第2話 サクサクの衣と常連の噂話
昨日、自分の台所が少し役に立った安堵と、すぐ近くに「あの人」がいるという不安は、一晩経っても私の胸の中で混ざり合っていた。
朝の冷気が残る厨房で、私は昨日仕込んだ味噌樽の蓋をそっと撫でる。
中身が熟成するにはまだ時間がかかるけれど、この樽がここにあるという事実が、私をこの場所に繋ぎ止めてくれている気がした。
ダズが近くにいる。その事実は怖いが、逃げ出すわけにはいかない。私にはもう、この場所と、この仕事しかないのだから。
私は作業台に向き直り、今日のための食材を並べた。
まな板の上に置いたのは、朝市でミレイさんが安く仕入れてきてくれた豚肉の塊だ。少し筋っぽいが、手をかければ十分に美味しくなる。
今日は新しいメニューを出そうと思っていた。安くて、ボリュームがあって、力仕事をする人たちが喜ぶもの。
「……まずは、筋切りから」
包丁の切っ先を肉の繊維に当て、トントンとリズミカルに切り込みを入れていく。
繊維を断ち切る感触が手に伝わるたび、迷いも一緒に断ち切っているような気分になる。
肉叩きで平らに伸ばし、塩と胡椒を振る。白い粉雪のような塩が、赤い肉に馴染んでいくのを見つめる。
この町に来てから、私は料理のことばかり考えている。
追放される前、宮廷での私は「誰かの付属品」でしかなかった。着飾って、微笑んで、当たり障りのない会話をするだけの存在。
でも今は違う。
小麦粉をまぶし、溶き卵にくぐらせ、パン粉の中に肉を落とす。ふかふかのパン粉を優しく手で押さえつける感触。
このひと手間が、揚がった時のサクサク感を生む。
ここでの私は、自分の手で何かを生み出すことができる。それが、今の私を支える唯一の自信だった。
下準備を終えたバットを冷蔵箱にしまったところで、表の扉が開く音がした。
「おはよう、リネットちゃん! 今日も一番乗りだぜ!」
ドカドカと足音を立てて入ってきたのは、木こりのハンスさんだ。
まだ昼前だというのに、彼の服には木屑がついていて、森の匂いがした。この食堂の新しい常連さんの一人だ。
「おはようございます、ハンスさん。今日はお早いですね」
私は手早く手を洗い、カウンター越しに冷たい水を出した。
コップの水滴を拭って差し出すと、彼は一気に飲み干して豪快に息をつく。
「ああ、今日は朝一番で大木を倒してきたからな。腹が減って目が回っちまいそうだ。いつものやつ、頼めるかい?」
「はい、すぐに」
私はコンロに火を入れた。
鍋の中で油が温まるのを待つ間、ハンスさんがカウンターに肘をついて身を乗り出してくる。
その距離感の近さに少し驚きつつも、私はまな板に向かったまま耳を傾けた。
「そういや、リネットちゃんは聞いたか? 最近、この町に『英雄』様が入り浸ってるって話」
背筋が、ぴくりと跳ねた。
油の温度を確かめるために落としたパン粉が、シュワッと音を立てて広がる。
「……いえ、詳しくは」
平静を装って答えるが、声が少し硬くなるのが自分でもわかった。
ハンスさんは私の動揺になど気づかず、面白そうに続ける。
「ダズ様だよ、新聞載ってたあの若い騎士様。なんでも、最近はこの町の外れによく出没するらしいんだ。俺の仲間が見たって言ってたぜ。なんか探し物でもしてるんじゃねえかって」
「探し物……ですか」
衣をつけた肉を、静かに油の中へ滑り込ませる。
ジュワアアアッ、という大きな音が厨房に響き、私たちの会話の隙間を埋めてくれた。
探し物。その言葉が胸に刺さる。
まさか、私を探しているわけではないだろう。追放された罪人のような私を、国の英雄が探す理由なんてない。
もし探しているとしたら、それは私を完全に排除するためか、あるいは実家からの更なる通告か。
「ま、俺らみたいな一般人には関係ねえ話だけどな。英雄様が何をしてようと、俺たちは明日も木を切るだけだ」
ハンスさんはそう言って笑い、出された水をお代わりした。
彼の屈託のない言葉に、私は少し救われる。
そう、関係ない。英雄には英雄の、木こりには木こりの、そして私には私の生活がある。
油の中で踊るカツレツを見つめる。きつね色に変わりゆく衣。香ばしい匂いが立ち上り、不安な思考を塗りつぶしていく。
「お待たせしました。特製カツレツです」
油を切ったばかりの熱々を、千切りキャベツの山に立てかけるように盛り付ける。
ザクッ、と包丁を入れると、湯気と共に肉汁が溢れ出した。
ハンスさんの前に皿を置くと、彼は目を輝かせてフォークを突き立てる。
「うおっ、こいつはすげえ! 衣が立ってるじゃねえか!」
彼は大きな口でカツを頬張り、咀嚼する間もなく親指を立てた。
「うんめえ! なんだこれ、外はサックサクなのに中は柔らかくて……リネットちゃん、あんた天才か!?」
「あ、ありがとうございます……」
大げさなほどの反応に、私は頬が熱くなるのを感じた。
でも、その笑顔は嘘のないものだ。私が作った料理が、誰かをこんなに笑顔にしている。
その事実が、凍りついていた私の心をじんわりと溶かしていくようだった。
昼の営業が終わると、店内の喧騒が嘘のように静まり返った。
洗い物を終えた私は、残った食材でもう一枚、小さなカツレツを揚げていた。
試作品だ。ハンスさんには好評だったけれど、もっと改良できるかもしれない。
油の処理をして、手早く厨房を片付ける。道具を決まった場所に戻すこの瞬間が、私は好きだ。秩序が戻ってくる感覚があるから。
「お疲れ様、リネット。随分と繁盛してたみたいじゃないか」
裏口からミレイさんが顔を出した。
彼女は売上の計算を終えたらしく、手には帳簿を持っている。
「お疲れ様です、ミレイさん。あの、これ……味見してもらえませんか?」
私は揚げたてのカツを一口大に切り、小皿に乗せて差し出した。
自分一人で味を決めるのは不安だ。私の舌は、まだ自分の価値を信じきれていないから。
ミレイさんは目を丸くし、それから嬉しそうに小皿を受け取った。
「おや、新作かい? いただくよ」
彼女は箸で一切れつまみ、口に運ぶ。
カリッ、という小気味よい音が静かな店内に響いた。
私は息を詰めてその表情を見守る。まるで審判を待つ罪人のような気分だ。
「……うん」
ミレイさんがゆっくりと頷き、私を見た。その瞳は優しく細められている。
「美味しいよ、リネット。すごく丁寧な味がする。あんたの性格が出てるねえ」
「性格……ですか?」
「ああ。雑な仕事じゃこうはならない。食べる人のことを考えて、手間を惜しんでない味だ。これなら、どんな客が来ても胸を張って出せるよ」
その言葉が、すとんと胸の底に落ちた。
食べる人のことを考える。それが私の料理だと言ってもらえた。
「誰かの役に立つ」という役割だけでなく、「私だから作れるもの」があるのだと、認められた気がした。
「ありがとうございます……よかった」
安堵のあまり、少し声が震えてしまった。
ミレイさんは「自信を持ちな」と私の肩を叩き、残りのカツを平らげると事務所へ戻っていった。
一人残された厨房で、私は自分用に残しておいた最後の一切れを箸でつまんだ。
冷めかけていたけれど、衣はまだサクサクとした感触を残している。
口に入れると、豚肉の甘みと油の香ばしさが広がった。
美味しい。自分で作ったものだけど、素直にそう思えた。
この料理なら、あの人にも食べさせられるだろうか。
不意に、そんな考えが頭をよぎる。
昔、私が作った失敗作のパンケーキでも、彼は「美味い美味い」と言って食べてくれた。
今の彼なら、何と言うだろう。
宮廷料理のような洗練されたものばかり食べているであろう彼に、この田舎の食堂の、泥臭い料理は通用するのだろうか。
「……何を考えてるの、私」
私は首を振り、その思考を振り払うように皿を洗い桶に沈めた。
水の中で皿がぶつかる音が、現実に引き戻してくれる。
彼がここに来る理由がなんであれ、私にできることは変わらない。
明日もまた、ここで料理を作るだけだ。
けれど、皿を拭く布巾越しに伝わる陶器の冷たさは、私の心の奥にある小さな熱を冷ますことはできなかった。
私の作ったもので、彼は何を思うのだろうか?
その答えを知りたいと思う気持ちが、恐怖と同じくらい確かに、私の中に芽生え始めていた。




