22. 我の名は
男はゆっくりと、スプーンを手に取る。
一口――――。
フードの奥で、小さく息を呑む音がした。
そして、昨日よりも落ち着いて、でも一口一口を大切に味わうように食べ始めた。
シャーロットは、その様子をそっと見守った。
ルカも、皿洗いの手を止めて、固唾を呑んで見つめている。
やがて――――。
「……美味い」
低い声が、静かに響いた。
たった一言。
でも、その言葉には昨日よりも深い何かが込められていた。
シャーロットの頬が、薔薇色に染まる。
「ふふっ。良かった」
窓の外では、夕陽が完全に沈もうとしている。
◇
空になった皿を前に、ゼノヴィアスは放心したように座っていた。
まるで、美しい夢から覚めたくない子供のように。
シャーロットは、そっと空になったグラスを手に取った――――。
グラスに注ぐ水の音が、静かな店内に心地よく響く。
「どうぞ」
優しく差し出されたグラスを、ゼノヴィアスはぶっきらぼうに手に取った。冷たい水が喉を通り、ようやく現実に戻ってきたようだ。
「カフェは……、あまり行かれないんですか?」
シャーロットが柔らかく尋ねる。
「こ、ここが……」
ゼノヴィアスの声が震えた。
「初めて……だ」
その告白に、シャーロットの目が優しく細められた。
「ふふっ、そうだったんですね」
彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「カフェって、いいところでしょう? これからカフェ巡りをされてもいいかもしれませんね」
明るく提案するシャーロットだったが――――。
「わが国には……カフェなどない」
低い声には、どこか寂しげな響きがあった。
「え?」
シャーロットは目を丸くした。
「カフェが……ない?」
「そうだ」
ゼノヴィアスは深くため息をついた。
「こんな洒落た文化など……我が国にはない。そういう……国なのだ」
言葉の端々に、何か複雑な感情が滲んでいる。
「ふぅん……」
シャーロットは首を傾げた。そして、無邪気に続けた。
「その国の王様は、何を考えているのでしょうね? こんな素敵な場所を作らないなんて……」
ブッ――――。
ゼノヴィアスが飲みかけていた水を吹き出しそうになった。
ゴホッゴホッ!
激しくむせる。
(まさに、その王が俺なのだが……)
だが、そんなことは言えるはずもない。それにどんな言葉も自分への批判にしかならない。五百年の治世で、カフェなど興味すら持たなかった自分への。
「だ、大丈夫ですか?」
シャーロットが心配そうに背中をさする。またしても、あの温かい手が。
「カ、カフェについて、ここで勉強させてもらおう……」
苦し紛れにゼノヴィアスは呟いた。
「ふふっ、ぜひ!」
シャーロットは満面の笑みを浮かべた。
「お国にも、カフェを広めてくださいね」
「あぁ……」
ゼノヴィアスは苦笑した。
魔王がカフェを作る。想像するだけで、部下たちの困惑した顔が目に浮かぶ。
でも――――。
(悪くない、かもしれない)
◇
やがて、ゼノヴィアスは立ち上がった。
今日も金貨を置こうとして、先払いしたことを思い出し――ふと、足を止めた。
「お、お前……」
振り返り、シャーロットを見つめる。
「何か欲しいものは、ないか?」
「シャーロットです」
「え……?」
ゼノヴィアスは戸惑った。
「『お前』じゃなくて」
シャーロットは少し頬を膨らませた。可愛らしい抗議の表情。
「私の名前は、シャーロット。覚えてくださいね?」
その瞬間、ゼノヴィアスの時が止まった。
シャーロット――――。
その名前が、深く深くゼノヴィアスの心に刻まれる。
「シャ……シャーロット……」
恐る恐る、その名を口にする。まるで、壊れやすい宝物を扱うように。
「いい……名だ」
心からの賛辞だった。ありふれた名前、でもなぜか美しい響きが心にしみてくる。
「ありがとうございます」
シャーロットは嬉しそうに微笑んだ。
そして――――。
「お客さんは?」
「え?」
「お客さんのお名前ですよぉ」
にっこりと笑いながら、シャーロットはゼノヴィアスを見上げる。
ゼノヴィアスは困った。
魔王ゼノヴィアス。その名を名乗れば、全てが終わる。この温かい時間も、この優しい笑顔も――――。
だが、偽りの名を告げることもできない。偽名を騙るなど魔王としてのプライドが許さないのだ。




