8. 魔王ゼノヴィアスの憂鬱
「……へ?」
一人残されたシャーロットは、呆然と立ち尽くす。
(失敗した……? でも、あんなに驚いた顔してたのに……)
鍋に残ったトマトソースを指ですくい、ペロリと味見をする。トマトの旨味は十分に引き出せているはず。味付けも悪くない。
(一体、何が……)
不安に駆られていると、ドタドタと激しい足音が近づいてきた。
バタン!
勢いよくドアが開き、ガンツが飛び込んでくる。両腕いっぱいに、様々な種類のトマトを抱えて――――。
「お嬢ちゃん!」
老人の顔は、まるで少年のように輝いていた。
「これは甘みが強い! こっちは酸味のバランスがいい! あと、これは試験的に作った品種でな……」
テーブルの上に、次々とトマトを並べていく。
「多分、味の濃いトマトの方がきっともっと美味いはずだ。いくつか持ってきたから、これで試してくれんか? な?」
瞳をキラキラと輝かせながら、ガンツは身を乗り出した。
「え? じゃあ、譲っていただけるんですね?」
「もっちろんじゃ!」
ガンツは大きく頷いた。
「トマトが、こんなに……加熱したら甘みが増して、でも酸味も活きて、全体がまとまって……こんなに美味くなるとは!」
感極まった様子で、老人は続ける。
「嬢ちゃん、わしは二十年以上トマトを作ってきた。でも、こんな食い方があったとは知らんかったぞ!」
「これはほんの一例です」
シャーロットも興奮気味に答える。
「トマトは煮込み料理にも、スープにも、ソースにも使えます。グラタンに入れても美味しいし、肉と一緒に煮込めば最高のご馳走に……」
その情熱的な説明に、ガンツは何度も深く頷いた。
「そうじゃろう、そうじゃろう! じゃから、加熱に合いそうなトマトを見繕ってきたぞ。これで試してみぃ!」
「あ、ありがとうございます!!」
感激のあまり、シャーロットは思わずガンツの手を握った。
皺だらけで、土の匂いのする、働き者の手。二十年間、理解されなくても、トマトを作り続けてきた手。
「おう! いっぱい育ててやっからな! 任せたぞ!」
ガンツはニカッと笑って固い握手を交わす。
こうして、シャーロットは良質なトマトの安定供給先を確保しただけでなく、トマトへの情熱を共有する、かけがえのない仲間を得たのだった。
この出会いが、ローゼンブルクの町の食文化を大きく変える第一歩となることを、まだ誰も知らない。
窓の外では、トマトたちが陽光を浴びて、まるで祝福するかのように赤く輝いていた。
◇
その頃、魔の森の最深部――――。
魔王城の最上階、黒曜石で造られた玉座の間で、魔王ゼノヴィアスは深い憂鬱に沈んでいた。
巨大なアーチ窓から見下ろせるのは、どこまでも続く原生林の海。紫がかった霧が立ち込め、時折、魔獣の遠吠えが響いてくる。
五百年を超える歳月を生きてきた魔王。しかし、その姿は人間でいえば二十代半ばといったところだろうか。
艶やかな黒髪は肩まで流れ、切れ長の瞳は深い紫色をしている。高い鼻梁、整った顎のライン――人間界にいれば、間違いなく女性たちが群がるような美貌の持ち主だ。ただ、額から生えた漆黒の角だけが、彼が魔族であることを物語っていた。角は僅かにカールし、まるで王冠のような威厳を放っている。
コンコン。
重厚な扉を叩く音が、静寂を破った。
「魔王様、お食事の時間でございます」
扉の向こうから、恭しい声が響く。
「呼ばずとも良い!」
ゼノヴィアスは玉座から立ち上がることもなく、苛立たしげに声を荒げた。切れ長の瞳が、一瞬だけ赤く光る。
しかし、扉はゆっくりと開かれた。
入ってきたのは、山羊の頭を持つ老執事バフォメット。燕尾服を完璧に着こなし、白い手袋をはめている。三百年以上、この城に仕えてきた忠実な部下だ。
「そうは参りません」
バフォメットは胸に手を当て、深く一礼する。しかし、その声には毅然とした響きがあった。
「魔王様が食事内容を確認されませんと、厨房の者たちが困ります。『今日の料理は魔王様のお気に召さなかったのではないか』と、皆、不安に駆られるのです」
「ふんっ!」
ゼノヴィアスは不愉快そうに鼻を鳴らしたが、それ以上反論はしなかった。
バフォメットが手を叩くと、小悪魔たちがぞろぞろと入ってくる。赤い肌に小さな翼を持つ彼らは、必死に重そうな料理を運んでいた。
銀の大皿には、香草をまぶした子鹿の丸焼き。琥珀色のソースが艶やかに照り、香ばしい匂いが漂う。
深い鍋には、魔界でしか採れない紫色の根菜と、魔獣の肉をじっくり煮込んだシチュー。表面には油が浮き、スパイスの刺激的な香りが立ち上る。
他にも、血のように赤いワイン、黒いパン、得体の知れない果実……どれも、人間界では決して見ることのできない料理ばかりだった。