16. 眠れぬ夜
一人になった寝室でベッドに身体を任せ、ゼノヴィアスは天蓋を見上げた。
魔法で描かれた星空が、幻想的にきらめいている。だが、それも今は虚しく感じてしまう。
(一体、この気持ちは何なのだ?)
胸の奥で、何かがうずいている。
名前のつけられない、不思議な感覚。
五百年の人生で、戦いに勝利した時の高揚も、敗北の屈辱も、裏切りの怒りも、全て経験してきた。
だが、これは違う。
もっと温かくて、もっと優しくて、もっと――恐ろしい。
ゼノヴィアスはガバッと立ち上がり、ブランデーの瓶を手に取った。
バルコニーへ出ると眼下に広がる魔界の風景。魔の闇に包まれた大地。所々に灯る魔族たちの明かり。
空を見上げれば、厚い雲の間から時折、青白い月が顔を覗かせる。
ふぅ……。
気持ちの良い夜風に吹かれながらワインを一口――――。
百年物の極上の味が口に広がる。だが、やはり心は満たされない。
(あの娘は、今頃何をしているだろう)
ふと、そんな考えが頭をよぎった。
きっと後片付けをして、明日の準備をして――、もう眠ったころだろうか?
「『また来る』か……」
自分で言った言葉を思い出す。
なぜ、あんなことを言ったのか。金貨一枚で何度も通うなど、魔王の威厳も何もあったものではない。
だが――――。
(行きたい)
その思いだけは、否定できなかった。
もう一度、あの温かい場所へ。
あの優しい笑顔に会いに。
あの、心に響く料理を食べに。
風が吹き、雲が流れる。
月が完全に姿を現した。満月まであと数日といったところか。
その白い光を浴びながら、ゼノヴィアスは杯を傾け続けた。
いつもなら、一口で眠りに落ちる強い酒も、今夜は全く効かない。
代わりに、頭の中で何度も何度も、同じ光景が繰り返される。
――「大丈夫ですか?」と駆け寄ってくるブラウンの瞳。
――背中をさする、小さくて温かい手。
――「ゆっくり、味わってくださいね」という優しい声。
気がつけば、月が高く上っていた。
五百年生きてきて、眠れぬ夜を過ごしたのは何度目だろう。
戦いの前夜、謀略の最中、大切な者を失った時――――。
だが、今宵のような理由は初めてだった。
「たかが人間の小娘に……この我が?」
ゼノヴィアスはブランデーの水面に映る月を眺め――首を振る。
(明日も、行かねばならない。このもやもやの正体を確かめねば……)
魔王としての威厳も、五百年の経験も、全てを忘れさせる何かが、あの小さなカフェにはある。
それが何なのか、まだ分からない。
分からないからこそ確かめに行かなければならない。
何度でも――――。
◇
その頃、王都では――――。
朝靄が血のように赤く染まる中、鐘楼から響く音が人々の魂を凍らせていた。
ゴーン……ゴーン……ゴーン……。
弔いの鐘。
もはや数えることさえ諦めた。朝から晩まで、鐘は鳴り続けている。まるで、王都全体が巨大な葬儀場と化したかのように。
「……また、増えたか」
王城の執務室。国王陛下は、老いた手で報告書を持ち上げた。かつては威厳に満ちていたその手が、今は枯れ枝のように震えている。
――本日の新規患者数、三千二百名。死者、八百七十三名。
羊皮紙に記された数字を見つめる国王の瞳から、一筋の涙がこぼれた。これは単なる数字ではない。一人一人が、誰かの父であり、母であり、子供だったのだ。
「陛下」
近衛騎士団長が、まるで処刑台に上るような重い足取りで前に出た。
「市街地の……封鎖を進言いたします」
国王の肩がびくりと震えた。
「封鎖だと? それでは、中にいる民は……」
「見殺しに……するしかありません」
騎士団長の声が震えた。彼もまた、その市街地に家族を残している。
「これ以上の感染拡大を防ぐには、もはや――」
「却下だ!」
国王の拳が、年代物の樫の机を打った。衝撃で、インク壺が倒れ、黒い染みが報告書に広がっていく。まるで、王都を蝕む病のように。
窓の外に目をやれば、そこには死の風景が広がっていた。
かつて「黄金の大通り」と呼ばれた目抜き通りには今や誰もいない。
時折、白い布で顔を覆った者が、軋む車輪の音を立てながら通り過ぎる。荷台に積まれた何かを、誰も見ようとしない。
(我が王都が……腐っていく)
国王は唇を噛んだ。鉄錆の味が口に広がる。
「聖女様は……?」
「治療を続けておられますが……」
騎士団長の言葉が、まるで毒を飲み込むように途切れた。
聖女リリアナ。その神聖魔法は確かに病を癒す。だが、一日に数十人が限界。新たに倒れる者は数千人。
大火事にスプーン一杯の水――いや、燃え盛る地獄に、涙を一滴落とすようなものだった。