9. 全てに飽いた魔王
「うむ、確認した。下がって良し!」
ゼノヴィアスは料理に視線を落とすこともなく、手を振った。
小悪魔たちは安堵の表情を浮かべ、そそくさと退室していく。バフォメットも一礼して扉を閉めた。
再び、静寂が訪れる――――。
ゼノヴィアスは深いため息をついた。
(つまらぬ……)
魔王は闇から生まれた存在。魔気の濃いこの城にいる限り、食事など必要ない。空腹を感じることもなければ、味覚を楽しむ必要もない。
それでも部下たちは、毎日三度、律儀に食事を運んでくる。「魔王様も食事をなさるべきです」という、彼らなりの気遣いなのだろう。
だが、五百年も生きていれば、どんな美食も灰のように味気ない。
(人間との大戦が終わって、もう四百年か……)
思い返せば、あれは壮絶な戦いだった。
人間たちは次々と勇者を送り込んできた。聖剣を掲げ、正義を叫び、仲間たちと共に魔王城に攻め込んでくる。とんでもないチートな攻撃を繰り出してくる勇者。しかし、ゼノヴィアスの方が一枚上手だった。その天才的な戦闘センスで勇者を葬っていく――――。
ところがそれで終わらない。一人倒せば、また新たな勇者が現れる。まるで雑草のように、次から次へと。
百年に及ぶ戦いの末、両陣営とも疲弊しきった。そして結ばれた停戦協定。
以来、人間は人間同士で争い、魔族は魔族で静かに暮らしている。
(平和だ。退屈なほどに)
ゼノヴィアスは立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。
眼下に広がる魔の森。かつては勇者たちの恐るべきチート攻撃で荒れ野原だったが、今では、ただの森だ。
「少し体でも動かすか……」
呟いて、ゼノヴィアスは窓を開ける。
冷たい風が吹き込み、黒髪を乱す。そのまま窓枠に足をかけ、ひらりと身を躍らせた。
重力に引かれて落下する身体。しかし、魔王の表情は涼しげなままだ。
地面が近づいた瞬間――――。
ブワッ!
紫色の魔法陣が足元に展開される。複雑な紋様が光を放ち、落下の衝撃を完全に吸収する。人間の魔法使いが見れば、腰を抜かすほど高度な術式――――。しかし、ゼノヴィアスにとっては呼吸も同然だった。
優雅に着地し、中庭を見渡す。
黒い石で敷き詰められた広場。かつては訓練用の人形が並び、若い魔族たちが汗を流していた場所。今は、誰もいない。
と、その時だった――――。
「もらったぁぁぁ!」
殺気が背中を撫でる。
振り返る間もなく、赤い閃光が視界を切り裂いた。炎を纏った剣が、ゼノヴィアスの首筋めがけて振り下ろされる。
しかし――――。
パァン!
ゼノヴィアスは振り返りもせず、ただ左手を後ろに伸ばしただけだった。その手の甲が、剣の腹を叩く。
赤い剣は、まるで飴細工のように砕け散った。
「なっ……!?」
襲撃者は若い魔族だった。赤い肌に、まだ短い角。おそらく百歳にも満たない若造だろう。目を見開き、信じられないという表情で砕けた剣の柄を握りしめている。
「お前、名は?」
ゼノヴィアスがゆっくりと振り返る。
「ぐっ……」
若者は答えない。いや、答えられない。魔王の瞳を見た瞬間、全身が金縛りにあったように固まってしまったのだ。
「まあ、いい」
ゼノヴィアスは軽く腕を振るった。
刹那、裏拳が若者の頬を捉え、放たれる凝縮した魔力が大爆発を起こす。
ズン!
身体が宙を舞い、弧を描いて飛んでいく。そして――――。
ドゴォン!
中庭の向こうの石壁に激突し、蜘蛛の巣状にひびが入る。若者はそのまま地面に崩れ落ち、ぴくりとも動かなくなった。
「次やったら処刑な……」
ゼノヴィアスは若者を指さしたが――――。
「……って、聞こえてないか」
倒れた若者を一瞥し、ふぅと深いため息をつく。
こんなことも、日常茶飯事となっていた。
若い魔族たちは、隙あらば魔王の座を狙ってくる。「俺が魔王になる」「新しい時代を作る」――威勢のいい言葉を吐いて、そして一撃で沈む。
最初の頃は、まだ面白かった。どんな技を使ってくるか、どんな覚悟で挑んでくるか――――。しかし、何万回と繰り返されれば、もはや日常の一部でしかない。
「いつまでこんなつまらない暮らしが続くんだ?」
ゼノヴィアスは空を見上げた。
魔の森の空は、常に曇っている。雲が太陽を隠し、薄暗い光だけが地上に届く。たまにしか青い空は見られないのだ。
「もう、たくさんだ……」
呟いて、ゼノヴィアスはすっと両手を広げた。
紫色の魔力が身体を包み込む。風が渦を巻き、髪と衣服をはためかせる。
ふわり――――。
重力から解放され、身体が浮き上がる。高度な浮遊魔法。人間の魔法使いなら、一生かけても習得できない技術だ。
しかし、ゼノヴィアスの表情に喜びはない。
ただ、どこか遠くを見つめるような、寂しげな瞳があるだけだ。
そして、魔王は飛び立った。
黒い影が、ものすごい速度で曇り空に吸い込まれていく。どこへ向かうのか、何を求めるのか。それは、ゼノヴィアス自身にも分からない。
ただ、この退屈な日常から、少しでも離れたかった。
五百年の時を生き、全てを手に入れ、そして全てに飽いた魔王。
彼が求めているものが何なのか、まだ誰も――本人さえも――知らない。