いつか、僕の
※ 氷雨そら先生、キムラましゅろう先生のシークレットベビー企画開催作品です ※
■
「お帰りなさい、ダグ。わぉ! 今日はどんな冒険をしてきたのかしら」
仕事でくたくたになりつつも買い物を済ませて帰宅する途中、リュシーは愛する息子の背中を見つけて声を掛けた。
「ママ! あのね、大きな魚を獲ったんだ。ほら! 晩御飯に食べよう?」
ダグの手には、すでにこんがりと焼かれた魚が乗せられていた。
満面の笑みを浮かべて獲物を乗せた大きな木の葉を掲げて見せてくれた息子に、リュシーも笑顔になった。
今日はツイている。
「わぁ、素敵ね。でも家に上がる前に、あなたは裏の井戸で身体を洗うべきだわ」
「うん、そうする!」
腰まで泥だらけになった息子が家に上がる前に阻止できた幸運にリュシーは神へ感謝を捧げた。
焼けた魚を受け取り、裏庭へと駆けていく愛する息子を見送る。
そうして玄関前に立ち鍵を開けたたところで片手に魚、片手に鍵を持っていて両手が塞がり、扉をうまく開くことができないと気が付いた。
「あ。やだ、お魚を落したらダグを泣かしてしまうわ」
手の上で斜めにズレ落ちそうになる魚を、横から伸びてきた大きな手が支えてくれた。その上、苦戦していた扉すらあっさりと開いて家に入りやすいように押さえてくれたのだ。
「まぁ、御親切にありがとう」
反射的に感謝の言葉を口にして相手を見上げた。
冬が近づいてきている秋の夕暮れ。日々空気は冷たさを増してきている。けれど、そのせいだけではない冷たい視線が、リュシーを見下ろしていた。
スタールビーの瞳。
あの頃のリュシーは、どんな宝石より美しいと思って見つめていた。けれど、今こうして見上げる瞳は、どんよりと冷たい。鈍い光をしていた。
「やぁ、探したよ。ほんの……10年ほどね」
『いつか、僕のお嫁さんになって』
この10年。何度も頭の中で繰り返した春のように暖かい視線と甘いあの声とはまるで違う。冬の厳しさそのものの冷たい声とまなざしがリュシーを貫く。
恐れていた日がついに来てしまったのだと理解して、リュシーは震えた。
*****
「好きです。僕と付き合って下さい」
貴族ばかりの魔術学園に特別入学を許された平民。それも孤児。それがリュシーという存在である。
国は慈善事業として平民に魔術を教えているのではない。実際には治癒魔法が使える者は貴族であっても数が少ないため、平民であっても貴重であり、確実に治癒院で働ける人材とするべく国が資金を出して育成しているに過ぎない。
だから、特別入学を許される平民は皆、治癒魔法の特性を現した者ばかりだ。
そうしてリュシーも、その一人だった。
国からの補助金で勉学を許されているので、卒業後の特別入学生は貴族の子女とは違い最低3年間、国の機関に勤めなくてはならない。これは学園に在籍していた年数と同じ期間に設定されていた。つまり、留年すればその分だけ恩返しの奉公期間も伸びる。
しかも、もし仕事に就けない程度の成績しか納められなかった場合は、補助金に利子までつけて返さなければならなくなる。絶対にそうはなりたくないリュシーは、誰より早く登校して図書室の自習室を使わせて貰っていたし、放課後も寮の門限ギリギリまで職員室で質問をし続けてきた。
少しでも早く学園を卒業し、国への奉公を終わらせてリュシーは故郷に戻りたかった。世話になった孤児院と併設の教会へご恩返しがしたかった。
だからリュシーは黙々と治癒魔術の腕を磨くだけでなく、一般教養や算術などの勉学も励んだ。
学園内で、「図書室の住人」という綽名で呼ばれてしまうほど。
そんなリュシーに貴族令息が告白するなど冗談以外の何物でもないと憤慨して、リュシーは面倒くさそうに顔を上げた。
そこにあった美しすぎる顔に、思わず見惚れた。
「先日はありがとうございました。君のお陰でこの通り、すっかり元気になりました。あの時は名乗りもせず申し訳ありませんでした。ダグラス・グロームと申します。あの、僕は本気です。よろしくお願いします」
名乗られずともリュシーだって、目の前に立つこの美しい少年の名前くらい知っていた。
ダグラス・グローム侯爵令息。
現王宮魔術師団団長の一人息子にして、現在この学園で最も王宮魔術師に近いと言われている有望株だ。しかもこの美貌。グローム侯爵家直系の血筋特有のスタールビーの瞳は本物の宝石より美しいと評判だ。
確かに、一瞬ごとにきらめく瞳の輝きは、見る者すべてを惹き付ける。
彼が言っていた先日の件とは、魔術の合同授業でふざけた男子生徒がダグラスの展開していた魔術に干渉し暴発させた結果、自分の魔術を発動させようと集中していたダグラスは血塗れになった。少なくともリュシーからは、そう見えた。
一番最初に気が付いたリュシーがすぐに応急処置を行ったため、怪我人は出なかった、ことになった。
それでも生徒でしかない平民の孤児の治療では不安があったのだろう。彼はそのままグローム侯爵家へと帰らされ、静養することになったと聞いていた。
「静養してるって聞いていたわ。怪我はもう大丈夫なの?」
「お陰様で、ばっちりさ」
ふざけて暴発事故を起こさせた男子生徒ジェム・ワートは、伯爵家の嫡男であったが退学になった。ただし自己都合で、その理由も「病気の為」とされており、事件自体が隠蔽された形だ。
そのこと自体にリュシーとしてはなんら不満はない。ないが、なぜかその男子生徒と仲の良かった学生たちから「あの平民の治療がもっと上手だったら、ジェムが退学になったりしなかったのに」と睨まれることになったのだけは納得できていない。
暴力というほどのことはなにもされていない。すれ違いざまに小さなごみ屑を頭に投げつける程度のことしかされていないし、それ以外は陰口を叩かれるだけなので無視している。この程度の被害を訴えても教師は何もしてくれないだろう。そのくらいはリュシーには分かっていた。
「助けたというほどのことはしていません。気にしないでください」
あの陰口とくだらないちょっかいをなんとかして欲しいと思わなくもなかったが、それを伝えるのも気が引けた。
この線の細い美しい侯爵家の嫡男にも、何の罪もない。
馬鹿な男子生徒がふざけたせいで血塗れになった被害者でしかないのだ。その被害者に「あなたを助けたせいで、馬鹿に絡まれてます」と訴えることはできなかった。
不安そうに差し出された手は、震えていた。
リュシーの手とは比べ物にならないほど白く嫋やかだ。傷一つない柔らかな手。
「冗談はやめてください。それに、高位貴族様には婚約者がいるものなのでは?」
急に、リュシーは自身のペンだこのできてしまった指が恥ずかしくて堪らなくなった。強く握りしめて机の下へと隠す。
上級貴族が平民の女性を口説いて学生時代の思い出作りにするという噂を聞かされたことがあるリュシーは「綺麗な顔になんか騙されないわ」と胸の内で呟いた。
「僕に婚約者はいない。それに僕は冗談でこんな告白したりしない。本気だから」
緊張しているからだろうか。動かない表情。まっすぐにリュシーを見つめるスタールビーの瞳にも動揺は見えなかった。
──本当に、宝石みたいだ。綺麗。
思わず見惚れてしまった自分が恥ずかしくて、リュシーは自分の視線を無理やり引きはがして教科書へと戻した。
それでも、自分を見つめる視線を感じて、どこを読んでいたのか分からなくなった。目が彷徨う。
「勉強の邪魔をされては困ります」
「邪魔では無ければいいんだね? なら、僕は君の役に立てるよ。ほらココ、魔術スペルが間違っている」
綺麗な手が、リュシーが教科書を書き写したノートを指差した。
書き写すのに苦労した魔術紋。
魔法自体は魔力を持つものならば誰でも使うことができる。
ただし、大きな効果や複雑な効果を得ようとするならば、どうしたいのか、範囲や効果の内容を細かく設定しなくてはならない。
そのために考えられたのが魔術紋だ。
呪文を唱えるのには時間がかかる。あまりにも長い呪文は、唱えている最中に集中力が切れてしまい集めていた魔力が霧散してしまうこともしばしばだった。
しかし、ルールを現す記号を組み合わせたものを思い浮かべて魔法を使うことで一気に発動までの時間短縮ができるようになった。
この魔術学園では、魔術紋に使うことのできる記号の意味や種類、その組み合わせ方、効果的な配置についてを教えてもらえる。逆に言えば、この学園を卒業しなければ、魔術師にはなれないのだ。
「ここで線が細くなると、前の効果と矛盾してしまうんだ」
「え、あ。本当だわ、ありがとう。さすがね、治癒魔法にも詳しいのね」
他の四大元素魔法とは違い、人体に働きかける治癒魔法は複雑だ。
単純な切り傷のようなものならば、組織の修復を頭に思い描くだけでいい。だが、そこに骨折と筋断裂と軟骨や腱の破損、血管破裂が重なるとそれではどうにもならないのだ。痛みが残らないように綺麗に治すためには順番が必要であり、その前に正しい診断が必要になる。つまり手順が複雑なのだ。しかも当然だが、迅速に行わなければならない。実際に修復する時に魔力切れにならないような魔術構築を
行わなければいけないのだ。
「理論だけはね。適正も低いし、僕に治せるのはかすり傷までだよ。酷い火傷は、無理だ」
至近距離で熱く見つめられて、慌てて顔を背けた。
「そ、それにしてもつけペンて、書くの難しいわよね。勝手に線の太さが変わってしまうもの」
正直なところ、平民であるリュシーにつけペンの取り扱いは難しい。
そもそも文字すら学園に入学すると決まってからシスターに教わって、懸命に覚えたくらいなのだ。
孤児院では、紙すら貴重品で、薄い箱に砂を入れて棒でそこに文字を書いて覚えたリュシー最大の弱点だ。
「こればっかりは慣れるしかないよね。ん? そもそも、ペン先が潰れすぎていて細い線が書けなくなってるじゃないか」
「買い替えるお金が無くて」
侯爵家の令息には、消耗品の買い替えに困ったことなどないのだろう。
リュシーは別に自分が孤児であることを恥ずかしく思ったことなどなかった。しかし、今だけはお金がない自分が恥ずかしかった。
「特別入学生は補助金で購入できるはずだろう?」
「予算が決められていて、私は使い過ぎなのだそうです」
今こそそんな使い方をしてはいないが、使い始めた頃は特にペンを持つ力が強すぎたようで、すぐに先が開いてしまっていたのだ。そうするとインクの吸い上げができなくなる。
リュシーの力では歪みを直すこともできなくて、交換するしかなかった。
「なるほど」
ダグラスが少し黙って念じると、リュシーの握っているペンの先が、ふわりと光った。
「……学園内で勝手に魔法を使うことは禁止なのよ。でも、ありがとう」
まるで新品のようなまっすぐなペン先に見惚れた。
「内緒ね? あとで新品のペン先とインク壺を届ける。受け取ってほしい」
ニコッと笑いかけられて、胸がときめく。
「そんなことをして貰う理由がないわ」
危ない。こんな簡単に堕ちてどうするとリュシーは自分を戒めた。
けれど、こんなに綺麗な少年と近づくのは初めてだ。そんな人から優しくされて心が喜んでしまう。嬉しく思わないでいる方が、無理だ。
「あるよ。君は、僕の未来を守ってくれた。あとあんな馬鹿な真似をした奴の未来だって。君が守ってくれたんだ。侯爵家の嫡男に、悪戯で治らない傷をつけたなんてことになっていたら、あいつは学園を退学させられるだけじゃ済まなかった。学内でも、ちゃんと教師から説明はして貰ったんだ。けれど誰かに責任を押し付けたい馬鹿どもは理解したくないみたいでね。聞き分けのない奴らが、ごめん」
ハッとした。
リュシーが告げ口をするまでもなく、ダグラスはリュシーの現状を知っていたのだ。
「これからは、僕が傍にいる。君を守らせてください」
つまりこれは、ある種の償いなのだろう。
平民のリュシーを傍において守るための口実。
「お友達ということで、いいかしら」
「“お友達から”だね。よろしく」
そうやって始まった見せかけだけのお付き合いが、本物になるのにそう時間は掛からなかった。
首席のダグラスから付きっ切りで勉強を教わり、「マナーを教えてあげる」と一緒にランチをとるようになって、休日も一緒に過ごすようになった。
初めてカフェに連れて行ってもらって、紅茶、珈琲、ココアといろんな飲み物があることを教えてもらった。
ふわふわの生クリームが乗ったケーキも、リュシーはそれまで食べたことがなかったので、口の中でスポンジもクリームもすべてが溶けてしまった時には吃驚した。
たくさんの初めてを、2人で共有した。
「魔術の操作の練習をしよう」と誘われ、手を繋いだ。
繋いだ手から流れ込んでくる魔力があまりに心地よくて、離せなくなった。
それからは、常に手を繋ぐようになった。授業を受けるために離す前に、一度ぎゅっと握ってから、惜しむように指先を絡め合う。
「愛してるよ、リュシー。いつか僕の、およめさんになってね」
「愛してるわ、ダグラス。うれしいわ」
そうやって愛を育んでおきながら、いつだって、リュシーの頭の中には冷たい声が聞こえていた。
『馬鹿な子。成績はいいけど、やっぱり平民は身持ちが悪いのね』
『学生時代のいい思い出作りのために、使い捨てにされるのよ』
それは、学園内ですれ違う生徒たちからの忠告というやっかみだけではない。
『いいね? 貴族ってぇのは質が悪いんだ。平民の女を口説いて弄んで、飽きたら簡単にポイ捨てしやがる』
『覚えておきな。金持ちどもの“愛してる”も“結婚しよう”も全部嘘っぱちなんだよ。女をベッドに連れ込むための口説き文句でしかない』
入学する前に、元孤児院で一緒に育った年上のおねえさん達の言葉だ。
絶対に自分を捨てた母のようにはならないと宣言して孤児院を出ていって、お金持ちの人から騙されて、妊娠して捨てられて帰ってくることは少なくない。そんな彼女たちの、恨み言だった。
でも、リュシーはその声を無視する。
「好きよ。だいすき」
侯爵家の嫡男さまと孤児のリュシー。恋人同士として傍にいられること自体が奇跡だ。そんな奇跡が長続きしないことくらい当たり前だ。学生でいる間だけ、お目こぼしされている。それくらいリュシーにだって分かっている。
勿論ダグラスはやさしいので、今だけの関係だなどと無粋なことは言わないでくれる。
たぶんきっと、最後の最後、卒業するその瞬間まで、リュシーに優しい夢を見させてくれるのだろう。ダグラスは、それくらいの甲斐性のある男だ。
だからリュシーは、お互いの初めてを交換することにした。
「未来を、約束するために」
そうお為ごかしの口先だけの約束を交わして、肌を重ねた。
リュシーは、自分を捧げられて喜んでもらえてとても嬉しかったし、ダグラスの初めてを捧げられて嬉しかった。
ダグラスの未来の本当のおよめさんには申し訳ないと思わなくもなかったけれど、どうせ男の人が一人の女性へ愛を捧げ続けることはほとんどないと聞いていたし、結婚する前の学生時代のことなので、目を瞑って欲しいと願う。
「リュシー、僕のおよめさん」
汗だくで、甘い声でリュシーを呼ぶダグラスを、リュシーは一生涯忘れないだろう。
好きな人と肌を重ね合う喜びを、生涯の宝物にするのだ。
リュシーは、この上なく幸福だった。
貴族のご令嬢であったなら、婚前交渉など絶対に許されることでない。
だが平民の間では婚前交渉に対してそれほど厳しくはない。子供ができるまで協会に届け出ることも無いではないが、稀である。
そもそも他の誰かと結婚するつもりもないリュシーは、自分が平民の孤児であることに感謝した。
幸せな思い出を貰ったリュシーは、卒業したら二度とダグラスと会えなくともいいと思っていたけれど、人生というものは残酷だったらしい。
幸せを感じた分だけ、不幸もちゃんと用意してあった。
卒業まであと一週間となった休日。ダグラスは実家であるグローム侯爵家に呼び出されていて居なかった。
ダグラスは当たり前のように、学生のうちに王宮魔術師の資格を取り、卒業後は魔術師団に入ることが決まっている。しばらくは寮生活になるらしい。
そうして卒業後のリュシーの勤め先は、王都の中でもそれなりに治安のいい下位貴族たちの邸宅が並ぶ地区の治癒院に決定していた。
先週末に挨拶も済ませた。責任者だという優しいおじいちゃん治癒師とも仲良くなれそうで、リュシーはそこでも幸運に感謝した。
「ダグラスと一緒にいるようになってから、私ったらなかなかの幸運に恵まれているわよね」
ダグラスが一緒に探してくれたおかげで、すぐ近くに家具付きの部屋を格安で借りることができた。
その帰り道、ダグラスは「あの部屋で一緒に使おう」と言って、お揃いのマグカップを買い求めてくれた。
「あと卒業する前にやっておくべきことって何かあったかしら」
ぽふんとベッドに背中から倒れる。
このベッドに寝るのも、もう少しだ。卒業したらもう会えないと思っていたダグラスとは、これからも会えるようだ。とりあえず、ダグラスはそのつもりらしいと知って、夢の続きが見られる幸せに酔いしれる。
『いつか、僕のおよめさんになって』
ダグラスがくれた約束を思い出して、リュシーが枕を顔に押し付け悶えた。
「リュシーさん、入りますよ」
「ハイィィ!」
ノックもそこそこに寮母から扉をあけられて、リュシーは慌てて跳ね起きた。
「どういった御用でしょうか」
そう訊ねながら、リュシーには、つい先ほどまで描いていた未来が遠ざかってしまったのだと理解していた。
振り向いた先に立つ寮母の顔が、普段の優し気なものとはほど遠い、かなり固く厳しい顔をしていたからだ。
「急いで出かける準備をなさい。正装……は、平民のあなたには無理でしょうが、できるだけきちんとした服に着替えなさい。あなたにお迎えが来ています」
出かける準備も何もいま着ているのと同等のワンピース以外に持っているリュシーの服で、正装と言える服など学園の標準服しかなかった。平民の特別入学生のために用意された、いわば制服だ。
急いでそれを身に着けて、リュシーは唯一自分でもきれいだと思う金色の髪を慌てて一つに束ねると、ダグラスの瞳と同じ色のリボンをそこに結んだ。
「ダグラスの、こん、やくしゃさま」
「ごめんなさいね、リュシーさん。私の息子が、女性の尊厳を奪うような真似をするなんて。本当に申し訳ないわ」
黒塗りで家紋の入っていない馬車に乗せられて連れていかれた先で待っていたのは、美しい貴婦人と愛らしいご令嬢の二人だった。
二人から、名乗られる前に分かった。
「ダグラスの、おかあさま?」
思わず自己紹介をする前に、口から零れ落ちた。
「平民ごときが。ダグラス様の御名を軽々しく呼ぶな!」
連れて来てくれた侍従から鋭い声で咎められて肩を押さえつけられる。強い力と大きな声に慄いたリュシーをかばってくれたのは、意外にも目の前に座る美しい貴婦人だった。
「いいのよ。だって彼女はダグラスと同じ学園の生徒なのだもの。あの中では爵位は関係ないの」
おっとりと説明してくれたお陰で、侍従が離れていく。
リュシーは恐怖に早まる胸を手で押さえて、貴婦人に礼を言おうとした。
しかしその前に、横から苦言が飛んできて口をつぐむ。
「でもおばさま。それはわたくし達には関係ありませんわ。ここは学園の外。そうして彼女はもうすぐ魔術学園を卒業して、平民の治癒師として働きだすのでしょう? いつまでも学生気分でいられては困るのは彼女では?」
リュシーより年下に見える愛らしい風貌に似つかわしくない辛辣な口調だった。
けれど、それが正しいことはリュシーにも十分理解できた。恥ずかしさに頬が赤くなる。
「申し訳、ありませんでした。グローム侯爵夫人、そしてご令嬢」
ぎこちなく、リュシーは頭を下げた。
戯れにダグラスから令嬢の作法も教わっていたけれど、学園で平民のための講義で教わった使用人としての礼にした。深く腰を折り頭を下げる。
そうして、勧められない限り勝手に席に着くこともしなかった。そのままその場に立つ。
リュシーの謝罪に対して、令嬢は視線ひとつくれようとしなかったけれど、夫人は目を細めて笑顔を見せてくれた。
「まぁ。私が誰だかわかったのね。さすがあの子が選んだだけはあるのね。それに姿勢もとてもいいわ。成績もよいと聞いています。頑張りましたね」
「えぇ、それについては褒めて差し上げてもよろしくてよ。孤児とは思えないほど頑張ったのでしょう。文字すら読めない書けないところから学園を目指して留年もせず、国から勤め先を紹介されるなんて素晴らしいことだわ」
「ありがとうございます」
どこか棘のある令嬢の言葉に逆らうことはしない。
笑顔の中で瞳がまるで笑っていないからだ。平民を同じ人だと認めていない視線。 いや、それよりもずっと冷たい憎しみすらその視線から感じる。
「そんな素晴らしいあなたが、何故日陰の身を選ぶのかしら。わたくしにはどうしても分からないの。ねぇ、治療術の腕も国から認められる素晴らしいものなのよね。見目だって悪くない。頭も悪くない。仕事もある。それなのに、なぜあなたは、妾になどなろうとしているの?」
「およしなさい。リュシーさんは何も知らないのよ。あの子に、あなたという存在がいることすら教えてもらえていないの」
含みのある言い回しだった。
しかしそれで十分だった。グローム侯爵夫人とご令嬢の言葉の裏にあるものを推測できないほど、リュシーは頭が悪くなかった。
「でも……そんな。ダグラスは、婚約者はいないって」
想像すらしたことはなかった。信じられなかった。信じたくなかった。
「弄ぼうとしている女性に対して、すべて正直に告白する男はいないものね」
あれだけ冷たい視線を向けていたご令嬢が、リュシーを痛ましげに見つめてくる。
まっすぐな視線が、リュシーが出した口にすることすらできない推論が正しいのだと教えてくれた。
「わたし…私、どうしたら」
まっすぐに立っていたいのに、リュシーの足元が突然不安定な泥沼にでもなってしまったようだった。その場に頽れ、床に手をつく。
新しい職場に挨拶に行った時だって、ダグラスは一緒に来てくれた。
新しい借家は、ダグラスと一緒に決めた。その部屋で一緒に使おうとマグカップまで揃えてくれた。
その意味が、愛人としての関係を続けるということだったなんて。
リュシーは想像したこともなかった。
「私、彼が、『僕のおよめさんになって』って言ってくれても。ずっとダグラスとは学生の間だけの関係だって、そう思っていて……」
溢れだした涙が床に水たまりを作る。止まるところを知らない恥知らずな涙。泣きたいのは、浮気相手からこんなことを聞かされているご令嬢だろうと思えば思うほど、リュシーの涙は溢れた。
「…………」
「なのに。卒業後も当たり前のように、今の関係を続けていくんだって態度を、彼が、とるので」
「勘違いしてしまったのね? そうよね、女性なら誰でも夢見るものだわ。お金も地位もある男性が迎えに来てくれる。夢物語ね」
「ゆめものがたり」
そうだろうか。そうなのだろう。
そもそもリュシーはちゃんと弁えているつもりだった。学園を卒業したら二度とダグラスから連絡がくることはないと思っていた。
最後の瞬間まで騙してもらえたなら、それでいいと思っていた。
思っていたなら、そうすればいいのだ。
「そうですよね、うん、うん。そうだ。そうです。私は、孤児なんだから」
──ダグラス・グローム侯爵令息の伴侶になれる訳がない。
孤児が侯爵夫人になれる訳がない。言葉にすれば、なんと当たり前のことだろう。
弁えているリュシーは、そんなこと当たり前だと笑い飛ばすつもりだった。それができると信じていたのに。
リュシーにはそれを言葉にすることも、笑い飛ばすこともできなかった。
できたのは、不細工に笑いながら泣くことだけだった。
「では、ダグラスと別れてもらえますね?」
ようやく席を許されて座らせてもらうとほぼ同時に聞かれる。
グローム侯爵夫人の言葉は形としては疑問形であったけれど、実質には指示だ。否定することなど想定されていないし、許されない。
リュシーにできることは、頷いて受け入れることだけだった。
「分かってもらえて嬉しいわ。こう言ってはあれだけど、あの子も遊ぶ相手をちゃんと選定していたということね。弁えることができるというのは素晴らしいことだもの」
侯爵夫人は嫌味ではなく本気で褒めていた。
浮気相手として選ばれたのだと言われて、嬉しい訳がない。少なくとも平民であるリュシーにとってはそうだ。平民の感覚とはまるで違う。それが貴族というものなのだろう。
「でもあの、就職先や既に借りている部屋も、彼は知っているんです」
「そうなのね。困るわよね、平民には貴族に押しかけられてしまったら、断ることも難しいもの」
リュシーの胸に、杭が打ち込まれたような痛みが走る。
所詮平民の浮気相手だと改めて突き付けられているようで、苦しくて堪らなかった。
けれどここでまた感情のまま涙にくれることは、リュシーのプライドにかけてできなかった。動揺を表に出さないよう目を閉じ歯を食いしばる。
リュシーは一呼吸入れると、事実のみを詳らかにすることにした。
「国が選定した就職先ですので、3年はあの治癒院を辞めることはできません」
3年。それが過ぎたらリュシーはどこにでも行けるようになる。入学前は、孤児院のある町へ帰るのだと信じていた。そうして今朝までは、ずっとダグラスの傍にいられると信じていた。どちらもできそうにない。ダグラスはリュシーの故郷の町がどこか知っている。そこに逃げ込んでも見つかってしまうだろう。
冷静になった今のリュシーには、逃げ出した平民の妾候補を高位貴族であるダグラスが追いかけてくるとは思えなかった。
それでも探し出して貰いやすい場所を選ぶことなどできはしないとも思う。
どこか遠くへ。リュシーを知る者の誰もいない土地へ、逃げ出したかった。
「そうね。本当ならば今すぐあなたをどこか遠くへ逃がして上げたいところだけれど、そういう訳にはいかないのよ」
頬に手を当て、侯爵夫人が憂いのため息をついた。
「どうして、おばさま? いいじゃない。わたくしの個人資産から、この人の背負わなくてはならなかった3年分の学費を国へ納めますわ。勿論当面の生活費も。そうしたら今すぐここから遠い場所に行ってもらっても構わないでしょう」
令嬢が、愛らしく唇を突き出たむっとした表情で提案する。
侯爵夫人への提案であって、リュシーに関する内容だというのにまったくリュシーの方へ視線を向けないでいるのも一貫していて、いっそ清々しくあった。
それよりも、リュシーにとっては途方もない魔術学園での3年分の学費。それをリュシーよりずっと幼く見える令嬢の個人資産、つまりはお小遣いで軽く支払えるのかと気が遠くなった。
目の前にいる人たちは、別世界の住人なのだと実感した。
そうして愛しい恋人であるダグラスは、その別世界の住人なのだ、とも。
「駄目よ。そんなことをして、あの子が卒業式に参加しないと言い出したらどうするの? あの子は王宮魔術師団に入団するの。いくら王宮魔術師の資格試験に合格したとしても魔術学園の卒業証書がなくては内定取り消しになってしまうわ」
「わ、私も困ります。魔術学園の卒業証書がなくてはどこの治癒院からも雇って貰えなくなります」
リュシーは必死だった。一生に一度の恋を失うことになったとしても、リュシーは生きていかなくてはならない。自分の食い扶持も稼がなくてはいけないし、できることならば、あの町に戻れなくなった分だけ、孤児院に寄付をしたかった。
そのためには、治癒師の資格だけは失うことができない。
絶対に引かないと心に決めて、初めて視線が合った令嬢を見つめ返した。
令嬢があきれた様子で口を開けている。ぽかんとしたその表情さえ、可愛らしい。貴族令嬢というものはなんと美しく愛らしい存在なのかと、リュシーは自分との差を思い知らされて、こんな時なのに笑ってしまいそうだった。
いいや、今だからかもしれない。まるで道化師のような、自分のことを笑うしかないではないか。
「……ふう。そうね、治癒師を増やすために、国の施策として魔術学園へ平民を入学させているのだもの。あの子の欲望を受け止めてくれていた功労者から、その資格を奪う訳にはいかないわね」
「おばさま!」
「けれど、分かっていますね? わたくし達に譲歩できるのはあなたが卒業証書を受け取るところまでです。その後は、速やかにわたくし達の指示に従って遠い土地へ行ってくださるわね、リュシーさん」
笑顔の侯爵夫人に突き付けられた最後通牒を、リュシーは無言で頭を下げて、受け入れた。
その後は、綿密な打ち合わせを侍従さんと交わして、なんとか寮に帰してもらえた。
多分本当は、私はこのまま国境近くの山奥の村にでも送られるところだったのだろう。
どうあっても彼が探し出せない、そんな場所へ。そんな気がする。
そうしてリュシーはどうしたかといえば、ダグラスと爛れたとしか言いようがない濃密な時間を過ごした。
「どうしたの? なんか積極的だね」
「積極的な私は、嫌い?」
「いいや。魅力的過ぎて、抗えない。馬鹿になる」
「うん。一緒に、馬鹿になって」
リュシーは、肌を合わせる気持ちよさ以外、何も考えたくなかった。
何を考えても無駄だと知っていた。
卒業証書を受け取った後に、自分がどこに連れていかれるのかも分からないのだから。
くたくたになるまでお互いをむさぼる。その多幸感。それだけを、リュシーは覚えておくことにした。
初めて交わした会話とか。
初めて間近でみたスタールビーの瞳の輝きとか。
初めて繋いだ指の太さに驚いたこととか。
はにかんだ笑顔も、からかってくる時の顔も、魔術をつかう真剣な顔も。
貰った約束ものことも。
『いつか、僕のおよめさんになってね、リュシー』
全部全部、爛れた気持ち良さで蓋をして、思い出せないほど奥底に沈めることにしたのだ。
卒業式を終えて、パーティーに参加するためにドレスへと着替えに寮に戻る振りをして、リュシーは夕暮れにまみれて一人でそっと学園を去った。
そうして少し歩いた先で停められていた馬車に乗り込むと、二度と王都に足を踏み入れなかった。
*****
「私は、探してないわ。帰って下さい」
今ならば、ダグは裏庭で水浴びをしている。あの子が見つかる前に彼を帰さなければならないと、リュシーは強く思った。
「そうだね。君にとって俺の居場所は探すまでもない。金を搾り取るターゲットである俺の家をね」
「なんのこと?」
「優しくてかわいい恋人が、俺の実家と連絡を取り合っているなんて知りもしなかった。体を差し出して金を貰って暮らす異国の生活は快適だったかい?」
ぱしんっ。
反射的に、リュシーは目の前の頬を叩いていた。
学生時代の滑らかな頬ではない。精悍な男性の顔だった。
「ふっ。いろいろ化けの皮が剥げたようだね、リュシー」
「……何しに来たの? 私を貶すためだけに遠いこの国まできたなら、ご苦労様でした。お帰りはあちらよ」
テーブルにダグがくれた焼き魚を置く振りをして後ろを向き、雑なそぶりで扉を指し示す。その間に、リュシーは呼吸を整えた。
「そんなに邪険にするなよ。あれだけお互いをむさぼりあった仲じゃないか。それとも、むさぼっていたのは俺だけで、君は演技だったのかな」
振り向きざまに振り上げた手は、振り下ろす前に掴れた。
「そう何度も叩かれてやる訳にはいかないな」
「帰って」
「何故? 君としては正当な報酬を受け取っただけなんだろ。なら堂々としていればいい。何も知らない馬鹿な貴族のガキに体を差し出した代わりに、3年も国の定めた治癒院で奉公をしなくて済んだ上に、この家を買うだけのお金を稼げたんだってね」
「この家は、治癒師として勤めだしてからのお給金で買ったのよ。中古だけれど、気に入ってるわ」
「ふぅん。一人で暮らすには確かに広い家だ」
ダグラスが部屋を見回す。玄関を開けてすぐにキッチン兼リビングがあるこの家は、侯爵家の嫡男であるダグラスからすればペットの小屋だろう。
けれどこの国の民家としては平均的な造りだし、なにより庭が広いのが気に入っている。特に、ダグが。
「久しぶりに会った友人に、茶の一杯も振舞ってくれないのかい? 俺は君にそんな振る舞いを教えた記憶はないんだが。あぁ、俺は君の金蔓でしかないから、マナーなど関係ないのか」
厭味ったらしい物言いに憤慨し、リュシーは乱暴に薬缶をコンロに乗せた。
「あぁ。失礼そういえば君には火の魔法は使えなかったんだ」
そういってダグラスが、つ、と軽く指を動かした。リュシーの持つ薬缶から熱を感じる。
「わぉ、便利ね!」
「魔法が使えないことが不便なだけだ」
一言何か口に出す度に言い返されて、リュシーはストレスでどうにかなってしまいそうだった。
早く追い出さなくてはならないのに。
「ねぇ、お茶ならすぐ近くにいいカフェがあるの。そこで美味しいお茶とケーキを頂きながら話をしましょうよ」
誘ってから、我ながら突然すぎるとリュシーは自分に呆れた。
「なるほどね。ここに一人暮らしをしている訳じゃないのか。だから俺を追い出したい、と」
ダグラスが、勝手に食器棚に並べて置いたカップを取り出していた。
「ペアとか。ベタだな」
両手に持ったマグカップを馬鹿にしながら、かちんと打ち付けているダグラスの姿に、リュシーはすべてを忘れて激高した。
「返して! それは、大切なものなの」
取り戻したマグカップを守るように抱きかかえる。傷がついていたらどうしようということしか、リュシーは考えられなくなっていた。
「そのマグカップ……」
背中を、痛いほど見つめられているのが分かる。
なんと言い訳しようか、リュシーは悩んだ。そもそも言い訳をする必要はあるのかどうか。
頭の中は忙しいのに、リビングの空気は凍り付いたように、張り詰めていた。
「ママー! タオルまだー?」
バターンと裏庭に続く勝手口が開いて、上半身どころかズボンと靴まで脱いで下着一枚だけになったダグが、駆け込んできた。全身びしょ濡れの彼が動くだけであたりに水滴が飛び散る。
突然の裸の子供の乱入に動きが止まったダグラスに気が付いたダグが、リュシーが止める前に、彼に飛びついた。
「うわー、お客さん? 大人の男の人がこの家に来たのなんて初めてだ! こんにちは、僕はダグ。仲良くしてください!」
自分そっくりのスタールビーの瞳ににこやかに見上げられて、ダグラスは口をぱくぱくと開け閉めした。
*****
「これは誘拐罪だぞ。許されない犯罪だ」
リュシーの腕からタオルを奪い取り、丁寧な手つきでびしょ濡れのダグの髪を拭いてやりつつ、ダグラスは大いに憤慨していた。
「……仕方がないじゃない。国を出てから、妊娠に気が付いたんだもの」
正しくは、グローム侯爵夫人によって送り届けらえた小さな村で、だが。
夫人が紹介してくれた村で出産することは考えられなかった。
知らない人しか住んでいないその村で、けれどリュシーは誰かに監視されていることを感じていた。毎日ではないけれど、ふとした拍子に視線を感じるのだ。
侯爵夫人かあのご令嬢のどちらの差し金なのかは分からない。どちらにせよ、いつリュシーの気が変わってエリートである元恋人の元へ戻ろうとするのではないかと不安になるのも仕方のないことだと思う。
田舎なので侯爵家のご長男であるダグラスの結婚の噂は届いていない。
けれど新婚夫婦の間に子供が生まれて生活が落ち着くまでは、なんとしてもリュシーに村にいて欲しいはずだ。
そう思ったから、数年間はこの村でおとなしくしていようと思ったのに。
気が付けば、生理が止まって数か月が経っていた。
「生活が、変わり過ぎたからね」と目を逸らすのも限界だった。
しかも、食欲はあるので食べると吐く。一口二口なら大丈夫なのに、それ以上食べたら絶対に吐く。間違いなく吐く。そうしてひたすら眠いのだ。仕事にならない。
あまりにも教科書で読んだことのある妊娠の症状すぎて、何時バレるのかは時間の問題だった。
心当たりならあり過ぎるほどあったリュシーは、村から出ていくことにした。
侯爵家としては婚外子ということになる。もうすでに結婚して妻となっているかもしれないあの可愛らしい婚約者からすれば隠せてはいないが隠し子のようなものだ。
愛らしい見目とは裏腹に苛烈な決断をするあのご令嬢にリュシーが子供を孕んでいることがバレたらどうなるか。リュシーには悪い想像しかできなかった。
だからすぐに、リュシーは大きな街に買い出しに行く振りをして国境行きの馬車に乗った。
侯爵夫人へは街から手紙を出した。
一番安い郵便にしたから、王都にある侯爵家に届けられるまでひと月以上かかるに違いない。
そうしてきっと、その頃にはリュシーはこの国から出て行っているはずだ。
国を出ること、二度と戻るつもりはないことをできるだけ事務的に書き記した。署名はしなかった。ただ村の名前だけ書いて出した
これで侯爵夫人に届かなくとも義理は果たしたと、リュシーは思った。
そうして10年。本当に国へ戻らなかった。
「知人すらいない異国で出産するなんて。無茶をする」
「私は孤児なのよ。どこに行ったって変わらないわ」
本当は少しだけ嘘だ。本当は、ダグラスのいる国にいたかった。
たとえ他の女性と結婚することが決まっている相手であろうとも。
同じ国にいると思うだけで、それだけでリュシーは嬉しかったから。
ただ、この国に来ることにしたのはラッキーだった、とリュシーは思う。
国境を超える関所の受け付けは混んでいて、受付票は貰えても何時になったら自分の番がやってくるのか分からないほどだった。
関所前の広場には順番待ちで疲れ果てた旅人たちが座り込んでいた。
リュシーの順番がいつ来るのかもまるで分からない。
旅費は足りると思うが、これから出産を迎えることを考えるとリュシーとしてはいくらあっても不安だった。異国での生活費がどれくらいかかるかなど想像もつかない。
宿を決める前に、職業紹介所に向かった。そこで紹介された治癒院で、リュシーは運命の出会いをする。
「この国に来る前に通った関所のある街で働いていた治癒院の院長先生がいい人でね。妊婦だって分かったら、治癒院の物置部屋を片付けてくれて、処置用ベッドを押し込んでくれたの。そこで順番が来るまで寝泊まりさせて貰っていたわ。治癒師をしながら順番を待っていたのだけれど、ある日街で火事があって。大火傷を負った子供が運び込まれたの」
「火傷か」
ダグラスが、自身の体を見下ろした。
あの日の魔術暴発事件で自身が負った火傷の痛みを思い出しているのだろう。
じくじくと体の深部が焼け焦げていく臭いと痛み。重篤な火傷は、表面だけ治しても意味はない。普通に火傷で失った組織を補おうとしても意味がないのだ。何度も繰り返す山火事のように、深部組織が記憶してしまった火傷のある組織が増えていくばかりになる。なってしまう。ただ生きながら体が焼かれ続けてしまうという。想像を絶する体験だろう。
「子供には厳しいな」
「えぇ。体力が持たない可能性は高かったわ。患者は丁度、今のダグ……息子と同じ歳だった。でももっと体の線も細くて時間との勝負だと思ったの。だから院長と私のふたり掛かりで治癒の魔法をかけ続けたわ」
気持ちよさそうに髪を拭かれている息子に苦笑しながら、リュシーは飲み物の用意をした。
ダグラスには珈琲。ダグには甘いココア。そうしてリュシーにはモカジャバだ。
モカジャバといっても、ダグのために艶が出るまで練ったココアの匙を、ダグラスのために淹れた珈琲の残りに突っ込んで混ぜただけだが。
「すごいな」
あまりにも素直に口から零れ落ちた感嘆の声だったから、リュシーも素直に受け入れられた。
「あの魔術暴発事故の時、私の治癒術は火傷に対して何の役にも立たなかった。伯爵家の風魔法で切られた傷からの出血を、止められただけ。表面組織を戻そうとも、深部の組織が負った火傷には何の意味もなかった」
だから、ダグラスが学園に復帰してくるのに一カ月も掛かった。
「いや。俺の出血があそこで止まらなければ、この血が持つ力があの時の火の魔術に干渉して、きっと学園は吹き飛んでいた。最低でも俺とあの伯爵家の馬鹿は即死だっただろう。だから、リュシーは手柄を誇っていい」
「嬉しい。でも、後悔をたくさんしたのよ。だからこそ私は、火傷に関する治癒の勉強をたくさんしてきた。ずっと考えてきたの。重度の火傷に対する治療について。そのお陰で私はその少年を助けられたわ。二か月近く掛かっちゃったけど」
そう笑いながら、ダグの口の周りについてしまったココアのヒゲを、リュシーが優しく拭った。
その姿を、ダグラスは眩しそうに見つめた。
眩しいのは、努力した結果、重度の火傷を治せるようになったと報告する姿なのか。
それとも愛しそうに子供の世話をする顔なのか。ダグラスにはそれが分からなかった。
「それでね、その子供が実はこの国の伯爵家のお子様でね。伯爵家の方々は私が国を超えたくてずっと街で治療院に勤めながら順番待ちをしていたと知って、貴族特権を使って入国させてくださったの。更に、伯爵家付の治癒師として雇ってもくださったの。お陰で出産も安心してできたのよ。本当に感謝している」
「へぇ」
思った以上に不機嫌な声が出てしまったダグラスは慌てて口を押えた。咳ばらいをして誤魔化す。
「んんっ。ちょっと喉の調子がよくないかも」
「おじさんもココアにすれば良かったのに。ママの作ってくれるココア、おいしいんだよ!」
「おじさん、か」
うぐっと喉奥で変な音をさせたダグラスに、リュシーが吹き出す。
睨まれて、素知らぬ顔でモカジャバを口にするリュシーの目元が笑っているのを見つけて、ダグラスは胸がきゅうっと苦しくなった。
ダグがどうしてもと強請るので、ダグラスはダグが捕って魔法で焼いた魚でのディナーを伴にしてくれた。
大して上手でもないリュシーの料理を大絶賛するダグに調子を合わせて食べてくれたダグラスに、リュシーは拝みたくなるほど感謝した。
その上、一緒にお風呂に入って寝かし付けまでしてくれたのだ。
お陰でリュシーはゆっくりと頭と心の整理をつけながら夕食の後片付けをすることができた。お風呂をゆっくりと使ったのも久しぶりである。
「寝ちゃったよ」
二階から首をこきこきさせながらダグラスが降りてくる。
「愚図ったでしょう」
「お話をたくさん強請られた」
「ふふ。王宮魔術師様は大人気ね」
当たり前のように、ダグは火の魔法が使えた。
今はただ火を出すだけしかできないけれど、お世話になっている伯爵家のお抱え魔術講師から才能があるとお墨付きを頂いている。
夕食の時間、魚を黒炭にせず、上手に焼けるようになったのだと自慢するダグに、ダグラスは指先一本で食べごろ温度に温め直してみせてくれた。
その瞬間、ダグの中でダグラスは母親のお客様から、尊敬すべき相手となった。
「あの子に優しくしてくれて、ありがとう」
後片付けを済ませたリュシーが、ワインとグラスを2つ持ってきてダグラスの前で揺らした。
ダグラスは、少しためらったものの結局は頷いた。彼もこの後の会話にはアルコールが必要だと思ったのだろう。
ワインナイフで封を切ろうとするリュシーから、ワインボトルとナイフを取り上げると慣れた手つきで栓を抜いてくれた。
黙ってそのままグラスに注ぐ。
当たり前のように滓の少ないファーストワインをリュシーに渡してくれるダグラスに、頑ななリュシーの心が少しだけ柔らかくなる。
優しい人なのだ。だから、子供にも、やさしくしてくれる。
それが、逃げ出した愛人候補が勝手に産んだ子供であっても。
「当たり前だ。あの子は、……俺の」
「いいえ、私の子よ。私だけの愛する子供。それでいいじゃない」
「俺の子供でもある! あの瞳。グローム侯爵家直系にしかないスタールビーじゃないか。俺の血だ!」
ばっさりと切り捨てたリュシーの返答に、ダグラスは激高した。
立ち上がった勢いで木の椅子が傾ぐ。それを、倒れる寸前に、リュシーは手で押さえた。声を潜めて、叱責する。
「大きな声を出さないで。あの子は寝ているの」
「くそっ」
悔しそうにワインを一気に呷ると、ボトルからなみなみと注ぎ足してまた呷った。
「ここで見たことをあなたは忘れた方がいいわ、ダグラス。学生時代のことも。私も、今を生きている。あなたもそうして?」
すぐ傍で、同じ時間を過ごしたのはたったの2年ちょっとのことだ。
学生時代の半分以上とはいえ、そこから離れて暮らすようになってから10年が経っている。
18歳であったのが、もう28歳。30代も目前だ。
子供のころの楽しかった思い出に手を伸ばすのではなく、いま立っている場所を大事にするべきだとリュシーはダグラスに伝えたかった。
「いいや。君は俺と結婚するべきだ、今すぐ」
「ダグラス。いい加減にして」
「なんでだ? なんで、そうやって俺との結婚を嫌がるんだ」
「嫌がってなんか」
「俺と結婚するのが嫌で、卒業パーティーから逃げ出したくせに」
「ダグラス。落ち着いて。だって、結婚なんて、無理よ」
「約束、したのに。やっぱりあれは嘘だったのか。君は、僕のことなんか好きじゃなかったんだ。好きだったことなんか、ないんだろ」
「ダグラス! いい加減にして。国で待ってる奥様に、失礼だわ!」
「僕にはオクサマなんていない!」
「え……だって、そんな。婚約者の、ご令嬢は? どうして結婚しなかったの。愛らしいけれど、しっかりした、貴族令嬢らしい素晴らしい完璧なお相手だったのに」
「誰のことだ? 婚約者? 僕には君だけだ。君としか結婚したいと思ったことはない。婚約だって、君としているつもりだった! ずっと! 本気だった。本気だったのに」
「嘘よ!」
「僕は君に嘘なんかついたことはない! 君こそ、僕と結婚するなんて嘘をついて。僕を置いて、いなくなって」
「卒業パーティーで、お揃いのドレスを着た君をエスコートするのを、僕がどれほど待ち望んだか、知らないんだろう。約束の時間になっても君は来なくて。パーティーが始まっても、来なくて。女子寮に迎えに行こうかと悩んで、すれ違いになったらと思うと動けなくて。パーティーが終わるまで、あの場所で待ってた、僕のことなんて」
「ダグラス。あぁ、そんな」
リュシーの胸に、激しい後悔が渦巻いた。
置いていったダグラスが、そこまでリュシーとパーティーに出ることを楽しみにしてくれていたなんて想像したこともなかった。
リュシーのことなどすぐに忘れて、楽しく過ごしているとばかり思っていた。
何故なら彼には、愛らしい婚約者がいるのだから。
「でも、私は確かにあなたの婚約者にお会いしたのよ。お母様とご一緒だったもの、間違いないわ!!」
「その女は、母と会った時にいたんだね? あの、お金を受け取った時か」
ダグラスの瞳が爛々と輝いていた。どこか狂気じみてさえ見える。
「お金? あの日、私は婚約者のいる貴族の妾にされてしまうところだった、姿を消せと言われたわ。でも特別入学生である私は、3年の間は、国から指定された治癒院で働かなくてはいけないでしょ。その治癒院の場所も済むところもダグラスは知っているからどうしようって相談したの。侯爵家の力で内緒で違う勤め先に変更して貰えるんじゃないかって思って。そうしたら」
「母が出すと言った?」
間髪入れずにダグラスが決めつける。
しかしリュシーは記憶を頼りにそれを否定して、覚えている限りの説明をした。
「いいえ。婚約しゃ……一緒にいたご令嬢が、『自分の差配で個人資産から出す』とか何とか言ってたと思う。ごめんなさい、あなたに婚約者がいて、私は妾にされると言われて、それだけでもう頭が混乱してしまったの。私にできたことは、言われるまま卒業証書を受け取って、あなたの前から姿を消すことだけだった」
あの時の悔しさと情けなさが、リュシーの心を揺さぶった。
騙されたのかもしれないと、心から愛した人を信じ続けることができなかった自分の不甲斐なさが苦しくて、リュシーは俯いた。
そんなリュシーを前に、ダグラスも深い後悔を感じていた。
「そうか。あのお金は、国に返すお金だったのか」
卒業パーティーの夜、夜通し外でリュシーを探したダグラスは翌日から熱を出した。
まだ熱の残る体で治癒院へ向かったダグラスだったが、「彼女は、この治癒院では不満だったようだよ」と院長から不快そうに伝えられて衝撃を受けた。二人で決めた部屋には、誰も住んでいなかった。
そうして少しずつ、ダグラスはリュシーを諦めた。
いいや、女性を信じることを諦めた。侯爵家の嫡男という立場も父に申し出て辞退した。誰かと結婚して子供が欲しいと思えなかったからだ。
その話し合いで、母からリュシーのサインが入った、高額領収書を見せられたのだ。
『貴方と別れて欲しかったら、と言われて彼女にお金を払ったの。言い出せなくてごめんなさい』
その日から、ダグラスは実家の侯爵家に足を踏み入れていない。
ずっと黙っていた母を恨むのはお門違いだと分かっていても、どうしても顔を見れなかった。
ずっと仕事だけしてきた。そうして休暇も取らずに10年過ごして、「いい加減に休みをとれ」と直属の上司だけでなく父である王宮魔術師団長から「休暇を取らないならお前はクビだ」と宣告されて一か月間の長期休暇を取らされた。
実家にだけは帰りたくなかったし、一人で寮にいるのも辛かったので、どこでもいいから自分を知らない土地へ行こうと思い立って、着替えすら持たずにやってきたのが、この街だった。
そうして宿を探しているところで、見知った後姿を見つけたのだ。
運命だとダグラスは思った。
積年の恨みを晴らすチャンスを神から与えられたのだと。──まるで見当違いの恨みだったが。
「それと、旅費とか当分の生活費もあったと思うわ。それこそ知り合いも誰もいない知らない村に連れていかれて、『この部屋に住むように』って、侍従さんから言われたの。その時にサインをした記憶があるわ。でもごめんなさい。お金を受け取ったのは間違いないわ。生活費として使ってしまったのも本当よ」
「いや、それは当たり前だ。突然仕事と住むところを取り上げられて、知らない村へと放り込まれたんだ。不安だっただろう。しかも出鱈目を吹き込んで……いや、吹き込んだというのは少し違うかもしれないが。ねぇ、リュシー、よく思い出して? 私の母は、その令嬢を本当に婚約者だと紹介したのかい」
「……いいえ。確か、『あの子に、あなたという存在がいることも教えてもらえていないのよ』って。それと、ダグラスは婚約者はいないと言っていたと主張した私に、『弄ぼうとしている女性に、すべて正直に告白する男はいない』と」
まだ学生で人生経験の浅いリュシーはあっさりと、その言葉に含まれた毒を信じて飲み込んでしまった。
だが、大人になったリュシーには、グローム侯爵夫人が言い逃れができる範囲で誘導しているのがよく分かる。
「ごめんなさい。信じ切ることができなくて。ごめん、なさ…」
あっさりと騙され、いいように扱われることを許してしまった。愚かで幼い自分にショックを受けて震えるリュシーを、ダグラスはついに抱きしめた。
強く抱きしめ、その首元へ顔を埋める。
久しぶりに感じる、愛しい人の、あたたかな肌になじむ魔力に酔いしれる。
お互いの人生に足りなかったものが、今、腕の中に戻ってきたのだと感謝した。
どれくらい二人でそうしていただろう。
愛する人を抱きしめたまま、ダグラスはそっと詰めていた息をはいた。
「結婚しよう。もう誰にも邪魔させない」
「ダグラス。でも私は孤児で」
「そんなことは関係ない、と言いたいところだけれど君の立場だとそう言いたくなるのは分かる。だけど、全部俺に任せてほしい」
そう言って笑ったダグラスのスタールビーの瞳は、まるで笑っていなかった。
*****
一年後。
「俺の奥さんは、本当に綺麗だ。そうは思わないかい、我が息子よ」
「うん、僕のママは本当に綺麗! パパも恰好いいよ!」
まっしろいドレスが、青空の下で映える。
今日は、ダグラスとリュシーの結婚式だった。
ダグという素晴らしい息子の父親として、一日でも早く認められたかったダグラスの強い意向もあって、入籍自体はすでに済んでいた。
「もう。二人して何を言ってるのよ。あぁでも、本当に結婚できちゃったわ!」
「入籍はすでにしてるけどね。でもそうだよ、俺の愛する奥様」
「僕もー! 僕のママとパパだもん」
「あぁ、愛しい息子と奥さんに囲まれて、俺は本当に幸せだ」
ダグには、次の日の朝、二人並んで結婚の報告をした。
ダグから拒否されたらどうしようかと悩んでもみたが、駄目だしをされるにしても理由が分からないウチは対処策を考えることもできないと打ち明けることにしたのだあ。
「やったあぁ! ダグラスおじさん、僕のパパになってくれるの? 嬉しい!!」
あっさりと喜んだダグに、ホッとした。だが、ダグの次の言葉にリュシーは反省した。
「僕と同じ瞳の人って、この国には誰もいないでしょう? ママですら全然僕に似てないんだもん。『拾われっこ』って言われてたけど、もう違うね! パパの瞳は僕と一緒だ!」
にこにこと満面の笑みで告げられた言葉が胸に刺さった。
本来ならば当たり前のように二人から愛を受け取るべき存在だというのに。
小さな胸をどれだけ傷ついていたのだろうか。それでも元気でいい子に育ってくれたダグが愛しくて堪らなかった。
「ダグ。ごめんなさい」
リュシーがダグを抱きしめると、その上からダグラスが大きく長い腕を回して、二人を抱きしめた。
「うわー、うわー! 僕こんな抱っこ初めてだ!」
何度でも叶えてあげようと、ダグラスもリュシーも心に決めた。
こうしてダグラスは、リュシーとダグの戸籍がある国であっさりと入籍をしてしまったのだ。
そうして「少しだけ先に国に帰って一仕事終わらせたら迎えに来る」と言って、一旦一人で帰国していった。
残ったリュシーは、お世話になった伯爵家へ挨拶に赴き、帰国と退職の手続きを済ませ、家の売却などの手続きを済ませた。
「パパ遅いねー?」
「お仕事があるのよ」
寂しそうな息子を宥めながら、リュシーはもっと寂しかった。不安だった。
帰国して我に返って、早まって入籍してしまったと後悔しているのではないかと夜を迎える度に思って朝を迎えては、ダグラスを信じようと心に決め直した。
それでも不安で眠れない夜を、いくつも過ごした。
そんな不安な二か月を過ごし、ようやく迎えに来たダグラスは得意げな笑みを浮かべていた。
「お待たせ、俺の伯爵夫人と伯爵令息。今日から二人も貴族だ。揃ってたくさんお勉強をしないとだめだぞ?」
なんて言われて。ダグとリュシーは顔を見合わせて驚く羽目になったのだった。
国に帰ったダグラスは、実家で母にもう一度リュシーの件についての説明を要求した。
そうして偽物の婚約者であった令嬢からも説明を聞き、それを元に調査を開始したのだ。
その結果、ダグラスはワート伯爵家を侯爵令息殺害未遂の罪で告発した。
その隠ぺいに関わったとして魔術学園の元校長と、実行犯ジェム・ワートの友人たちやその元婚約者など多数も一緒に訴えられたことで大騒ぎになった。
「罪人どもは処罰を受けた。ワート伯爵と、口裏を合わせた元校長は爵位取り上げ、財産の没収。それ以外の嘘を広めた連中からも慰謝料を受け取った。侯爵家から籍を抜いて平民となった俺は君という素晴らしい妻を得た。しかし優秀な俺を逃したくなかった国から、今回の罪滅ぼしとして空位となっていた某伯爵家の位を頂いてきた」
「まさか、ジェム・ワートの悪戯が発端だったダグラスのあの魔術暴発事件の責任が、私に押し付けられていたなんて知らなかったわ」
「大人たちはそれでいいと判断したのだろうけど、リュシーと僕にはいい迷惑だ」
ジェムの放った風魔法がダグラスの身体を貫通し、飛び散った血が構築中の魔術紋に降りかかったせいで起きた暴発事故。
リュシーがすぐに止血したこともあって、現場にいながら、どうしての部分に気が付いていなかった生徒がほとんどだった。
「まさか、平民の女生徒を取り合った上位貴族の令息たちのいざこざだとされていたなんてね」
それならば、怪我をさせた方だけが退学にされたことに周囲が不満を持つのも当然なのかもしれない。
その不満が原因となった少女一人に向かうのも。
罪を隠ぺいして終わるはずだった嘘は、いつの間にか一人歩きして大きくなり、被害者の家族で唯一事実を知らされていなかった母親の耳に入ってしまった。
恩人を、罪人と誤認させられて。
「侯爵夫人も、騙された被害者だったのね」
「だとしても。俺に直接確かめればよかったんだ。それをしないでいきなり何も悪くないリュシーに怒りをぶつけるなんて。リュシーがいなければ俺は生きていないのに」
憤慨するダグラスに、リュシーは苦笑した。
「んー、まだ学生だった侯爵令息と子供を作っちゃったのは、やっぱり怒られても仕方がないかも?」
「こんなにかわいいダグが生まれたんだ。罪なものか!」
「パパ、計画通り?」
「そうだぞ! パパすごいだろ!」
「うん、すごい!!」
高く抱き上げられたダグが嬉しそうに声を上げる。
青い空の下で、くるりくるりと回転してもらい、笑顔を浮かべる息子に、リュシーは微笑んだ。
父と子は、吃驚するほどそっくりだ。
誰が見ても親子であると分かるほど。
そうして、この結婚の挨拶をするために顔合わせをしたグローム侯爵夫妻は、一人で子を産んで育てることになった長男の嫁に、深く深く頭を下げたのだった。
「まさか、私が伯爵夫人になるなんて」
「侯爵夫人じゃなくてガッカリした?」
「いいえ。私には、爵位より素敵な夫と息子がいる方がずっと重要だわ!」
※ダグはお子様の名前です。シクベでは、実のパパの愛称つけちゃったりするのが定番だと思ってましたw




