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追放された私が作るご飯を、英雄になった幼馴染が毎日食べに来ます!  作者: 九葉(くずは)


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第7話 夜風と使い込まれた革の匂い

彼は昔と同じように、理由は簡単に手伝ってくれた。

そして嵐のように去っていった厨房には、整然と並んだ食器と、彼が残した静寂だけが漂っていた。


閉店作業を終え、私は重い木戸に鍵をかけた。

カチャリ、と錠が噛み合う音が、一日の終わりを告げる。

夜風が火照った頬を撫でていく。昼間の喧騒が嘘のように、町は静まり返っていた。


「あーあ、疲れたねえ。でも今日は騎士様のおかげで助かったよ」


隣で伸びをしたミレイさんが、苦笑交じりに言った。


「本当に……驚きました」


「全くだよ。国の英雄に皿洗いをさせるなんて、後で不敬罪で捕まったりしないかね?」


冗談めかして言うけれど、その声には弾みがある。

私はエプロンのポケットの上から、革の手袋をぎゅっと握りしめた。

硬い革の感触が、掌に食い込む。

彼は手袋のことを忘れているのか、それとも気にしていないのか。

さっき厨房にいた時、返そうと思えば返せたはずだ。けれど、あの時の私は彼との阿吽の呼吸に夢中で、この異物の存在をあえて無視してしまっていた。


「お先に失礼します」


「あいよ、気をつけて帰るんだよ」


ミレイさんに手を振り、私は自宅への帰路についた。

石畳の小道を、月明かりだけを頼りに歩く。

靴音がコツコツと響くたび、さっきの彼の横顔が蘇る。

袖をまくり、真剣な眼差しで皿を洗う姿。

「客じゃない」と言い切った低い声。

どうして、あんなに自然に私の隣にいられるの?

私は追放された身で、彼は英雄なのに。

その距離の近さが、今の私には何よりも怖くて、そして甘美だった。


角を曲がったところにある、街灯の下。

そこに、見慣れた影が落ちていた。


息が止まりそうになる。

街灯の薄明かりの中に、ダズが立っていた。

壁に背を預け、腕を組んで夜空を見上げている。

私が足を止めると、彼はゆっくりと視線を下ろし、私を見た。


「……仕事は終わりか」


「……はい。ダズ様も、まだいらしたんですか」


わざと他人行儀な敬語を使う。

これは防壁だ。幼馴染という甘い関係に雪崩れ込まないための、精一杯の抵抗。

彼は眉をひそめることもなく、組んでいた腕を解いた。


「少し、涼んでいた」


嘘だ。

彼の足元には吸い殻の一つも落ちていないし、何よりここは広場から外れた、私の家へ続く道だ。

待ち伏せされていたのだと気づき、胸の鼓動が早くなる。


「今日のことは、礼を言う必要はない」


私が口を開く前に、彼が先手を打った。


「どうして……あんなことをしたんですか? 貴方の立場を考えたら、食堂の皿洗いなんて」


「皿が足りなかった。それだけだ」


彼は淡々と言う。まるで、道端の石を退けた理由を説明するように。


「それに、お前が困っていたからな」


「え……」


「昔からそうだろ。お前は一度集中すると周りが見えなくなる。誰かが横で支えないと、すぐに倒れるまで働く」


その言葉に、私は言葉を失った。

彼は覚えていたのだ。

実家の厨房で、私が夜通しお菓子作りの練習をして倒れかけた時のことを。

その時も彼は、呆れながら小麦粉の袋を運んでくれた。


「幼馴染が困っているのを見て、手伝わない理由は俺にはない」


幼馴染。

その言葉が、すとんと胸に落ちると同時に、鋭い棘となって刺さった。

彼は私を「幼馴染」として見ている。

英雄でも、追放者でもなく。ただの、昔からの腐れ縁として。

それは何よりも嬉しいことのはずなのに、なぜだろう。

「今の私」を見てもらえていないような、寂しさが過る。

私はもう、守られるだけの少女じゃないのに。


「……迷惑です」


心にもない言葉が、口をついて出た。


「え?」


「貴方は英雄なんです。こんなところで噂になったら、貴方の経歴に傷がつきます。だから……もう、構わないでください」


私は視線を逸らし、彼の横を通り過ぎようとした。

これ以上話していたら、泣いてしまいそうだったから。

ポケットの中の手袋が、熱を持ったように重く感じる。

返さなきゃ。今ここで、「これ、忘れてましたよ」って渡して、それで終わりにしなきゃ。


けれど、手はポケットの中で固まったまま動かなかった。

これを返してしまったら、彼との繋がりが本当に切れてしまう気がして。


すれ違いざま、彼が微かに身じろぎした気配がした。

呼び止められるかと身構えたが、彼は何も言わなかった。

ただ、夜風に乗って、彼特有の鉄と革の匂いが鼻先を掠めただけだ。


「……気をつける」


背後で、短くそう聞こえた。

肯定とも、謝罪とも取れる声。

私は振り返らずに歩き続けた。足早に、逃げるように。


自宅の粗末なアパートに帰り着き、鍵を閉めた瞬間、膝から力が抜けた。

そのまま玄関の床に座り込み、深く息を吐く。

心臓が痛いほど脈打っている。


震える手で、ポケットから手袋を取り出した。

街灯の下ではよく見えなかったが、部屋のランプの灯りで見ると、その使い込まれた具合がよく分かる。

指の関節部分には無数の皺が刻まれ、掌の部分は摩擦で艶が出ている。

彼がどれだけ剣を振り、どれだけ過酷な任務をこなしてきたか。この革がすべてを知っている。


「馬鹿ね、私」


手袋を顔に近づける。

微かに残る汗と、革の匂い。そして、あの厨房で嗅いだ洗剤の匂いが混じっている。

英雄の手袋に、生活の匂いが染み付いている。

それがたまらなく愛おしくて、私は手袋に額を押し当てた。


「迷惑です」なんて言っておきながら、私は彼の匂いに縋っている。

矛盾している。

彼に去ってほしいのか、いてほしいのか。自分でも分からない。

ただ一つ確かなのは、彼が「幼馴染だから」と言ってくれたその事実が、凍えていた私の心を溶かしてしまったということだ。


私がここにいる意味。

それは単に料理を作るためだけではないのかもしれない。

彼が帰ってくる場所として、ここにあることが許されるなら。

もし、私の存在が彼にとって「都合のいいお荷物」でないのなら。


窓の外を見上げる。

月は静かに輝いているけれど、私の心は千々に乱れたままだ。


「私がここにいるのは、彼にとって本当に都合のいいことなの?」


手袋の革の冷たさが、熱い涙を吸い込んでいく。

答えはまだ、闇の中に溶けたままだ。

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