第11話 戻ってきた手袋と選ばれた朝
町の声が私を止めた。彼にも、その熱が伝わったのだろうか。
昨晩のスープの温かさが、まだお腹の底に残っているような気がした。
翌朝、私はいつもより少し遅い時間にアパートを出た。
行李は部屋の隅に押しやったままだ。中の荷物を解くのは、今日一日が終わってからにしよう。まだ、心のどこかで「本当にこれでいいのか」という迷いが燻っているから。
上着のポケットに手を入れる。
革の手袋が、そこにある。
今日はこれを彼に突き返すためでも、隠し通すためでもなく、ただ「あるべき場所」に戻すために持ってきた。
もし会えなくても、ミレイさんに預ければいい。もう、逃げるように置いていく必要はないと思えた。
店へ続く小道を歩く。
砂利を踏む自分の足音が、昨日までより少しだけ力強い。
「ここにいていい」と言われた。必要とされた。
その事実がお守りになって、私の背筋を伸ばしてくれる。
店の裏口が見えてきたあたりで、私は足を止めた。
また、彼がいる。
一昨日の拒絶の朝と同じ場所、同じ立ち位置。
けれど、今朝のダズは腕を組んでいなかった。
壁に背を預けることもなく、ただ真っ直ぐにこちらを見て立っていた。
逃げ出したい衝動が一瞬頭をもたげる。
「関わるな」と言われた言葉が、古傷のように疼く。
でも、私はもう逃げないと決めたのだ。
拳を握りしめ、私は彼に向かって歩を進めた。
「……おはよう、リネット」
彼の方から声をかけてきた。
その声には、先日のような冷たさも、刺々しさもない。
ただ、ひどく疲れたような、それでいてどこか吹っ切れたような響きがあった。
「おはようございます、ダズ様」
私は立ち止まり、努めて明るく返した。
彼との距離は二メートルほど。
手を伸ばせば届くけれど、踏み込まなければ触れられない距離。
「昨日の夜、店が随分と騒がしかったようだな」
「……ええ。おかげさまで、スープが完売しました」
「そうか。……お前が作ったのか」
「はい」
彼は短く息を吐き、視線を少し下げた。
その手には、何も持っていない。
「俺は、お前にここを去れと言ったつもりだった」
心臓が縮む。
やはり、彼は私が残ることを良しとしていないのだろうか。
「でも、お前は残った」
「……はい」
私は顔を上げて彼を見た。
彼の瞳は、私を責めているようには見えなかった。むしろ、眩しいものを見るように細められている。
「ミレイから聞いたよ。『あの子を追い出すなら、まずは私を倒してからにしな』と脅された」
彼は苦笑した。
その表情を見て、張り詰めていた空気が少しだけ緩む。
「それに、町を歩けば誰も彼もがお前の料理の話をしている。『あのスープがないと始まらない』『あの子がいなくなったら暴動が起きる』とな」
「それは、大げさですけど……」
「いいや、事実だ。お前はもう、この町の一部になっている」
ダズは一歩、私に近づいた。
革靴が砂利を踏む音が、私の心臓を直接叩く。
「俺は怖かったんだ」
唐突な告白だった。
英雄と呼ばれる彼が、「怖い」なんて。
「俺のそばにいれば、お前はまた傷つくかもしれない。俺の敵がお前を狙うかもしれないし、貴族たちが有る事無い事を噂するだろう。だから、遠ざけるのが正解だと思った。お前を守るためには、俺が我慢すればいいと」
彼は言葉を切ると、痛ましげに顔を歪めた。
「だが、間違っていた」
「ダズ……?」
「お前がいなくなると考えただけで、俺は……何も手につかなくなった。剣を握っても、書類を見ても、お前の顔が浮かんで消えない。お前がいない世界で英雄になんてなって、何の意味がある?」
その言葉は、どんな甘い愛の言葉よりも重く、私の胸を貫いた。
彼もまた、迷っていたのだ。
私と同じように。役割と感情の間で。
「リネット、聞かせてくれ。君がここにいると、僕は困ることがあると思うか?」
彼は昔の口調に戻っていた。
幼い頃、私が失敗して泣いている時に、「僕がついてて困ることある?」と聞いてくれた時と同じ声。
私は首を横に振った。
言葉が出なかった。
「僕はお前が邪魔だなんて、一度も思ったことはない。むしろ逆だ。お前がいないと、僕は自分が何のために戦っているのかさえ見失う」
彼はもう一歩近づき、私の目の前に立った。
彼の体温が伝わってくるほどの距離。
鉄と革の匂いが、朝の冷気を追い払うように私を包む。
「俺は、お前を選びたい。世間がどう言おうと、俺の経歴に傷がつこうと構わない。俺の人生には、お前が必要だ」
「……でも、私は追放された身で……」
「関係ない。誰が何と言おうと、俺が守る。そして、お前が作った飯を食って生きていく。それが俺の望みだ」
涙が溢れた。
「迷惑だ」と思い込んでいた自分が、恥ずかしくなるほど真っ直ぐな言葉。
彼は私を「守られるべき弱者」としてではなく、「共に生きるパートナー」として必要としてくれている。
私は震える手で、ポケットから革手袋を取り出した。
使い込まれてくたびれた、片方だけの手袋。
「これ……忘れてましたよ」
涙声で差し出すと、彼は少し驚いたように目を見開いた。
そして、優しく笑った。
「ずっと持っていてくれたのか」
「……捨てられなくて。貴方が置いていった温もりみたいで」
彼は私の手ごと、その手袋を包み込んだ。
大きくて、ごつごつした手。
剣ダコのある硬い掌が、私の冷えた指先を温めていく。
「ありがとう。……これがないと、剣が滑って仕方なかった」
「ふふっ、英雄様でもそんなことあるの?」
「あるさ。俺だってただの人間だ。お前がいなきゃ、手袋一つ満足に管理できない」
私たちは、涙を流しながら笑い合った。
朝霧が晴れ、陽の光が差し込んでくる。
二人の影が、足元で一つに重なっていた。
「リネット。ここにいてくれ。俺のそばに」
「……はい。私は、ここにいます」
私はしっかりと頷いた。
もう迷わない。
誰かの許可を待つのではなく、私がここにいることを、私自身が許す。
そして彼もまた、私を選んでくれたのだ。
彼の手が離れ、手袋が彼のポケットに収まる。
けれど、掌に残った熱は消えなかった。
それは「約束」の熱だ。
幼い日の落書きのような約束が、今ここで、形を変えて結び直された気がした。
「さあ、店を開けないとな。客が待ってる」
「ええ。今日も美味しいものを作らなきゃ」
「手伝おうか?」
「ふふ、皿洗いなら雇ってあげますよ」
軽口を叩きながら、私たちは並んで店の裏口へと歩いた。
その背中はもう、遠い存在ではない。
手を伸ばせば届く、隣にある温もりだ。
けれど、ふと思う。
彼が私を選んだこと。それが公になれば、きっと王都では大きな問題になるだろう。
彼はそれをどう乗り越えるつもりなのだろうか。
「選ぶ」という言葉の重さを、私はまだ本当の意味では理解していなかったのかもしれない。
「彼は本当に私を選んでくれたのか?」
その問いは、不安ではなく、これからの未来への覚悟として、私の胸に刻まれた。




