第4話 研がれた包丁と伝言
彼は私の料理を食べたらしい。
そして、私を一瞥もしないまま、夜の闇へと消えていった。
翌朝、厨房に立った私は、まな板に向かう前に包丁を手に取った。
昨日の残像が、まだ瞼の裏に焼き付いている。
無言で食事を進める横顔。硬貨を置く音。背を向けたまま去っていく足音。
それらが頭の中で何度も再生され、胸の奥をざらつかせた。
「……研ごう」
私は砥石を水に浸した。
たっぷりと水を吸った石は、黒く濡れて重みを増す。
包丁の刃を石に当て、一定のリズムで前後に動かす。
シュッ、シュッ、シュッ。
濡れた石と鋼が擦れ合う音が、静かな厨房に響く。
この単調な音だけが、乱れた心を鎮めてくれる気がした。
指先に伝わる微かな振動に集中する。刃先の角度、力の入れ具合。
少しでも気を抜けば刃を傷めるし、指を切るかもしれない。その緊張感が、余計な思考を追い出してくれる。
研ぎ汁で汚れた水が、私の迷いのように濁っていく。
彼は私に気づかなかったのだろうか。
それとも、気づいた上で「赤の他人」として振る舞ったのだろうか。
エプロンのポケットには、昨日拾った布切れが入ったままだ。
その硬い感触が、太もも越しに微かな異物感を主張し続けている。
捨てられなかった。それが、私の未練の重さだ。
刃先を指の腹でそっと撫でて確認する。
吸い付くような鋭さが戻っていた。
これでいい。
どんなに心が揺れていても、道具だけは万全にしておかなければならない。それが料理人の、そして今の私の矜持だから。
水で包丁を洗い流し、清潔な布巾で水気を拭き取っていると、背後で扉が開いた。
「おはよう、リネット。精が出るねえ」
「おはようございます、ミレイさん」
振り返ると、ミレイさんが眠そうな目をこすりながら入ってきた。
彼女は大きなあくびをして、いつものようにエプロンを締める。
その何気ない日常の動作に、私は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
「昨日はご苦労だったね。あの騎士様、随分と満足して帰ったみたいだったよ」
不意に出た話題に、拭いていた包丁を取り落としそうになる。
私は慌てて柄を握り直し、作業台に置いた。
「……そうですか。残さず食べていただけたなら、よかったです」
努めて事務的に答える。
感情を悟られないように、視線をまな板の木目へと逃がす。
だが、ミレイさんはニヤリと笑って、私の顔を覗き込んできた。
「それだけじゃないよ。あの人、帰り際にボソッと言ってたんだ」
「え……?」
「『懐かしい味がする』ってさ」
心臓が、大きく跳ねた。
懐かしい味。
その言葉が、耳の奥で反響する。
「それ、本当に……?」
「ああ。あんたの方を見ようともしなかったけどね。でも、声は確かに優しかったよ。『ここに来てよかった』とも言ってた」
ミレイさんの言葉に、私は息を吸うのも忘れて立ち尽くした。
懐かしい味。
それはつまり、彼が気づいたということだろうか。
この料理を作ったのが、かつての幼馴染である私だと。
それとも、単に故郷の料理を思い出しての言葉だったのだろうか。
どちらにせよ、彼は料理を否定しなかった。
「美味い」とは言わなかったけれど、「懐かしい」と言ってくれた。
その事実だけで、凍りついていた私の心に、ぽっと小さな灯がともる。
私の存在は、彼にとって不快なものではなかったのかもしれない。
「ふふ、リネットったら。顔が真っ赤だよ」
「……っ、そんなことありません!」
私は慌てて両手で頬を包んだ。確かに熱い。
ミレイさんはからかうように笑いながら、冷蔵箱から野菜を取り出し始めた。
「まあ、英雄様にお褒めの言葉をいただくなんて、料理人冥利に尽きるってもんだ。今日も張り切っていいもの作んな」
「はい……!」
私は大きく頷いた。
さっきまで胸に渦巻いていた重苦しい不安が、少しだけ軽くなっている。
彼が私をどう思っているかは、まだ分からない。
でも、私の作った料理が、彼に少しでも安らぎを与えられたのなら。
私がここにいる意味は、きっとある。
私は厨房を見渡した。
もっと効率よく動けるようにしたい。
彼がまた来た時、もっと美味しいものを、待たせずに提供できるように。
「ミレイさん、少し棚の配置を変えてもいいですか?」
「おや、珍しいね。あんたがそんなこと言うなんて」
「はい。ここによく使う調味料をまとめておけば、盛り付けの時に手が止まらないと思って」
「好きにしな。この厨房はもう、あんたの城みたいなもんだからね」
許可を得て、私は早速動き出した。
塩、胡椒、香草の瓶を、手の届きやすい位置に並べ替える。
フライパンの吊るす場所も、火口から最短距離になるように調整する。
一つ動かすたびに、頭の中がクリアになっていく。
物理的な配置を整えることが、私の心の整理にも繋がっていた。
彼のために、という言葉は飲み込んだ。
これは店のため、お客さんのため。
そう自分に言い訳をしながら、私は無心で厨房を磨き上げた。
夕方が近づき、西日が店内に差し込む頃には、厨房は見違えるほど使いやすくなっていた。
研ぎ直した包丁が、夕陽を受けて鋭く光る。
その輝きを見つめながら、私は深く息を吐いた。
準備はできた。
いつ誰が来ても、最高の状態で料理を出せる。
ポケットの上から、布切れの感触を確かめる。
昨日は悲しみの象徴だったそれが、今は少しだけ違う意味を持って感じられた。
彼と私を繋ぐ、細い細い糸のようなもの。
もし、また彼が来たら。
その時は、背中を向けて隠れるだけじゃなく、もう少し顔を上げてみようか。
いや、それはまだ怖い。
でも、せめて「ありがとうございました」くらいは、言えるようになりたい。
扉の方を見る。
まだ誰もいない入り口。
次にそのベルが鳴る時、私はどんな顔をして彼を迎えればいいのだろう?
何を聞けばいい?
「気づいていますか」なんて、聞けるはずもないけれど。
「いらっしゃいませ」
練習のように小さく呟いてみる。
その声は、昨日よりほんの少しだけ、前を向いていた。




