4. ひだまりのフライパン
角を二つ曲がり、メインストリートから少し入った静かな通りで、マルタは立ち止まった。
「ここよ」
マルタが指差した先で、シャーロットは息を呑んだ。
二階建てのクリーム色の建物が朝の陽光の中、静かにたたずんでいたのだ。
正面には可愛いアーチ型の大きな窓が三つ並んでいて、かつては町の人々で賑わっていたであろう温もりが、今も残っているような気がした。
入口は重厚な橡の木の扉で、色ガラスで小さな花模様の小窓があり、二階には白い木製の鎧戸がついた窓が四つ。一番右端の窓の下には小さなバルコニーがあり、そこだけ濃い緑の蔦が優雅に絡まっている。
しっかりとした灰色の石造りの土台は、何十年もこの町の風雪に耐えてきた風格があった。
「前はパン屋だったんだけどね。店主が年で引退して、もう半年も空き家なの」
マルタの声には、一抹の寂しさが混じる。
「素敵……」
シャーロットは、まるで恋に落ちたように建物を見つめた。
頭の中で、既に夢が形を成し始めている。窓際には、陽だまりのような温かいテーブル席を。入口には、手書きの可愛い看板を。二階の窓からは、ハーブの鉢植えを吊るして……。
「中も見る? 大家は私の古い友人でね、鍵を預かって……」
「ぜひ!」
かぶせてくるようなシャーロットの即答に、マルタは優しく微笑んだ。
重い木の扉を開けると、埃の舞う光の筋が現れた。でも、その埃っぽさも、シャーロットには素敵な物語の始まりの予感に思える。
中は予想以上に広い。床は年季の入った木製で、歩くたびに優しい音を立てる。厨房も、かつてのパン屋の設備がしっかりと残っていて、少し手を加えれば十分使えそうだ。
「裏庭もあるのよ」
マルタに案内されて裏口から出ると、小さいけれど陽当たりの良い庭が広がっていた。
シャーロットは、そこに広がる可能性を見た。ローズマリー、タイム、バジル……新鮮なハーブを摘んで、すぐに料理に使える。小さなテーブルを置けば、天気の良い日は外でもお茶を楽しめる。
「どう? 気に入った?」
マルタの問いに、シャーロットは振り返った。
「はい! ここに決めます!」
その顔には、十数年ぶりに見せる、心からの笑顔が輝いている。
「あら、即決?」
「ええ。もう、ここしかないって感じがするんです。まるで、この建物が私を待っていてくれたみたいに」
マルタは一瞬驚いた顔をした後、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「そう、それなら良かった。大家のトーマスも喜ぶわ。彼、この建物を大切に使ってくれる人を探してたから」
その日のうちに、とんとん拍子で話は進んだ。大家のトーマスは、人の良い老紳士で、シャーロットの熱意をいたく喜んでくれた。
「若い人がこの町で夢を叶えようとしてくれるなんて、嬉しい限りじゃなぁ」
思っていたより遥かに安い家賃に驚くシャーロットに、トーマスは優しく言った。
「町に活気が戻るなら、それが一番の家賃じゃよ」
宿に戻ったシャーロットは、ベッドに寝転がって天井を見上げる。
木目の美しい天井。王都の豪華な屋敷とは違う、素朴だけれど温かみのある部屋――――。
「明日から、頑張らなくっちゃ……」
やることは山ほどある。掃除、修繕、家具の調達、食器に調理器具の準備、メニューの考案……でも、そんな大変なことにワクワクしてしまうのだった。
十数年間眠っていた何かが、ゆっくりと目覚め始めているような感覚。体の奥から、生きる力が湧き上がってくる。
「お店の名前は何にしようかしら……」
シャーロットは、子供のようにウキウキしながら考える。
「『金のたまご亭』……いえ、ちょっと大げさね。『幸せの黄色いスプーン』……可愛いけど、長すぎるわ」
ごろんと寝返りを打ち、窓の外を見る。
傾いてきた太陽が町を優しいオレンジ色に染めている。まるで、大きな日溜りに包まれているような、温かい光景。
「……そうだわ」
シャーロットの顔が、ぱっと輝いた。
「この町の温かさ、この光……『ひだまり』……そう、カフェ『ひだまりのフライパン』!」
声に出してみると、しっくりくる。温かくて、親しみやすくて、ちょっとユーモラスで。まさに、自分が作りたい店のイメージそのもの。
「うん、いい名前だわ!」
シャーロットは幸せそうに微笑んだ。
明日から、本当の意味での新しい人生が始まる。誰のためでもない、自分のための人生が。そして、この町の人々に、美味しい料理と温かい時間を提供できる、【ひだまり】のような場所を作るのだ。
「どんなメニューにしようかしら……。ハンバーグ、パスタ? あの可愛いお店に似合うのは……オムライス? オムライスの黄色は『ひだまりのフライパン』っぽいかも!? ふふっ。そしたらインテリアは……」
アイディアがどんどんあふれ出してきて止まらない。
窓の外では、ローゼンブルクの穏やかな夜が更けていく。どこかで梟の鳴く声が、まるで祝福の歌のように響いている。
「うーん、なんて幸せなのかしら! 明日が待ち遠しいわ!!」
満天の星々の下、シャーロットは希望に満ちた幸せな気持ちで目を閉じる。
夢の中でもう、『ひだまりのフライパン』には、たくさんのお客様の笑顔が溢れていた。