32. 希望の光
ゆっくりと、まるで夜空を舞う巨大な影絵のように、ワイバーンが旋回を始めた。
バサッ――バサッ――。
翼が空を打つたび、凄まじい風圧が大地を撫でる。テントの布地が激しくはためき、地面の砂塵が舞い上がった。
「っ……!」
シャーロットは反射的に後ずさる。
それは、まるで山が空から降ってくるような――理性では理解できても、本能が震え上がる光景だった。月光を浴びた銀の鱗が、生きた宝石のように煌めいている。
ズゥゥゥゥン!
大地が呻いた。
着地の衝撃で石畳に亀裂が走り、土煙が夜闇に立ち込める。広場全体が、巨大な生き物の重みで沈み込んだかのようだった。
「ひぃっ!」
「な、なんだあれは!」
「魔物だ! 魔物が来たぞ!」
パニックになりかける人々。
だが――。
「落ち着け!」
ゼノヴィアスの一喝。
それは命令でも威嚇でもない。ただ、五百年の歳月が練り上げた、絶対的な安心感を与える響き。まるで嵐の海に立つ灯台のように、人々の心に一筋の光を灯した。
騒ぎが、潮が引くように収まっていく――――。
シャーロットは恐る恐る、ワイバーンを見上げた。
背中には、いくつもの木箱が丁寧に縛り付けられている。
しっかりと梱包され、「取扱注意」の文字まで書かれていた。
(ちゃんと……ちゃんと運んでくれたんだ)
胸が熱くなった。
「魔王様〜! お待たせしました〜!」
陽気な声が、感傷を破る。
ワイバーンの背中から、小さな人影がひょこひょこと現れる。月光を浴びて輝く白い髭、土のような素朴な顔立ち――ノームの老人だ。
「こちらでよろしいですかな?」
にこにこと手を振る姿は、まるで親戚のおじさんのよう。
「うむ、ご苦労」
ゼノヴィアスが手を挙げて応える。
「夜分に悪かったな」
「なんの、なんの! 魔王様の頼みとあらば!」
ノームたちが次々と降りてきて、慎重に木箱を下ろし始めた。
シャーロットも慌てて手伝いに入る。
「あ、お嬢さん、これは重いから……」
「大丈夫です! 私も手伝います!」
一緒に木箱を運びながら、若いノームの一人がぼそりと呟いた。
「……魔王様、本当にいいんですか? せっかくの薬を、人間なんかに……」
不満そうな声。
シャーロットの手が止まりかけた。
「何だと?」
ゼノヴィアスの瞳が、ギラリと赤く光った。
「文句でもあるのか?」
「い、いや! そういうわけでは……」
ノームは慌てて首を振った。
「ただ、その……せっかく作った薬を、敵に……」
「愚か者め……」
ゼノヴィアスは胸を張った。そして、シャーロットの肩に手を置く。
「この薬は、このシャーロットの発明なのだぞ?」
誇らしげな声音に、シャーロットの頬が熱くなった。
「へっ!?」
ノームたちの小さな目が、まん丸に見開かれた。
「こ、このお嬢さんが!?」
「発明というか……まぁ、頑張って作ったのは本当です」
シャーロットは照れくさそうに頭を掻いた。
前世の知識を使ったことへの後ろめたさはあるが、それでも必死に作ったのは事実だ。
「ほはぁ……」
白髭のノームが感嘆の声を上げた。
「確かに、青カビの周りは腐らんですな。でも、それを薬にしようっちゅうのは……」
首を振る。
「なんちゅうか、ぶっ飛んどりますな!」
慌てて付け加える。
「あ、いい意味でですぞ?」
「ありがとうございます」
シャーロットは微笑んだ。
「それで、この薬はもう使えるんですか?」
「もっちろんじゃ!」
ノームは胸を叩いた。
「ちゃんとレシピ通り精製して、品質検査も終わっとる! 魔界の技術の粋を集めた、最高品質じゃ!」
「おぉ……本当にありがとうございます!」
感極まったシャーロットは、思わずノームの皺だらけの手を両手で包み込んだ。
「一生懸命作ってくださって……みんなが助かります……本当に……」
声が震え、視界が滲んだ。
一人で作っていた時の孤独と恐怖。誰にも理解されず、ただ黙々と危険な作業を続けた日々。それが今、こうして多くの人の手によって受け継がれ、広がっていく。
「こ、これこれ」
ノームのおじいさんは照れたように頬を赤らめた。
「こ、こちらも発明者の方に喜ばれるなら本望ですわい」
照れ隠しに、ほっほっほと笑う。
「人間も魔族も関係ないですな。良いものは良い!」
その言葉に、シャーロットの目に涙が滲んだ。
かくして『天使様の薬』は、人と魔の垣根を越えて、病に苦しむ者たちの元へと運ばれていく。
それは後に語り継がれる、奇跡の物語だった――――。
◇
希望の光が、死の街に灯り始めた――その時。
「シャーロット殿ぉぉぉ!!」
夜の静寂を破る、必死の叫び声。
振り返ると――。
なんと、国王陛下が走ってくる。
しかも、作業服姿で。
王冠もマントもない、一人の老人として。
「こ、これは国王陛下……」
シャーロットは慌ててスカートの裾をつまみ、深々と礼をした。
周囲の者たちも慌てふためき、次々と膝をつく。ざわめきが波のように広がっていく。
「そんな挨拶などいい!」
国王は荒い息を整えながら、シャーロットの前に立つ。
間近で見るその顔は、疲労と絶望に深く刻まれていた。だが、瞳には――小さな、けれど確かな希望の光が宿っている。
「薬を……薬を持ってきてくれたんじゃな」
老いた目から、涙がこぼれた。
「ありがとう……ありがとう!」
国王は、シャーロットの両手を包み込むように握った。
皺だらけの手が、震えている。




