第1話 古い日記と味噌の香り
追放された私は、今日もここで一人、見知らぬ台所に立っている。
冷え込みが厳しい早朝の空気の中で、私は足元の板張りを雑巾で拭き清めていた。古びた木材の匂いと、昨日までの湿気が混ざったような土間の香り。ここが、私の新しい居場所だ。
王都を追われ、実家からも絶縁を言い渡された私が流れ着いたのは、辺境の小さな宿場町だった。身一つで放り出されたに等しい私に、食堂の女主人であるミレイさんが「使っていない厨房の一角」を貸してくれたのだ。
雑巾を絞る水が冷たい。指先の感覚が麻痺していく痛みに、生きている実感が湧く。
この痛みだけが、私がまだ何も失っていない証明のように思えた。
「……よし」
床の黒ずみが消え、うっすらと木目が浮き上がったのを確認して、私は腰を上げた。
狭い厨房だが、使い込まれた道具たちは手入れが行き届いている。ミレイさんの性格がそのまま形になったような空間だ。ここで私が何かを作ることで、少しでも恩を返せればいい。
いや、返さなければならない。私にはもう、誰かの役に立つという「役割」しか残されていないのだから。
開店準備にはまだ早い。私は手を拭き、部屋の隅に置いたままだった荷物を整理することにした。
追放が決まった日、慌てて詰め込んだだけの革鞄。中身を検めるのも怖くて数日間放置していたが、いつまでも現実から目を背けてはいられない。
留め具を外すと、きしんだ音が静かな店内に響いた。
着替えが数枚と、最低限の硬貨。そして底の方から、一冊の古びた手帳が出てきた。
「これ……持ってたんだ」
表紙の皮は擦り切れ、背表紙の糸がほつれかけている。私が十歳くらいの頃に使っていた日記だ。
なぜこんなものを入れたのか、自分でも覚えていない。無意識に縋りたかったのかもしレイン。
埃を払う指先が震える。ページをめくると、拙い文字と共に、隅の方に描かれた落書きが目に飛び込んできた。
剣を持った棒人間と、フライパンを持った棒人間。
その横に、歪な字で『やくそく』と書いてある。
――リネットはすごいな。こんなに美味いものが作れるなんて、魔法使いみたいだ。
記憶の底から、懐かしい声が蘇る。
少し低くて、でも少年特有の高さを含んだ声。ダズの声だ。
まだ彼が「英雄」なんて呼ばれるずっと前。ただの隣の家の悪ガキで、私の作ったシチューを口の周りにつけながら笑っていた頃の記憶。
――俺は強くなって、リネットを守るよ。だからリネットは、ずっと俺に飯を作ってくれ。
「……子供の約束、だものね」
私は自嘲気味に呟き、ページを閉じた。
指先で表紙の角をなぞる。ざらりとした感触が、過去の遠さを教えてくれるようだった。
今の彼は、王国の英雄だ。
新聞で見かけた彼の姿は、きらびやかな軍服に身を包み、国王陛下から勲章を授与されていた。
「北の魔獣を討伐した若き剣聖」。それが彼の新しい名前だ。
追放された令嬢と、国を救った英雄。住む世界が違うどころではない。もし私が彼の近くにいると知られれば、彼の名声に泥を塗ることになるだろう。
「迷惑をかけるわけにはいかない」
それが、私が誰にも告げずに王都を去った理由のすべてだった。彼に挨拶すらしなかったのは、私の最後のプライドであり、精一杯の誠意だ。
胸の奥がずきりと痛むのを誤魔化すように、私は日記を鞄の奥底へと押し込んだ。
感傷に浸っている暇はない。今の私に必要なのは、思い出ではなく、今日を生きるための仕事だ。
私は厨房に戻り、棚から大きな鍋を取り出した。
ずっしりとした重みが腕にかかる。この重さが心地よい。
今日は味噌を仕込む予定だった。この辺りの地域ではあまり馴染みがない調味料だが、先日ミレイさんに試食してもらったら「これは酒が進む」と太鼓判を押されたのだ。
昨晩から水に浸しておいた大豆は、ぷっくりと水を吸って膨らんでいる。
火を起こし、鍋に豆を入れる。水面が揺れ、やがて小さな泡が立ち始めた。
薪の爆ぜる音と、湯気の向こうで揺らぐ景色。
私はしゃもじを握り、ゆっくりと鍋の中をかき混ぜる。
単純な作業だ。焦げ付かないように、ただひたすらに混ぜる。
けれど、この単純さが今の私を救ってくれる。
手を動かしている間は、自分が「不要な人間」ではないと思えるからだ。
おいしくなれ、と念じる。誰かの腹を満たし、誰かの顔を綻ばせるものになれ、と。
そうすれば、私という人間がここに存在することを、少しだけ許してもらえる気がした。
一時間ほど経っただろうか。
茹で上がった大豆の甘い香りが厨房を満たし始めた頃、入り口の扉がカランと音を立てて開いた。
「おはよう、リネットちゃん。いい匂いがするねえ」
「あ、おはようございます、ミレイさん」
入ってきたのは、恰幅の良い女性、ミレイさんだった。両手に抱えた籠には、朝市で仕入れてきたばかりの新鮮な野菜が溢れている。
彼女の豪快な笑顔を見ると、張り詰めていた肩の力がふっと抜ける。
「早起きだね。また掃除してくれたのかい? ピカピカじゃないか」
「いえ、場所をお借りしているので……これくらいしかできませんから」
「またそうやってへりくだる。あんたの料理目当ての客が増えてるんだ、もっと胸を張りな」
ミレイさんは豪快に笑いながら、籠をカウンターに置いた。
野菜の泥の匂いと、彼女の纏う生活の匂い。それが今の私には何よりも温かい。
「今日はね、街の方ですごい噂を聞いたんだよ」
エプロンを締めながら、ミレイさんが何気ない口調で言った。
「噂、ですか?」
私は火加減を調整しながら聞き返す。鍋の湯気で顔が熱い。
「ああ。なんでも、王都から『英雄様』がこの辺りを視察に来てるらしいんだ。新聞に出てたあの男前だよ。名前は確か……ダズ様、だったかね」
心臓が、早鐘を打った。
持っていたしゃもじを取り落としそうになり、慌てて柄を握り直す。
「……へえ、そうなんですか」
声が裏返らなかっただろうか。背中を向けたままでよかった。
ダズが、近くに来ている。
その事実は、私の中に喜びよりも先に、鋭い恐怖を連れてきた。
もし彼に見つかったら。
もし彼が、落ちぶれた私を見たら。
そして何より、私がここにいることで彼に悪い噂が立ったら。
「一度お目にかかりたいもんだねえ。リネットちゃんも興味あるかい?」
ミレイさんの無邪気な問いかけに、私は大豆を潰す手に力を込めた。
柔らかくなった豆が、すりこぎの下で形を失っていく。
「……私は、いいです。自分には関係のない雲の上の人ですから」
嘘ではない。これは、自分に言い聞かせるための言葉だ。
私はただの、食堂の賄い婦。彼は国の英雄。
あの日の日記に描かれた「やくそく」は、もう時効なのだ。
それでも。
鍋から立ち上る湯気の向こうに、ぼんやりと彼の顔が浮かぶのを止められなかった。
味噌の香りに混じって、胸の奥で燻る小さな火種。
会いたい、と思ってはいけない。けれど、もしも。
窓の外を見上げると、朝日が通りの砂利道を照らし始めていた。
まだ人通りは少ない。
ここから見える景色の中に、彼の姿を探してしまいそうになる自分を、私は強く戒める。
あの人は、この町を、そしてこんな風に生きている私を、もし見たらどう思うのだろう?




