34. いつかは……
「さて、帰りはワイバーンに乗っていこう」
ゼノヴィアスが、まるで少年のように目を輝かせてワイバーンを指さした。
月光を浴びて銀色に輝く巨竜は、主人の喜びを感じ取ったかのように、ゆらりと長い首をもたげる。
「え? 本当に乗ってもいいんですか?」
シャーロットは息を呑んで、改めてその巨体を見上げた。
城壁ほどもある体躯。鋼のような鱗。そして何より、知性を宿した琥珀色の瞳――。
間近で見ると、その存在感は圧倒的だ。けれど不思議なことに、恐怖はない。むしろ、胸の奥で何かがそわそわと騒いでいる。
「当然だ。我が妃候補には、特別な待遇をせねばな」
ゼノヴィアスは得意満面で胸を張った。
「まだ候補ですからね?」
シャーロットは慌てて釘を刺した。けれど、その声音に先ほどまでの拒絶の色はない。
「ふふっ、分かっておるとも」
ゼノヴィアスは悪戯っぽく、けれど優しく微笑んだ。
そして――。
「では、参るぞ!」
次の瞬間。
ひょいっと、またしてもあの腕がシャーロットを軽々と抱き上げた。
「きゃっ! もう、いきなりは……」
抗議の言葉は、風にさらわれて消えた。
ゼノヴィアスは彼女を大切な宝物のように胸に抱いたまま、地を蹴る。一瞬の浮遊感。そして気がつけば、ワイバーンの背の上に降り立っていた。
そこには、見事な細工の鞍が据えられている。
漆黒の革に銀の装飾。座面には柔らかな毛皮が敷かれ、長時間の飛行にも耐えられるよう工夫されていた。
ゼノヴィアスは慎重に、まるで壊れ物を扱うようにシャーロットを鞍に座らせる。そして自分も、彼女の隣にそっと腰を下ろした。
「しっかり掴まっていろよ」
優しい命令。
そして、手にした小さな鞭で、ワイバーンの脇腹を軽く叩く。合図だ。
ゴゴゴゴゴ……。
巨体が震える。まるで眠りから覚めた山のように、ゆっくりと、しかし確実に動き始める。
帆船の帆のような巨大な翼が、ゆるゆると持ち上がっていく。
月光がその皮膜を透かし、血管のような模様が浮かび上がった。それは恐ろしくもあり、同時に神秘的な美しさを湛えている。
一瞬の、息を呑むような静寂。
直後――。
バサァァァッ!
轟音と共に翼が打ち下ろされ、同時に鋼のような後脚が大地を蹴った。
まるで大砲から撃ち出されたような加速。体が一気に宙へと投げ出される。
「ひゃあああああ!」
シャーロットは反射的にゼノヴィアスの腕にしがみついた。
恥も外聞もない。ただ、落ちたくない一心で。
バサッ! バサッ! バサッ!
力強い羽ばたきが続く。そのたびに、ぐんぐんと高度が上がっていく。
風が激しく吹き付け、髪を乱し、スカートをはためかせる。
でも不思議だ。怖くない。
むしろ、胸の奥で何かが弾けそうなほど高鳴っている。
「はははっ! どうだ、気持ちいいだろう!」
ゼノヴィアスが心から楽しそうに叫んだ。
「はい! すごい……すごいです!」
シャーロットも思わず笑顔になっていた。
眼下に王都が広がっていく――――。
「よーし! それじゃあ、このまま魔王城へ……」
「えっ!?」
シャーロットの笑顔が凍りついた。
「ちょっと待ってください! ローゼンブルクです! ローゼンブルクに帰るんです!」
ペシペシペシッ!
必死にゼノヴィアスの腕を叩く。
「おっと、そうだったな! はっはっは!」
ゼノヴィアスは悪戯を見つかった子供のように、楽しそうに笑った。
「もう! ゼノさんったら!」
シャーロットはプクッと頬を膨らませる。
二人を乗せたワイバーンは、王都の上空を大きく旋回していく。
眼下には、奇跡の薬が行き渡り始めた街。死の恐怖から解放された人々の灯す明かりが、ぽつりぽつりと増えていく。まるで地上の星座のように。
「……仕方ない、ローゼンブルクへ寄ってやろう」
ゼノヴィアスがわざとらしくため息をつきながら、そっと、シャーロットの腰に腕を回そうとしてくる。
パシッ!
シャーロットは素早くその手を撃墜する。
「何ですか、この手は!」
「い、いや……その……高空は寒いかと思って……」
魔王ゼノヴィアスは威厳も何もなく狼狽する。
シャーロットはその様子を見て、クスッと小さく笑う。
そして――――。
「……確かに、少し寒いかも」
呟きながら、自分からそっとゼノヴィアスの腕に寄り添った。
温かい。
魔王の体温は、人間より少し高い。それが今は、とても心地よかった。
「お、おぉ……」
ゼノヴィアスの声が、微かに震える。
シャーロットは、ちらりとゼノヴィアスの横顔を見上げた。
月明かりに照らされたその顔は、いつもの傲慢な魔王ではなく、不器用な優しさに満ちた一人の男の顔。
世界中が恐れる魔王。
でも、オムライスを愛し、全力で自分を守ってくれる優しい人。
まだ、答えは出せない。
でも――。
(いつか……、いつかは……頷いてしまうかも……?)
シャーロットは静かに目を閉じ、がっしりとした腕の温もりを感じた。
鼓動が、微かに伝わってくる。
五百年を生きた魔王の心臓が、まるで初恋の少年のように、不規則に脈打っている。
ワイバーンは優雅に翼を広げ、月光の海を泳ぐように飛んでいく。
まだ名前のつかない、不思議な関係の二人を乗せて。
風が優しく頬を撫で、星々が祝福のように瞬いていた。




