第6話 揚げパンの砂糖と英雄の皿洗い
ポケットの中で革の手袋が、持ち主の不在を訴え続けている。
夕暮れ時、私は厨房の勝手口から外を覗いた。
空は茜色から群青へとグラデーションを描き、家路を急ぐ人々の足音が砂利道に響く。
ダズはまだ手袋を取りに来ない。
昼間に忘れていったそれを、私はエプロンのポケットに入れたままにしていた。肌身離さず持っているのは、彼がいつ戻ってきてもすぐに渡せるようにという言い訳と、手放すのが惜しいという小さな未練のせいだ。
「リネットお姉ちゃん! いい匂いがする!」
足元から元気な声が上がった。
視線を落とすと、近所の子どもたちが鼻をひくつかせながら集まってきていた。彼らは学校帰りにこうして店の裏に寄り道をするのが日課になりつつある。
「鼻が良いわね。ちょうど今、オヤツが揚がったところよ」
私はボウルを抱え直し、屈み込んだ。
中には、パンの耳を油で揚げて砂糖をまぶしただけの簡素な菓子が入っている。サンドイッチを作った際に出る余り物だが、子どもたちにはこれがご馳走らしい。
小さな手が次々と伸びてくる。
「熱いから気をつけてね」
「わーい! ありがとう!」
揚げパンを口に放り込み、頬を膨らませる子どもたち。
その笑顔を見ていると、自分がここで生きていることを許されたような気持ちになる。
私は「不要な人間」ではない。こうして誰かの小さなお腹を満たすことができる。
砂糖で少しベタつく指先を布巾で拭いながら、私はふと通りの向こうに目をやった。
そこには、見慣れない人影があった。
広場のベンチに、ダズが座っている。
彼は数人の子どもに囲まれていた。
遠目だが、彼がポケットから何かを取り出し、子どもたちの手のひらに乗せているのが見えた。
キラキラと光る包み紙。たぶん、王都の飴玉か何かだ。
子どもたちが歓声を上げ、ダズが微かに口元を緩める。
その表情は、新聞で見る「英雄」の厳しい顔つきとは違い、昔、私が転んだ時に手を差し伸べてくれた少年の顔そのものだった。
「……変わってないのね」
胸の奥が温かくなると同時に、チクリと痛む。
彼は優しい。昔も、今も。
だからこそ怖い。その優しさが私に向けられた時、私はまた彼に甘えてしまいそうになるから。
自分の足で立つと決めたのに、彼の隣にいる心地よさを思い出してしまいそうになる。
「リネット! 大変だ、団体さんが来たよ!」
店内からミレイさんの悲鳴に近い声が響いた。
私はハッとして、感傷を断ち切るように踵を返した。
今は仕事だ。感傷で腹は膨れない。
厨房に戻ると、そこは戦場だった。
街道を行く商隊だろうか、十人近い男たちが一度に押し寄せ、テーブル席を占領していた。
さらにカウンターにはいつもの常連たち。
注文の声が飛び交い、食器のぶつかる音が絶え間なく響く。
「カツレツ五つにシチューが三つ! あっちのテーブルにはエールとつまみを!」
「はい、すぐに!」
私はコンロの前に立ち、三つのフライパンを同時に操った。
肉を焼く、ソースを温める、付け合わせを盛る。
思考を停止させ、身体に染みついた手順だけを頼りに動く。
けれど、圧倒的に手が足りない。
洗い場には汚れた皿が山のように積み上がり、次に出す料理のための清潔な皿がない。
「ミレイさん、皿が!」
「ごめん、今手が離せない! ちょっと待っててくれ!」
ミレイさんはホールで注文を取るのに必死だ。
どうしよう。火を止めて洗い物に回るか?
いや、そうすれば料理の提供が遅れ、客を待たせることになる。
焦りで背中を冷たい汗が伝う。
フライパンの油が跳ね、手首に熱い痛みが走るが、構っている暇はない。
誰か、誰でもいいから、手だけ貸してほしい。
その時だった。
厨房の入り口に、誰かが立った気配がした。
注文の催促だろうか。私はフライパンを煽りながら、顔も見ずに叫んだ。
「すみません、料理は今すぐに……!」
「――俺がやる」
短く、低い声。
返事を待つことなく、その人影は厨房に入り込んできた。
驚いて横目で見ると、そこにいたのはダズだった。
彼は無言でジャケットを脱ぎ、椅子の背に乱雑にかけると、シャツの袖をまくり上げた。
鍛え上げられた腕があらわになる。
「え、ちょっ……ダズ、様?」
「皿がないんだろう。貸せ」
彼は私が止める隙も与えず、洗い場の前に立った。
山積みになった皿を手に取り、スポンジに洗剤を含ませる。
その動きには一切の迷いがない。
水流の音と共に、凄まじい速さで皿が泡にまみれ、濯がれていく。
「な、何してるんですか!? お客さんがそんな……!」
「客じゃない。今はただの手伝いだ」
彼は振り返りもせずに言い放ち、洗い終わった皿を水切り籠に放り込んでいく。
その背中は広くて、でもどこか懐かしく、私は言葉を失った。
昔、実家の厨房でもこうして二人で隠れて夜食を作ったことがあった。あの時も、彼はこうして不器用に、でも手際よく片付けを手伝ってくれた。
「……火が強すぎるぞ、焦げる」
「あ、はい!」
彼の指摘に我に返り、私は慌ててフライパンを揺すった。
不思議だった。
隣に「英雄」がいるというのに、恐怖よりも先に安心感が勝っている。
彼が洗ってくれた皿を私が受け取り、料理を盛り付ける。
私が使い終わった調理器具を、彼がサッと洗って次の準備を整える。
言葉などなくても、呼吸が合う。
カチャリ、という皿の音と、ジュウという焼ける音が、まるで二重奏のように厨房のリズムを作っていく。
ミレイさんが配膳から戻ってきて、目を丸くした。
「えっ、ちょ、騎士様!? 何やってんだい!」
「気にするな。食い代の代わりだ」
ダズは顔色一つ変えずに答え、次々と皿を磨き上げていく。
その横顔は真剣そのもので、魔獣を討伐する時と同じ目をしているのかもしれない、なんて場違いなことを思った。
一時間後、ようやく客足が落ち着いた頃には、洗い場の皿はすべて片付いていた。
厨房はピカピカに磨き上げられ、心地よい疲労感だけが残っている。
ダズは濡れた手をタオルで拭き、まくり上げていた袖を戻した。
その動作一つ一つに、無駄のない美しさがある。
「……助かりました。本当に」
私は調理台を挟んで、彼に頭を下げた。
心臓がまだ高鳴っている。それは忙しさのせいだけではない。
「大したことじゃない」
彼は短く答え、ジャケットを手に取った。
そして、ふと私の顔を見た。
至近距離で合う視線。
その瞳の奥に、何か言いたげな色が揺れているのに気づいた。
でも、彼はそれを言葉にはしなかった。
「また来る」
それだけを残して、彼は裏口から出て行った。
引き止める言葉が見つからないまま、私は閉まった扉を見つめ続けた。
静寂が戻った厨房で、私は自分の手を見つめた。
まだ熱い。
彼と並んで料理をした、その熱が残っている。
ポケットの中の手袋が、衣擦れの音を立てた。
彼は手袋のことを言い出さなかった。忘れていたのか、それとも言うタイミングを逃したのか。
それよりも、どうして。
どうして彼は、あんなに自然に私の隣に立てるのだろう。
英雄と呼ばれる彼が、こんな油と煤にまみれた場所で、皿洗いなんて。
「……私の仕事に、そんなに首を突っ込みたいの?」
呟いた声は、戸惑いと、隠しきれない嬉しさで震えていた。
彼が単なる気まぐれで手伝ったわけではないことは、その手際の良さと、呼吸の合い方が証明している。
彼は知っているのだ。私がここで、必死に自分の居場所を作ろうとしていることを。
そしてそれを、否定せずに支えようとしてくれた。
それが幼馴染としての情けなのか、それとも別の何かなのか。
私にはまだ分からない。
ただ、綺麗になった皿の山が、彼がここにいた確かな証拠として輝いていた。




