11. 【OPEN】
開店初日の朝、シャーロットは一番奥のテーブル席にそっと腰を下ろした。
朝日がレースのカーテンを透かして店内に降り注ぐ。その光の粒子一つ一つが、まるで祝福の花びらのように感じられる。磨き上げたグラスが虹色に輝き、真新しいテーブルクロスは雪のように白く、黒板に丁寧に書いた文字が希望に躍っていた。
全てが整っている。
だが――――。
(誰も来なかったら、どうしよう)
胸の奥で小さな不安が羽ばたく。王都では、良くも悪くも「公爵令嬢」という看板があった。でも今の私は、ただの無名のカフェ店主。すでにいくつもカフェはあるのだ。そんな中でこの町の人々に受け入れてもらえるだろうか――――。
「大丈夫」
シャーロットは両手を握りしめ、深呼吸をした。手のひらに、かすかに震えを感じる。
「きっと、大丈夫」
立ち上がると、エプロンの紐をきゅっと結び直した。これは戦いの準備、戦闘ではなく優しい戦いの――――。
厨房に立つと、既に仕込んでおいたスープが小さく歌を歌い始めていた。コトコト、コトコト。まるで「頑張って」と励ましてくれているよう。オーブンからは焼きたてパンの香ばしい匂いが立ち上り、店内を幸せの予感で満たしていく。
「よし!」
シャーロットは勢いよく振り返ると、入口へと向かった。
扉にかかった木札を手に取る。【CLOSED】の文字が朝日を受けて光っていた。
これをひっくり返せば、新しい人生が始まる――――。
期待と不安が入り混じる中、シャーロットは意を決して札を裏返した。
【OPEN】
その瞬間、世界が少し明るくなったような気がした。
◇
一時間が過ぎた――――。
カウンターの向こうで、シャーロットは姿勢を正したまま待ち続ける。ドアベルは沈黙を守り、窓の外を人々が素通りしていく。
二時間が過ぎた――――。
スープの歌声だけが店内に響く。焼きたてのパンが少しずつ冷めていく。
(マルタさんたちも急用だって言ってたし……仕方ないわよね)
自分に言い聞かせながら、シャーロットは笑顔を保とうとした。でも、誰もいない店内で一人待つ時間は、想像以上に心を蝕んでいく。
看板を見上げて立ち止まる人はいる。でも、扉を開ける人はいない。
(やっぱり、夢見すぎだったのかしら)
肩を落としかけたその時――――。
「ねえ、すっごくいい匂い!」
子供の声がした。
シャーロットが顔を上げると、窓の外に小さな影が二つ。
「ダメよ、トム。お金ないでしょ」
姉らしき少女が弟の手を引こうとしている。でも、トムと呼ばれた男の子は、窓ガラスに顔をぺったりとくっつけて、憧れの眼差しで店内を見つめていた。
二人とも継ぎはぎだらけの服。でも、その瞳は宝石のように輝いている。
シャーロットの心に、温かいものが広がった。
(この子たちが、私の最初のお客様だわ)
扉を開けると、ドアベルが初めて澄んだ音を響かせた。チリンチリン――――。
「いらっしゃいませ、坊や」
シャーロットが微笑みかけると、姉が真っ青になって弟をかばうように立った。
「す、すみません! 弟が勝手に……お金は持ってなくて……」
「あら、ちょうど良かった」
シャーロットはニコッと笑った。
「実は今日、開店記念の無料サービスをする予定だったの。でも、誰も来てくれなくて困ってたのよ」
「え?」
「最初のお客様は特別なの。だからーー」
シャーロットはトムの前にしゃがみ込んで、にっこりと目線を合わせた。
「美味しく食べてくれる? それが一番のお礼になるの」
トムの顔がぱあっと輝いた。
「うん! いっぱい食べる!」
「ふふっ、じゃあ二名様、ご案内しまーす!」
シャーロットは大げさに腕を振って、姉弟を店内へと導いた。まるで、王宮の晩餐会に招待するように――――。
厨房に立つと、不思議と体が軽い。さっきまでの不安はどこかへ消えて、代わりに使命感が胸を満たしていく。
フライパンが歌い、卵が踊る。チキンライスは黄金色に輝き、とろけるチーズは銀の糸を紡ぐ。
最後にケチャップでニッコリ笑顔を描き上げた――――。
「お待たせしました!」
皿を置いた瞬間、姉弟は同時に息を呑んだ。
ふわふわの黄色いドレスを纏ったオムライス。真っ赤なケチャップの笑顔。立ち上る湯気が、まるで幸せの精霊のよう。
「わあああ!」
トムが歓声を上げた。姉も初めて見る料理に目を輝かせている。
「いただきます!」
スプーンが卵に触れると、中からとろとろの黄身が溢れ出した。一口――――。
「すっごく美味しい! お姉ちゃん、これすっごく美味しいよ!」
トムが全身で喜びを表現する。姉も恐る恐る口に運び――――。
「あ……」
その瞬間、少女の瞳から一粒の涙がこぼれた。
「美味しい……こんなに美味しいもの、生まれて初めて……」
シャーロットの胸が熱くなった。
(ああ、これだ)
これこそが、私が本当に作りたかったもの。心を救う何か。幸せの記憶を作る、魔法の一皿――――。
「ごちそうさまでした!」
空っぽの皿を前に、姉弟は満面の笑みで頭を下げた。