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追放された私が作るご飯を、英雄になった幼馴染が毎日食べに来ます!  作者: 九葉(くずは)


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第5話 新しい看板と革の手袋

彼はまた町に来るかもしれない。

そんな予感が、整頓したばかりのスパイス棚を見るたびに胸をかすめる。


三日が過ぎた。

朝の光が差し込む厨房で、私は愛用の手鍋をフックから下ろした。

カチャリ、という軽い金属音が心地よい。

以前よりもスムーズに手が届く配置。自分の動きに合わせて空間を変えたことで、ここが「借り物」の場所から、少しずつ「私の場所」になりつつある感覚があった。


今日は少し早起きをして、気になっていたことに手をつけることにした。

表に出していたメニュー看板だ。雨風に晒されて文字が薄くなっているのが、ずっと心残りだったのだ。

私は道具箱からペンキと筆を取り出し、店の裏手にある作業台へと向かった。


木の板をサンドペーパーで擦る。

ザラザラとした表面が、次第に滑らかになっていく。

白い粉が舞い、木の香りが鼻をくすぐる。

この板一枚が、今日のお客さんを招く顔になる。そう思うと、手元に自然と力が入った。


「さて、と」


下地が整った板に、新しいペンキを乗せていく。

筆先に神経を集中させる。

『本日の定食 厚切りハムのスープ煮』

文字を書くというより、形を刻むような気持ちで筆を走らせる。

宮廷にいた頃は、こんな荒仕事をしたことはなかった。けれど、今の私にはドレスの裾を気にするよりも、指先にペンキをつけて働く方が似合っている気がする。


「おや、リネットちゃん。朝から精が出るね」


通りかかった近所の八百屋のおじさんが、荷車を引いたまま声をかけてきた。


「おはようございます。看板、新しくしようと思いまして」


筆を止め、私は笑顔で答えた。

作り笑いではない。自然と頬が緩む。


「いい心がけだ。そういえば、最近この辺りが騒がしいねえ。例の騎士様、今日も来てるらしいよ」


筆先が、ピタリと止まった。

黒いインクが一点に溜まり、じわりと木目に滲んでいく。


「……そう、なんですか」


「ああ。王都での任務が忙しいはずなのに、わざわざこっちまで足を運んでるって噂だ。よっぽどこの町の飯が気に入ったのか、それとも他に理由があるのか」


おじさんは呑気に笑って去っていったが、私の心拍数は跳ね上がったまま戻らなかった。

任務で忙しいはずなのに。

それなのに、彼はここに来ている。


「……自惚れちゃだめ」


私は首を振り、滲んだインクを修正するように太く線を重ねた。

彼がこの町に来るのは、あくまで休息のためか、あるいは公務の一環だ。

私のためではない。そう自分に言い聞かせないと、期待という名の毒が全身に回ってしまいそうだった。


看板を描き終え、乾かすために店先に立てかける。

新しい文字が朝日を浴びて輝いている。

それを満足げに見つめていると、不意に背後から影が落ちた。


「……いい文字だ」


低く、落ち着いた声。

振り返るまでもない。身体中の細胞が、その声の主を記憶している。

ゆっくりと後ろを向くと、そこにはダズが立っていた。

今日は軍服ではなく、簡素なシャツにジャケットというラフな姿だ。けれど、その立ち姿から滲み出る威圧感は隠しようがない。


「い、いらっしゃいませ」


喉が張り付くような緊張を押し殺し、私は頭を下げた。

彼は短く頷き、看板に視線を落としたままだ。


「スープ煮か。……貰おうか」


「はい。どうぞ、中へ」


私は逃げるように厨房へと戻った。

彼が私を認識しているのか、それともただの店員として扱っているのか、その表情からは読み取れない。

ただ、彼の目の下に薄く隈があることだけが見て取れた。

疲れている。

王都での激務の合間を縫って、ここまで来ているのだとしたら。


厨房に入り、鍋の火を強める。

コトコトと煮込んでいたスープの香りが立ち上る。

ハムの塩気と野菜の甘みが溶け込んだ、優しい匂い。

彼が疲れているなら、味付けは少し濃いめがいいだろうか。それとも胃に優しい薄味がいいだろうか。

迷った末に、私はいつも通りの味を出すことにした。

「懐かしい」と言ってくれた、あの味を。


スープをよそい、パンを添えてカウンターに出す。

彼は礼も言わずにスプーンを手に取り、静かに口へ運んだ。


私は洗物をしながら、背中で彼の気配を感じていた。

カチャ、カチャ、というスプーンと皿が触れ合う音だけが、店内の静寂を埋める。

会話はない。

けれど、拒絶されているわけではない、不思議な静けさだった。

昔、実家の図書室で、互いに本を読んで過ごした時の空気に似ている。


やがて、彼は完食し、また多めの硬貨を置いて席を立った。


「……美味かった」


去り際に落とされた一言。

それだけで、胸の奥が熱くなる。

彼は扉を開け、振り返ることなく出て行った。


「ありがとうございました」


私の声は、閉まる扉の音にかき消されたかもしれない。

それでも、言わずにはいられなかった。


彼が去った後のカウンターを片付けようとして、私は手が止まった。

彼が座っていた椅子の背もたれに、革の手袋が片方だけ残されていたのだ。

使い込まれた、焦げ茶色の革手袋。

剣を握るために酷使されたのか、掌の部分が擦れて色が変わっている。


「忘れてる……」


私はそれを手に取った。

まだ微かに、彼の体温が残っているような気がした。

追いかけなきゃ。

そう思ったけれど、足がすくんで動かない。

もし追いかけて、呼び止めて、そこで「君はリネットだろう?」と問われたら。

あるいは、「人違いだ」と冷たく突き放されたら。


どちらの結末も怖くて、私は店の中から出ることができなかった。

ただ、手の中にある革の感触だけが、彼が確かにここにいたという現実を突きつけてくる。


「どうして、こんなに隙があるのよ……昔はもっと、几帳面だったのに」


独り言は、誰にも届かない。

私はその手袋を、エプロンのポケットに入れた。

先日拾った布切れの隣に、新たな重みが加わる。


彼はまた来るだろうか。

この手袋を取りに。

それとも、このまま忘れてしまうのだろうか。


外を見ると、私が描いた新しい看板の前で、数人の客が足を止めていた。

店は今日も繁盛しそうだ。

私は深呼吸をして、自分の頬をパチンと叩いた。

感傷に浸っている場合じゃない。仕事をしなくちゃ。


でも、ポケットの中の重みが、動くたびに私の太ももを叩く。

もし彼がここを選んで来ているのなら。

それは、私のせいではないか?

その問いが、消えかけたペンキの匂いと共に、いつまでも私の周りを漂っていた。

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