01 うさぎ柄のラブレター
【Side・宇佐見空】
1
それは忘れもしない、七月中旬の、ある蒸し暑い夕方のことだった。
普通に部屋にいただけなのに、急に胸が苦しくなって、息ができなくなった。
おかしいと思った私は、キッチンでカレーを作っていた母に助けを求め、付き添ってもらい、その時はじめて病院を訪れた。
病院に着く頃には息苦しさはだいぶ治まっていて、ああ、またいつものだな、とぼんやり思うだけだった。
母はそんな私を見て、きっと熱中症よ、と楽観視していた。少なくともこのときは。だから、私もそう思うことにした。
検査結果が出るまでの間、母とは笑い合いながら、母のパート先の、困ったおばちゃんの話とかしてた。
しばらく待ってから、まず、母だけが中に呼ばれた。その後、少し間があって私も呼ばれ、診察室に入る。
診察室は病院独特の匂いがした。消毒液の匂いだ。
若干不快な、鼻腔をくすぐるその匂いに、私はなにか不幸の予感めいたものを感じずにはいられなかった。
もうすぐ夏休みが始まるんだと、級友たちはみんなが浮かれていた。
無論、来年には受験生だから、勉強も頑張らなくてはいけないけれど。
それでもやっぱり、休みというものは嬉しい……そんな中での出来事だった。
蝉がうるさく鳴き始め、汗を拭うことすら面倒になってきた季節。本格的な、夏の始まりだというのに──。
その瞬間はまさに、身体が芯から冷え込むような感覚だった。
張り詰めた、重苦しい空気。何かがおかしい。母の様子がおかしい。
ただの女子高生である私に告げられたのは、あまりにも冷酷非情な、突然の余命宣告だった。
──「空さんの心臓は極端に衰弱しています。非常に申し上げにくいことなのですが……移植手術を受けなければ、もってあと、三ヶ月の命でしょう」
「……そうですか、わかりました」
冷静沈着に、そう淡々と返事をした私に、母はその場で泣き崩れ、医者に詰め寄った。
まくし立てるようなその口調と表情には、その医者に対する敵意のようなものすら感じられた。
母にしてみれば、ついさっきまで普段と変わらず談笑していた自分の娘に、突然突き付けられた残酷な運命が、なにより憎かったし、そして怖かったのだろう。
当然すぐに受け入れられるわけもないが、残酷な運命とは、総じてそういうものだ、とも思った。ある日、予期せず突然やってくる。例えるならば、フワフワと宙に浮かんでいたシャボン玉が、一気に弾けて消えるように。
かなり前から、気になる身体の異常は感じていたのだ。それを限界まで黙っていた私が悪い。
今思えば、急に胸が締め付けられるように苦しくなるのも。走ってもいないのに動悸や息切れがするのも、何故か冷や汗をかくのも、突然急速になる脈も。
それらはすべて症状だったのだろう。そう合点がいくと、自分でも不思議なくらいすんなり病気を受け入れられた。
父も母も、弟も、家族はみんな泣いた。なんで自分の家族なの、って。どうして私が、こんな目に遭うのって。
なんだ、これは。一体なんの罰ゲームなんですか神様。
あれか。母が用意してくれたシュークリームや菓子パンといった類の弟のおやつを、毎度のことのように盗んで食べていたからか。弟が呆れるレベルで頻繁に盗み食いをして、最早常習犯と化していたからなのか。
それとも、一家の大黒柱である父の洗濯物と一緒に洗濯しないでって言って、その繊細なオヤジ心を傷つけたからなのか。いやオヤジ心ってなんだ。
なんにせよ、私、まだ十七歳なんですけど。
花も恥じらううら若き乙女。好きな人とキスはおろか、デートさえも経験していない。そんな乙女の命が散り去るには、ちょっと……いやかなり、めちゃくちゃ早すぎるんじゃないでしょうか。
──ねぇ、神様? そこのところは、どうお考えですか。
2
心臓移植外科手術は、日本ではドナーが足りず、海外で受けるのが一般的だそうだ。けれど、私に告げられた余命はもってあと三ヶ月。今から準備したんじゃ到底、間に合うわけがない。
絶望に包まれるリビングをあとにし、自室に戻って一人になって色々考えたのちに。
私がまず行動したのは、ラブレターを書くことだった。
白いレースのウサギの便箋に、綺麗な水色のガラスペン。丁寧な字で綴ったそれは。
『ずっと好きでした。私と付き合ってください 二年一組 宇佐見空』
まさに、シンプル・イズ・ベスト。無駄なことは省いて至極ストレートに。長文を書こうとしようものなら、きっと私のことだ。いらんこと書いて墓穴を掘ってしまうに違いない。こういうのはきっと、あれこれひねって書くものじゃあないのだ。
『付き合ってください』だなんて、もうすぐ死んじゃう私が書くべきじゃないのもわかってる。
けれど。でも。だけど。
きっとこれが最後の恋になるからと、少しくらいのワガママも通らないなんて酷すぎる、と。そう自分に言い聞かせている、幼すぎる私がいる。
私の想い人──高等部の王子様、橋坂壮太先輩に、この恋心は伝わるのだろうか。
3
そうこうしているうちに、土曜日と日曜日があっという間に過ぎ去り、月曜日になった。
つまり余命宣告を受けた日は金曜日だったのだ。私は金曜日を一生嫌いだろう。一生といっても、もうあと少しで終わってしまう話だが。
このネクタイがお洒落で、入学当初からなかなか気に入っているブレザーの制服を着るのも、あと何回になるだろうか。
朝、なにげなく鏡に映る自分を見て、そう思った。
「おはよう。空。……やっぱり、学校に行くのか?」
「おはよう、お父さん。うん、行ってくるね」
洗面所で髪をポニーテールに結っているとき、父がそう言って私に話しかけてきた。その目元には隈ができていて、私が父の人生から早々に退場していくことについて、父なりに苦悩したのだなと察した。
親は大変だ。子どもが余命宣告されたというのに、日常を放棄することも許されず、こうして普通に仕事に行かなければならないのだから。それに、子供は私だけじゃなくて、弟もいる。そんな両親より先に死んでしまうだなんて、私は本当の親不孝者だ。
4
入院は、しないことにした。そんなのいけないと、病院で安静にしていなさいと、家族には全力で止められたけど。私は私で、私の意思を全力で伝えた。最後まで、普通に暮らしたい、と。普通に友達と笑い合って、普通に授業を受けて、普通にお弁当を食べたい。
家族には言ってないけれど、人生最後の恋をしてみたい。最初は説得に苦労した。
『お父さん、お母さん。私、これからのことをちゃんと考えたの。そんなに早く一体なにを考えたのって感じかもしれないけど、自分の人生の責任を、自分で取りたいってこと。私は、病気になってしまったからって、余命宣告をされたからって、自分のことを不幸な女の子だなんて思わない。ううん、むしろ、今までとっても素敵な思い出ばかりで、恵まれてた人生だったって感謝してる』
父と母は、「でも」と、苦い表情をして、お互いに顔を見合わせている。それでも構わずに、私は必死で言葉を繋げた。まだ子供すぎる私が精一杯出した答えを──自分の想いを伝えるために。
『私は、入院しなかったからといって、それで自分の寿命が少し縮もうが、経験し得たかもしれない素敵な思い出の数が減る方が嫌なの。だから、入院はしない。こんなこと言って、困らせてしまって、本当にごめんなさい』
そんな私の固い決意が通じたのか、最終的には私はこれまでと変わらず普通に学校に通うことを認めてもらえた。学校にいる間、もし病気の症状があらわれてしんどくなったらすぐに言うのよと、両親から保健室の先生と担任に事情説明と、処方された薬をきちんと飲むこと、という条件付きで。
5
そして今に至る。そう、今だ。普通に学校に登校した月曜日の、朝七時十五分。運動部以外の生徒はまだ誰も登校していない。私の踏んだ通りだ。
いつも朝は限界まで寝て、遅刻ギリギリの私がこんなにも早く登校したのには理由がある。もちろん、昨日書いたばかりのラブレターを、橋坂先輩の靴箱に入れるためだ。
シュババババ、と、忍者のように高速で校門から靴箱まで移動すると、お目当ての先輩の靴箱を見つける。
先輩の苗字は、橋坂だから……。うん、確かにここだな。
行って来い、そして善戦しろ。私の恋心。
──カタン。
靴箱がゆっくりと閉まる音。私はその場で、ふう、と小さく息をついた。
勇気を出したおかげか、無事に誰にも見られることなく、私の今日の一大ミッションを完遂することができた。ほんと、これだけでやり遂げたって感じだ。靴箱の前で胸に手を当て、再度息をついていたとき。
ふと、私の目の前に、一人の男子生徒が現れた。
この男子生徒は知っている。同じクラスだからだ。それはわかる。それはわかるけれど、なぜ三年生の靴箱に? ──はっ、もしかして! 私がラブレターを入れるところを、見られていた? 知っていて、素知らぬ顔をしているだけなんじゃないか。
私があれこれ逡巡していると、こともあろうかその男子生徒は、確かに『橋坂』と書かれたネームプレートがついた先輩の靴箱を迷いなく開けた。
な、なななななっ……!
私は固まってしまった。どうして? どうしてあなたが、先輩の靴箱を開けるのデスカ!?
私もとっさには動けなくて、その様子をただ口をあんぐり開けて見ているだけ。まさか腕ずくで奪い返すこともできない。
その男子生徒は私のラブレターに気づくと、一瞬固まった。けれどその場で即座に封を開けた。
彼は私の横で、それを読む。
──『ずっと好きでした。私と付き合ってください 二年一組 宇佐見空』
「────………えっ。宇佐見さんって……俺のこと……好き、なの?」
自分の胸を指差して、そう私に問いかける彼。
どぅぉおええええええええい!
私は発狂した。心のなかで。それはもうものすごい大声で。たぶん、表情にも出ていたことだろう。
ラブレター入れる靴箱、間違えたあああっ! ここは二年生の靴箱だよ! 先輩は三年生だから、もう一列となり!
ああんもう、私の馬鹿……。ついいつもの癖で、自分の学年の靴箱に来ていたみたい……。
自分のうっかりさ加減に、ほとほと嫌気が差す。
私が昨夜書いたラブレターを手にして固まっているのは、授業中には必ず発言することで有名な同じクラスの、THE・真面目系男子。
橋坂輝基くんだ。
成績学年トップの優等生、且つ、塩顔のイケメンとして女子たちから密かに人気があるのを私は知っている。部活は確か、サッカーをやっていたはずだ。
けれど私は先輩一筋だったから、そこのところは言うまでもなく、私にとって橋坂くんはただのクラスメイトの一人に過ぎなかった。
──そう。少なくとも、このときは。
──「いや……あのね。そのラブレターは、橋坂くん宛じゃなくて、先輩に向けて書いたもので……」
誤解を解くこの一言が、どうしても言えない。だって。だってだってだって。
橋坂くんの目が、これ以上ないくらいにキラキラしはじめたからだ。爛々と。それはもう光るを通り越して、輝くように。
「俺ら、両想いじゃん!」
橋坂くんに、ぎゅうっと強く、胸の前で両手を握られる。
ああ、やっぱりそうきたか。ここまでストレートに気持ちを伝えられると、恋愛経験がほとんどない私でも、さすがにわかる。
橋坂くんって、私のこと、こんなに好きだったんだ。
知らなかった。ただのクラスメイトだと思っていたのは、私だけだったんだ。
でもね。私、あと三ヶ月で死んじゃうんだよ。
「ととと、とりあえず今日から、俺と一緒に登下校しよう。宇佐見さんのこと、もっと知りたいし」
「う、うん……いいよ」
「……あっ! でも、別れ際とかほんと、何もしないから安心して! 無理矢理抱き寄せてチューとか絶対しないから! 俺、そんなケダモノじゃないからね!?」
「そんなこと私もまだ考えてもいないよ」
「ああああでもっ! 付き合い長くなるとそういうことも視野に入れて登下校しないとだよな!? どうしよう、俺。ずっと好きだった宇佐見さんと親しくなるにつれ、きっと増すであろう愛おしさに我慢できるのか……!? 理性がバクハツする気しかしねーんだけど!」
「落ち着いて橋坂くん」
「好きだ、宇佐見さん」
「シンプルだね」
ぷっ、と、どちらからともなく二人で吹き出した。
朝の昇降口で、二人、あははと笑い合う。
あれ、意外と面白いな。橋坂くんは。
私が好きな、クールな橋坂先輩とは大違いかも。
6
「で? それで付き合うことになったの? 橋坂輝基くんと」
帰り道。空がオレンジと群青の入り混じった綺麗なプリズムに染まる頃。
私の隣でそう言ってニヤニヤするのは、私の幼なじみで親友の、伊坂マリエだ。
マリエには、私が夏休み、余命宣告を受けたことも話している。
電話の向こうでワンワン泣かれて、ちょっと戸惑ってしまったのが半分。
そしてその気持ちと同時に、こんな親友ができたのなら、私の人生あながち間違っていなかったのかもしれないとも思った。
自分のことをここまで想ってくれる親友に恵まれるだなんて、ありがたいことこの上なしだ。
「付き合う……のかな。よくわかんない。なんか、勢いにおされちゃったって感じ」
少し照れた私がそう言うと、マリエは私に人差し指を突きつけて、こう言った。
「もうこの際だから言うけどさ~。橋坂くん、授業中とかめっちゃ、空のこと見てたよ。あの表情はたぶん誰が見ても、惚れてるなってわかるくらい」
「えぇえっ!?」
私は思わず口元をおさえた。そして赤面する。
あ、あの成績優秀な橋坂くんが、授業もそっちのけで、私のことを見ていた……!? そしてそれにまったく気づいていなかった私は、どこまで鈍感なんだ。
マリエは少し呆れた様子で、こう言った。
「まっ。空の橋坂先輩への想いが、段々と橋坂くんの方に向いていくようなら。クラスメイトとして、全力で応援して差し上げますわ」
「親友として、じゃないんだ」
あんなに泣いてたくせに~! と、親友をからかうと、彼女は少し怒ったように、それから一転、また泣きそうな表情をした。