33. 恐るべき近所のおじさん
「お、恐れ多いことでございます」
シャーロットは戸惑いを隠せなかった。
まさか、一国の王にここまで――。
「恐れ多いものか!」
国王は首を振った。
「貴殿のおかげで、我が王国は救われる! 民が、子供たちが生きられるのじゃ!」
握った手を、まるで救いの綱を掴むかのように上下に振る。その必死さに、シャーロットは息を呑んだ。
「まさに、あなたこそ真の聖女! 国を救った女神じゃ!」
その瞬間、シャーロットは違和感を覚えた。
聖女。
女神。
今度はそんな風に祭り上げられるのか――。
「女神だなんて……」
シャーロットは静かに、けれど芯の通った声で言った。
「それは言い過ぎですわ」
やんわりと、しかし拒絶の意志は明確に。
「いやいや、謙遜することはない! これからは聖姫として、我が国の守護職に就いてもらえんか? いや、就いてくれ!」
国王は必死に口説いてくる。民を救う希望を、どうしても手放したくないかのように。
――来た。
シャーロットの瞳に、諦めにも似た色が浮かんだ。
結局はこれだ。感謝の言葉の裏には、必ず見返りの要求がある。国を統べる者として当然の判断なのだろう。使える人材は囲い込む――それが権力者の習性なのだ。
でも、私は――――。
キュッと唇を噛みしめた時。
「ダメだ!」
横から、不機嫌な声が割り込んだ。
ゼノヴィアスが、腕を組んで仁王立ちしている。
「へ……?」
国王は目を丸くした。
自分に向かって面と向かって「ダメ」などと言う者などいただろうか? ましてや、こんな無造作に、まるで子供を叱るような口調で。
「シャーロットは」
ゼノヴィアスは堂々と宣言した。
「我が妃となる女だ。王国ごときにはもったいない」
「ゼノさん!」
シャーロットが眉をひそめた。こんなところで既成事実化されてはたまったものではない。
「まだ何も承諾してないでしょ!」
「い、いや、まぁ……」
先ほどまでの威厳はどこへやら、ゼノヴィアスはたじろいだ。
「しかし、今回の件で我のことも少しは……その、理解が進んだのではないか?」
五百年生きて初めて見せる、すがるような瞳。不器用な懇願。
「それはそうですけど!」
シャーロットは腰に手を当てた。
「そういう態度をするなら、未来永劫、お断りします!」
ピシャリと言い放つ。
「そ、そうか……すまなかった……」
しゅんとなるゼノヴィアス。
五百年生きて、こんなに叱られたのは初めてだった。
「シャーロット殿……」
国王が恐る恐る尋ねた。
「こちらは?」
「あ、こちらは魔王のゼノさんです」
シャーロットがさらりと紹介した瞬間――国王の顔が、みるみる青ざめていく。
「ゼノヴィアスだ」
本人は気軽に名乗った。
「お前のじいさんとは何度か会ったことがあるが、最近はとんと王都もご無沙汰でな」
まるで、近所のおじさんのような口調。
「へっ……」
国王の顔から、完全に血の気が失せた。
そこへ、長老が小走りで駆け寄ってきた。震える手で国王の袖を引き、耳元で必死にささやく。
「間違いございません……本物の、あの魔王ゼノヴィアスです……どうか、どうかお気をつけを……」
そして、まるで逃げるように、そそくさと人混みに消えていった。
「ゼ、ゼノヴィアス……殿?」
震え声で確認する国王。
「そうだが? 何か問題でも?」
ゼノヴィアスは心底面倒くさそうに眉をひそめた。
「今回は特別に、シャーロットの顔を立てて秘薬を提供してやる」
恩着せがましく胸を反らす。まるで『俺はこんなに寛大なのだ』と言わんばかりに。
「まぁ、大きな貸しということにしておこう」
「あ、そ、それは……感謝の極み……」
国王は今にも卒倒しそうだった。額から流れる汗は、もはや滝のよう。
「それからな」
ゼノヴィアスの目が険しくなった。
「お前のバカ息子、ありゃ何だ?」
殺気が滲む。
「もうちょっとで八つ裂きにするところだったぞ。シャーロットに感謝しておけよ」
「え? エドワードがまた何か?」
国王は頭を抱えた。
「私のカフェに乱入して、無理やり拉致しようとしたんです!」
シャーロットもムッとした顔で訴える。
「かーーーーっ!」
国王は天を仰いだ。
「あの大馬鹿者がぁぁぁ! これは、これは本当に申し訳ない!」
土下座せんばかりの勢いで頭を下げる。
「必ず、必ず厳しい処分を下すことを約束する!」
「……ふん」
ゼノヴィアスは鼻を鳴らした。
「まぁいい。それでは、シャーロット」
表情を和らげ、優しく手を差し伸べる。
「そろそろ帰るとしよう」
「そうですね……」
シャーロットは改めて辺りを見回した。
薬を手にした人々の安堵の表情。希望を取り戻した瞳。もう、大丈夫だろう。
「お薬は確かにお届けしました。あとは皆様でよろしくお願いいたします」
「も、もうお帰りになられるのか?」
国王が名残惜しそうに、けれど怯えも隠せずに言う。
本音を言えば、是が非でも引き止めたい。だが魔王の前では、そんな我儘は命取りだ。
「明日も朝からお店を開けなければなりませんので」
シャーロットは柔らかく微笑んだ。
そう、私にはカフェがある。守るべき日常がある。
「それでは、失礼いたします」
もう一度、優雅に膝を折って礼をする。
そして――少しの躊躇いの後、差し出されたゼノヴィアスの手をそっと取った。
大きく、温かい手。
不器用だけれど、確かな想いが込められた手。
二人の影が、月明かりの中をゆっくりと遠ざかっていく。
残された人々は、ただ呆然とその後ろ姿を見送ることしかできなかった。




