第10話 湯気の向こうの居場所と熱いスープ
去るつもりだった私に、街の夕暮れはあまりに美しく、残酷だった。
荷造りを終えた行李を部屋に残し、私は食堂へと向かっていた。
鍵を返し、ミレイさんに別れを告げるためだ。
朝、ダズに言われた「関わるな」という言葉が、呪いのように耳にこびりついている。彼がそう望むなら、私は消えるべきだ。それが、彼を守るための最後の「役割」なのだから。
上着のポケットには、まだあの革手袋が入っていた。これも一緒に置いていこう。そう決めていたのに、指先が無意識に革の感触を探してしまうのが情けない。
店の前まで来ると、中から賑やかな声が漏れてきた。
いつも通りの活気。私がいてもいなくても、この店は回っていく。その事実に安堵すると同時に、胸の奥が冷たく軋んだ。
深呼吸をして、重い木戸を押し開ける。
「いらっしゃい……おや、リネット!」
カウンターの中にいたミレイさんが、目を見開いて声を上げた。
その声に反応して、店内の客たちが一斉にこちらを振り向く。
「リネットちゃん! やっと来たか!」
「待ちくたびれたぜ、今日は休みかと思ったよ!」
常連客たちの明るい声が、私に向かって降り注ぐ。
私は予想外の歓迎にたじろぎ、言葉に詰まった。
「え、あの、私は……」
最後のお別れに来ただけなんです。そう言おうとした言葉は、ハンスさんの大きな嘆き声にかき消された。
「頼むよリネットちゃん! 俺、今日はずっと森で『夜はリネットちゃんの煮込みだ』って思いながら木を切ってたんだ。あんたの飯じゃないと、明日斧を振るう力が出ねえよ!」
「そうだよ、ミレイさんの料理も美味いけど、リネットちゃんのスープは別格なんだ」
口々に言われる言葉。
それは、社交辞令でも同情でもなく、純粋な「欲求」だった。
彼らは私の事情なんて知らない。ただ、私の料理を求めている。
その熱量が、冷え切っていた私の心を揺さぶる。
「……リネット」
ミレイさんがカウンターから出てきて、私の前に立った。
彼女の目は、私の強張った表情と、少し赤くなった目元を見逃さなかっただろう。
けれど、彼女は何も聞かずに、私の背中をバンと叩いた。
「客が腹を空かせて待ってるんだ。あとのことは後回しにして、まずは厨房に入んな。あんたの仕事場だよ」
その掌の温かさと強引さに、私は抗えなかった。
「……はい」
小さく頷き、私はエプロンを手に取った。
これが最後だ。
最後なら、せめて彼らが満足する最高の一皿を作ろう。それが、私なりのこの町への恩返しになるはずだ。
厨房に入り、鍋の前に立つ。
見慣れた風景。使い込まれた道具たち。
一瞬だけ、ダズと並んで皿を洗った記憶が蘇りそうになるのを、私は首を振って追い払った。
「今日は、根菜とベーコンのミルクスープにします」
宣言すると同時に、身体が動く。
ベーコンを厚切りにし、鍋底でじっくりと炒める。脂が溶け出し、香ばしい煙が立つ。
そこに玉ねぎ、人参、ジャガイモを投入する。
木べらで混ぜる感触。野菜が油を纏って艶やかになる様子。
その一つ一つが、私に「生きていい」と言ってくれている気がした。
牛乳を注ぎ、ローリエを浮かべて蓋をする。
コトコトという煮込みの音が、店内の喧騒と混ざり合う。
この音の中にいる時だけ、私は自分が誰かの役に立っていると確信できる。
「いい匂いだねえ」
いつの間にか、ミレイさんが隣に来ていた。
彼女は煮え立つ鍋を見つめながら、ぽつりと言った。
「あんた、出ていくつもりだったんだろう?」
心臓が跳ねた。
木べらを握る手が止まる。
「……どうして」
「顔を見れば分かるさ。朝から姿は見えないし、今はまるで幽霊みたいな顔をしてる」
ミレイさんは苦笑し、鍋の中を覗き込んだ。
「理由は聞かないよ。追放された令嬢にも、英雄の幼馴染にも、いろいろ事情はあるんだろうからね」
彼女は全部知っていたのだ。
街の噂も、私の正体も、ダズとの微妙な距離感も。
それでも彼女は、何も言わずに私を雇い、守ってくれていた。
「でもね、リネット。これだけは言っておくよ」
彼女は真剣な眼差しで私を見た。
「あんたがいなくなったら、困る人間がたくさんいるんだ。ハンスも、あの子どもたちも、そして私もね」
「……でも、私にはここにいる資格が……」
「資格なんてものは、誰かがくれるもんじゃない。あんたがこの鍋で作ってるそれが、あんたの資格だよ」
ミレイさんは私の手を取り、木べらを握らせ直した。
温かくて、分厚い手だった。
「あんたの料理は、人を元気にする。それは誰にでもできることじゃない。あんたはここにいていいんだよ。いや、ここにいてほしいんだ」
「……っ」
視界が滲んだ。
鍋から立ち上る湯気のせいにして、私は涙をこらえた。
「いてほしい」。
その言葉が、どれほど欲しかったか。
実家では「役立たず」と言われ、ダズには「関わるな」と言われた。
けれど、この町の人々は、私を必要としてくれている。
「追放された令嬢」としてではなく、「料理人のリネット」として。
「……スープ、仕上げます」
震える声で告げると、私は塩壺の蓋を開けた。
最後の味付け。
指先で塩を摘まみ、鍋に振る。
白い粒がスープに溶けていく。
私の迷いも、悲しみも、すべてこの温かい液体の中に溶けて、誰かの明日への力になればいい。
「お待たせしました! 特製ミルクスープです!」
カウンターに大鍋を運び、客たちの目の前で蓋を開ける。
ふわっ、と濃厚なミルクと野菜の甘い香りが広がる。
客たちから「おおーっ!」という歓声が上がった。
「これだこれ! これを待ってたんだ!」
「あったまるなあ、生き返るよ」
次々と差し出される皿に、私はお玉でスープを注いでいく。
「ありがとう」「美味そうだ」。
その言葉の一つ一つが、私の心に空いた穴を埋めていくようだった。
ふと、ポケットの中の手袋が、太ももに触れた。
ダズは私を拒絶した。それは事実だ。
でも、ミレイさんは私を引き止めた。これも事実だ。
私は誰のために生きるべきなのだろう。
私を遠ざけようとする彼のためか。それとも、私を必要としてくれる人たちのためか。
忙しさが一段落し、厨房の隅で一息ついた時、私は自分のために小さなカップにスープをよそった。
一口飲む。
熱い液体が喉を通り、胃の中に落ちる。
身体の内側からじんわりと温まる感覚。
美味しい。
自分で作ったものだけど、誰かに抱きしめられたような味がした。
「……私、ここに残りたい」
誰にも聞こえない声で、本音が漏れた。
彼に迷惑がかかるとしても。彼に嫌われるとしても。
それでも私は、この場所を手放したくない。
だって、ここは私が自分の手で掴み取った、初めての居場所なのだから。
ミレイさんが片付けをしながら、私にウインクをした。
「明日も頼むよ、リネット」
その言葉に、私は涙を拭って頷いた。
まだ、完全な答えは出ない。
ダズとの関係をどうすればいいのかも分からない。
けれど、今夜はこの温かいスープの香りに包まれていたい。
私はここに残るべきだろうか?
その問いへの答えは、もう「否」ではなくなっていた。




