行っても、誰かの人生に染みを作ってしまう。


結局、手紙は書けなかった。

インクの染みがついた羊皮紙を丸めて屑籠に捨て、私はベッドに倒れ込んだ。

行李の蓋はまだ開いたままだ。

その黒い口が、私の未来を暗示しているようで、目を背けるしかなかった。


明日の朝。

誰も起き出す前に、この部屋を出よう。

手袋だけをカウンターに残して。

そうすれば、きっとすべてが丸く収まる。


布団を被り、目を閉じる。

瞼の裏に浮かぶのは、厨房で並んで皿を洗った彼の横顔だ。

あの時の静かな時間。言葉なんてなくても通じ合えたような錯覚。

あれが、私にとっての最初で最後の「英雄との共演」だったのだ。


「さようなら、ダズ」


誰にも聞こえない声で呟く。

その言葉が、自分自身を切り裂く刃物のように響いた。

私が消えれば、彼は困らないのだろうか?

いや、きっと気づきもしないだろう。

だって彼は、国を守る英雄なのだから。一人の料理人が消えたところで、世界は何も変わらない。


そう自分に言い聞かせても、涙は枕を濡らし続けた。

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