5. 赤い盲点
開店準備も順調に進み、あっという間に一週間が流れていった――――。
朝の爽やかな光が、磨き上げたガラス窓から店内に降り注ぐ。
シャーロットは、何度も磨いて艶が出てきた欅のカウンターに、そっと手を置いた。木の温もりが、掌に優しく伝わってくる。
(ここが、私の新しい居場所――――)
深呼吸をして、改装が進む店内をゆっくりと見渡す。
一週間前は埃と蜘蛛の巣に覆われていた壁には、今、蚤の市で一目惚れした温かみのあるタペストリーが飾られている。向日葵の黄金色と小鳥の優しい茶色。一針一針丁寧に刺繍された作品は、まるで永遠の夏を閉じ込めたかのような明るさを店内にもたらしていた。
「さて、このカーテンは合うかしら……」
シャーロットは脚立に登り、窓際に薄い水色のレースカーテンを取り付ける。朝の微風がさっそく布地を揺らし、まるで湖面の漣のような優しい影を床に落とした。
「うん! いい感じ!」
テーブルの上には、この一週間で少しずつ集めた宝物のような食器たちが、出番を待つように並んでいる。
クリーム色の地に小さな苺が踊るように描かれた皿は、見ているだけで幸せな気持ちになる。持ち手が小鳥の形をしたティーカップは、まるで手の中で小鳥を包み込むような優しさ。銀のスプーンに彫られた四つ葉のクローバーは、使う人に小さな幸運を運んでくれそうだ。
どれも、マルタが「あんたの店にぴったりよ」と紹介してくれた、町の陶芸家たちの心のこもった作品だった。
「お客様が、これで紅茶を飲んだら、きっと笑顔になるわ」
シャーロットは、一番お気に入りの小鳥のカップを手に取り、まるで生きているかのようにそっと撫でる。
振り返れば、厨房も見違えるようになっていた。
かつてのパン屋の名残である大きな竈は綺麗に掃除され、新しい命を吹き込まれるのを待っている。磨き上げた銅鍋が、まるで夕日のような輝きを放ちながらフックに掛けられていた。
窓辺の棚には、ガラスの小瓶がずらりと並ぶ。ローズマリー、タイム、オレガノ、バジル……乾燥ハーブたちが、まるで植物標本のように美しく収まっている。
新しく設置した黒板には、白いチョークで夢が描かれていた。
『本日のスープ』、『ふわふわパンケーキ』、『魔法のシチュー』――――。
そして、一番上に、まるで王冠のように大きく誇らしげに書かれているのが――――。
「やっぱり最初は、みんなを笑顔にする『とろけるチーズの王様オムライス』よね!」
シャーロットは、両手を腰に当てて、満面の笑みを浮かべた。前世では自分のために工夫を凝らしながら改良していった料理。でも今度は、自分の店で、たくさんの人を幸せにするために作るのだ。
◇
「まずは試作だわ!」
朝露がまだ残る石畳を踏みしめながら、シャーロットは意気揚々と市場へ向かった。籐のカゴが腕に心地よい重さを作る。
市場は既に活気に満ちていた。威勢のいい呼び声、野菜や果物の瑞々しい香り、朝日を受けて輝く新鮮な食材たち。
「おや、カフェのお嬢ちゃんじゃないか!」
顔なじみになった親父が、人懐っこい笑顔で手を振る。
「今日は何がお目当てだい?」
「新鮮な卵と、上質なチーズ、それから柔らかい鶏肉を……」
シャーロットは、慣れた手つきで食材を選んでいく。卵は一つ一つ光に透かして確認し、チーズは香りを確かめ、鶏肉は弾力を指で確認する。
カゴが少しずつ重くなっていく。それは、夢が現実になっていく重さでもあった。
「次は野菜を――」
ところが――――。
「あの、トマトはありませんか?」
何気ないその問いかけに、八百屋の親父は眉をひそめた。
「トマト? なんだいそりゃ」
まるで異国の言葉を聞いたかのような反応に、シャーロットは息を呑む。
「え、あの……赤くて、丸くて、ちょっと酸味があって……」
「赤い野菜なら赤カブがあるが?」
親父が差し出したのは、確かに赤いが、全く別の野菜だった。
シャーロットは愕然とした。まさか、この世界にトマトが存在しないなんて――――。
慌てて他の店も回ってみたが、どこも同じ反応。「トマト? 聞いたことがない」「そんな野菜があるのか?」と、不思議そうな顔をされるばかり。
「噓でしょ……」
ふと思い返せば、公爵家の食卓に並んだ豪華な料理の中に、トマトを使ったものは一つもなかったのだ。
「オムライスが……私の自慢のオムライスが作れない……」
カゴを抱えたまま、シャーロットはその場に立ち尽くす。
トマトがなければ、ケチャップも作れない。パスタのトマトソースも、ミネストローネも、ラタトゥイユも――前世で愛した料理の多くが、作れなくなってしまう。
「くぅぅぅ……盲点だったわ……」
肩を落として市場を後にする。トマトなしで一体何を作ればいいのだろう? 重いカゴが、今は挫折を象徴するかのように感じられた。