十一
そう、確か小五位だった。小六かも。兎に角その位の齢の頃、都子は突然変な能力に目覚めた。如何も説明が難しいのだが、その場の空気を変えるとでも云うのか、空気どころか音や臭いを出したり消したり、明るさを変えたり、背景色を変えたり、温度を変えたり、霧を出したり、時間の流れ方を変えたり、離れた二地点を繋げたり……佑香は消す方ばかり覚えている様だが、兎に角そう云う、何だかスーパー舞台演出みたいなことが、考えただけで現実になる。そんな変な、超能力の様なモノに目覚めて仕舞ったのだ。
最初は何だったか。そう、佑香が絡んで来るのだ。家が近所で、物心付いた頃からずっと一緒に遊んで来た腐れ縁、それが佑香だ。人当たりが良くて、ノリが良くて、見た目も可愛らしいので、誰とでも直ぐ打ち解けて仕舞う。そんな佑香がその頃連るんでいた友人達と云うのが、クラスのいじめっ子グループで、勢い佑香も彼女等のいじめに加担することになっていた。その頃の都子は、否その頃既にと云う可きか、周りとは上手く打ち解けられず、孤立し勝ちだった。とは云え、いじめのターゲットになることもなかった。常に近寄り難い雰囲気を醸していて、いじめっ子達でさえ一歩退いて仕舞う様な、そんな子供だった。長めの真っ黒な前髪を下ろしていて、それが鬱陶しくて目付きが悪くなり勝ちなのも、他人を寄せ付けない原因になっていたかも知れない。
そんな状態だったからこそ、都子は佑香がそんなことに関わっているなんて知らなかった。都子の前での佑香は、いつもと全く変わりが無かったのだ。悪い友達と悪い遊びに興じているなんて思いも寄らなかった。
都子はそのことを、突然の匿名告発によって知ることとなる。
夏休み前の或る昼休み、自分の机に突っ伏してうつらうつらしていたら、顔の下に何かが差し込まれた。寝惚け眼で確認してみると、それは級友の国語の教科書だった。名前の所がマジックで塗り潰されて、「アホ子」と書かれている。表紙にも愚にもつかない落書きがぎっしりと描かれていて、元のデザインが全く分からない程である。
「なんじゃこりゃ!」
都子はそう吼えると、ガタンと音立てゝ立ち上がり、その教科書を持って教室から出て行った。どこかで小さく「あっ」と声を漏らす者がいたが、都子は気付かなかった。
図工室へ行き、準備室のドアを叩くと、図工の先生が出て来る。この先生はいつでもここにいる。
「お? 天現寺か、珍しいやん。どないした?」
「シンナー貸してください」
「なんやと? アンパンでもする気か」
アンパンと云えばシンナーを吸入する、八十年代位の不良達の遊びだが、都子は意味が解らず小首を傾げて、もう一度云った。
「シンナー貸してください」
先生は通じなかったセンスのない冗談は無かったことにして、「中で待っとき」と云うと、都子を招き入れてドアを閉めた。そして教卓の上に並んでいる瓶の中から一つを選んで持って来ると、「なんに使うか教えて」と訊いた。
都子は無言で、級友の教科書を差し出した。先生は眼を瞠り、
「お前のんか?」
「いや。多分小夜ちゃんのや」
名前の欄なんか殆ど塗り潰されていて、姓も名も判らなかったが、微かに鍋蓋と、その下に夕らしきものが見えたので、「夜」かなと思った。「夜」が名前にあると云えば、何時だか名簿かなんかを見た時に目に留まった「小夜子」と云う名前が、綺麗だなと思ったのでなんとなく覚えていたのを思い出した。どこかで「小夜ちゃん」と呼ばれているのを聞いた気もする。なので、そう答えた。
「小田か。そうかもな。――ちょい貸して」
先生は教科書を机に置くと、授業用のタブレットで写真を撮った。裏と表を撮影し、中をぱらぱらと捲る。
「ふん、中迄は遣っとらんか。――なあ天現寺、これ誰が遣ったか判るか?」
「知らんねん。寝とったら急に顔の下に入れられた」
「寝とったんか。まあ昼休みならえゝけど……」
そして先生は窓を全開にしてから、ティッシュにシンナーを染み込ませて、教科書の裏表を拭き始めた。
「いや、先生、うちが遣る。シンナー貸してって云うたやん」
「なんでや。お前犯人とちゃうやん。関係無いやろ」
「それ云うたら先生も関係あらへん」
「先生は常に関係あるねん」
「担任ちゃうやん」
「担任ちゃうくてもや」
結局二人で交互に拭いた。二人の頑張りで落書きは略落ちた。ビニールコーティングの御蔭で表紙のデザインやイラスト等はその儘残ったが、なんとなく全体に白く霞んで仕舞った。裏表紙の名前欄は真っ新になって仕舞ったので、先生が丁寧に名前を書き直した。
「これは先生から小田に返しとくわ。次の国語の授業は何時間目や?」
「もう終わっとぉ。四時間目やってん」
「そうか……」
都子が教室に戻ると、矢鱈と視線を感じた。ぐるりと見渡してみると、眼を伏せたり逸らせたりしている者達の中で、なんだか佑香だけが微妙な表情で都子を見ていた。
「なんや」
都子が問うが、佑香は結局眼を逸らせた。気にせず自席へ戻ったところで、数人の名前もうろ覚えな級友達に囲まれた。
「天現寺さん、あれ、どないしたん」
「あれ――とは?」
「小田の教科書やん」
「なんで?」
「どっか持ってったやろ」
囲んだ級友達が次々に問い掛けて来る。都子は何だか面倒臭くなって来た。
「あれ――君等が遣ったんか」
「えっ――な、んのこと」
「こっちこそ、何のこと、や。君ら何の為にうちを取り囲んどんねん」
「なんの――ためって――ねぇ」
「そんなん――知らんし」
級友達はお互いを見遣りながら、如何にも奇怪しな態度を取り続ける。
「関係ないなら――往ねや」
「い――いねってなに」
「どっか行けゆうとん!」
「ひぃ!」
取り囲んでいた者達は散り散りに逃げて行った。唯一人、佑香が残っていた。
「何やねんな、邪魔臭い」
「都子――」
「せやから何?」
「あ――あたし――」
都子の苛々が再度爆発しそうになった時、いじめっ子の主犯格の様な立ち位置の娘が都子の正面に立った。
「何余計なことしてくれとん」
「はぁ?」
都子が顔を下に向けた儘上目遣いでじろりと睨むと、相手は一歩後退った。天然なのか抜いているのか、非常に色素の薄い茶色い髪を長く伸ばし、頭頂部で器用に編み込んでその儘ツインテールへと流している。めんどくさい奴は大抵ツインテールだ、と根拠も何もなく、都子は勝手な感想を抱いた。
「あっ――あんたなんか、怖くないねんから」
震え声で猶も噛み付いて来る。兎に角苛々が止まらなかった。腹が立つとか、正義感と云う様なものでもなく、なんとなく唯々気に食わなかった。唯々面倒臭くて、鬱陶しかった。その時、周りの景色が霞んで来ていたのだが、誰一人そのことに気付いていなかった。
「都子、あたしが悪いねん。あたし、もう沙梨との友達やめる」
「はぁ!? ちょっと佑香、あんた何云うとん!」
沙梨と呼ばれた娘は、今度は佑香に食って掛かった。都子は益々苛々して、周囲の景色は益々溶けて行った。背景は黒くなって行き、明るさは次第に落ちて行く。
先ず沙梨が気付いた。
「えっ――なにこれ」
佑香も周囲を見渡した。
「は? 何でこんな暗いの? 未だお昼休みだよね――え、皆は?」
そこは三人だけの世界になっていた。真ん中で座っている都子が顔を挙げる。都子の机と椅子だけ残して、他の机も椅子もロッカーも、壁も天井も、床さえも無くなっていた。
「み、みやこ、何これ、怖い!」
佑香は都子に縋りつく。沙梨は真っ蒼な顔で、その場に固まって細かく震えている。
「あぁ……なんやこれ……えゝと……」
都子の顔から苛々が少しだけ消えた。明るさが戻り、背景も稍明度を上げて灰色になる。
「はぁん?」
背景が薄黄色になり、水色になり、ピンクに変わる。
「はは、何やこれ、楽しい」
都子は笑顔になっていた。他の二人は相変わらず恐怖を貼り付かせた顔で、片や都子にしがみ付き、片やその場で立ち尽くしている。
「みっ、みやこ? 都子なん? これ、都子がしとんの?」
「うちが何するゆうねん」
「え……だって……」
「思った通りの色に変わりよるねん、楽しいわぁ」
「ほら矢っ張り! 都子やん!」
「えゝ?」
相変わらず都子はピンと来ていない様な顔をする。自分が作り出した空間だと云う自覚が無いのだ。
二人の遣り取りに刺激されたか、沙梨が我を取り戻した。
「こっ――これは何? 天現寺さん、何かの嫌がらせ?」
「なんでよ。うちがなんで君に嫌がらせすんねん」
また世界が少しだけ暗くなった。
「あたしが小田虐めたから、仕返しか何かン心算? てかこれ、何を如何遣って――」
「はぁ、君が虐めとったん」
「あっ――いやそんなこと、最初から判っとったんちゃうん!」
「知らんがな。興味も無いわ。唯、教科書勿体なって思っただけや」
沙梨はギリギリと歯軋りした。
佑香は都子にしがみ付いた儘、「都子ごめーん! あたしもう教科書虐めない! 物大事にするから!」と謝る。
「判ればえゝねん」
「はあ? 何それ!」
沙梨は完全に肩透かしを食らって、吼えるしか無かった。
「小田さん虐めんなとか、そう云うのんちゃうん!?」
「別に。小夜ちゃんのこと略識らんし。てか気になっとんなら謝ってきぃや」
「きっ、気になんか! あほか!」
「アホは君やん」
「はぁあ!?」
「君な、先刻から何やねん、うだうだぐだぐだうだうだぐだぐだ」
うだうだぐだぐだ、と都子は三十秒ばかりずっと繰り返して、
「――えゝ加減にさらせや邪魔臭い! 結局何が云いたいん? 何したいん? 判然モノ云えやこンの、愚図プリ!」
「ぐずぷり?」佑香が不思議そうに訊き返した。
「愚図のプリンセス、愚図プリ」
「なんそれ!」佑香がゲラゲラ笑うので、都子も一緒に笑った。沙梨だけ、顔を真っ赤にして震えていた。
「てっ……天現寺さん、あたしのこと莫迦にしとん?」
「はぁ、莫迦にする程の興味も無いわ」
「なっ……!」
「君大概にしんと、地獄ン落とすど」
「は?」
その瞬間、沙梨の足元に真っ黒な円が広がり、それがじわじわと広がりながら迫り上がって来ると共に、ドラム缶でも転がすかの様な低くて厚い轟音が地の底から湧き上がって来て、沙梨を包み込む。沙梨は殆ど発狂寸前の様な状態で、「厭! 嫌だ! 御免なさい! あたしが悪かったです! ごめんなさい! 済みません! やだやめてぇ! 厭あぁぁ!」と泣き叫んだ。
「うわあ、酷いなこれは」
都子がそう云うと、黒い穴も轟音もぴたりと止んだ。
「えっ、今のも都子?」佑香が表情を失くして都子に確認する。
「その様で。何でしょね、これ」
「あんた、なんか、悪魔と契約でもした?」
「いやぁ? してへんと思うけどなぁ……」
「何でそこあやふややねん」
二人の惚けた遣り取りを前にして、沙梨は顔を涙でぐちゃぐちゃにした状態でへたり込んで、肩を震わせながら洟を啜り上げている。
「ほんでこれ、如何遣ったら抜けられるんかな」
「えっ、都子マジで云うとる?」
「わりかし」
「厭やで、こんなところで人生終わりとぉない」
「んな大げさな……」
沙梨は二人を青い顔で見上げて、
「天現寺さん、平野さん……あたしもう、小田さん虐めないから。他の誰も、もう虐めないから。だ、だから許して。――小田さんにもちゃんと謝るから。ここから、出して……お願いぃぃ」
最後の方は泣き声に変わって仕舞った。都子と佑香は顔を見合わせて、都子は鳥渡困った表情をした。
「うーん……これほんま、うちか? うちがしたことなんか?」
そんな様な事をぶつぶつ云っていると、少しずつ教室の風景が戻って来て、昼休みの喧騒も徐々に聞こえる様になった。
「おお、帰れた」
「都子、良かったぁ」
佑香がぎゅうとハグして来るので、都子は困惑して、佑香の肩をポンポンと叩いた。教室の時計を見たら、三分位しか経っていなかった。
「ふうん? なんやこれ……」
体感では二、三十分ぐらいはあった様な気がする。流石に三分ってのは短すぎる。それでも昼休みや五時間目の授業を潰して仕舞わないで良かったと、その時はそう思っただけだった。
その日の放課後、沙梨が小田小夜子に謝っていた。小夜子は綺麗になった教科書を抱き締めて、なんだか困った顔をしていた。都子が自分の席で脱力しながら、何となく見ていたら、佑香がその場ヘ駆け寄って、沙梨と並んで頭を下げた。すると、昼に都子を囲んでいた生徒達も次々集まって来て、皆で頭を下げるものだから、小夜子は却って怯えて俯いて仕舞い、教科書をランドセルに仕舞うと涙を溜めて小走りに帰って行って仕舞った。
「何やねん、人が謝っとんのに、あの態度」
そんな不平を漏らす者も居たが、沙梨が一睨みすると直ぐに黙って仕舞った。そこ迄見て都子はランドセルを背負って席を立ち、沙梨の横を擦り抜け様、
「次はその子か?」
と呟いた。沙梨はビクリと戦慄いて、怯えた眼で都子の背中を追ったが、都子は興味無さ気に振り返りもせず、その儘帰って仕舞った。後から佑香が走って追い掛けて来た。
「沙梨もうしないってよ」
「さよか」
都子はそんなことより、自分の変な能力のことばかり考えていた。何を如何したのか余り思い出せない。気付いたらあの変な領域に入っていたし、気付いたら出ていた。背景の色を変えたのも、沙梨に怖い思いをさせたのも、一切自覚が無いので、真実自分がしたことなのかも自信がない。
「あれ何やったんやろなぁ」
「ホンマや。あれなんやったん」
独り言に返事が返って来たので、都子は吃驚して横を見た。左隣に佑香が居た。
「うわぁびっくりした。なんや、何時からおってん」
「なんそれ、ひっど!」
佑香がグーで都子の肩を押して来た。
「ゴメンゴメン、え、そんで何時からおってん?」
「沙梨もうしないってよって、云うたやん! ほんで、さよかって返事、したやん!」
「あぁん? ほんまに?」
「ちょお、都子非道すぎひん!」
今度はぽかぽかと叩いて来た。
「わあ、ごめん、ごめんて」
きゃあきゃあと巫山戯合いながら歩道を歩いていたら、前から結構なスピードで自転車が迫って来た。ちりんちりんとベルが鳴るが、二人が気付くのは大分遅かった。駄目だ、ぶつかる、と思った時、世界が止まった。
「はっ?」
都子は周りを確認する。何だか空気が薄い気がする。体が上手く動かせない。目だけ動かして横を見ると、佑香が止まっている。物凄い勢いで考えるが、如何も息が苦しい。吸っているのに吸えていない感じ。
――空気が固まっとぉ
そこに気付いた時、急に息が楽になった。顔も動かせる様になっている。然し相変わらず手足が動かない。何と云うか、金型にでも嵌められたかの様に、前後左右何方にも動かない。これも空気が固まっている所為か。そして気付くと同時に、手足が自由になった。
「なんやねんこれ……」
ぜえぜえと息をしながら、改めて周囲を確認する。自転車が中途半端な状態でぴたりと止まっている。乗っている人物は吃驚した様な怖がっている様な、もの凄い表情で固まっている。隣の佑香は両手を顔の前に翳して目を瞑っている。
「これは若しかして、時間が止まっているっちゅうことなんか……」
佑香の方へ近付こうとして、見えない壁にぶつかった。
「ここの空気は固まった儘……」
両手でぐぅと押しながら空気の壁を押し遣る。
「時間が止まるっちゅうことは、空気も止まるんか。止まっとぉから動けんし、息も出来ん……今動けて息出来とるっちゅうことは、その範囲だけは時間が動いとるっちゅうこと……」
再び物凄い勢いで考える。都子は元々考えることが好きだ。考え過ぎて周りを置き去りにして、結局孤立する。だから未だに友人と呼べるような者が佑香しか居ない。本人は全く気にしていないのだが。
「佑香」
その友人の名を呼びながら、肩に手を置いた。
「ひゃああ!」
佑香が手で顔を護る様にしながら蹲みこんだ。
「佑香。だいじょぶ」
「へっ?」
「時間止まった」
「は? なに?」
佑香がうっすら眼を開けて、都子を見上げる。そして周りをきょろきょろと見渡して、再び都子を見る。
「何この状況……え、これも都子?」
「判らんねん。兎に角止まっとん。佑香も最前迄止まっとった」
「うそやん。じゃあなんで今動いとん」
「動いて欲しかったから、かなぁ」
「やっぱ、都子なん?」
「――かなぁ」
「何でそこの自覚無いんよ! てか、これ何時まで止まっとる? この儘あたしらお婆ちゃんなんの?」
「大袈裟やねん」
「いやいや、止まった儘ならそうなるやん」
「二人だけでそんな長生きでけるかなぁ」
「やだ、怖いこと云わんと」
そんなことを云い合いながらも、二人は自転車の正面から横へと移動した。
「自転車避けたから、もう動かしてえゝのんちゃう」
「どうやって」
「知らんわ」
都子は右手を腰に回し、左手を口元に宛がって、一所懸命に考えていた。
「てか都子、あたしのこと動かしてくれたやんな」
「そやなぁ。周りの空気とかも動かせたけど」
「空気?」
「時間止まったら空気も止まんねん。で、空気動かんと、体も動かせんし、息もでけへんねん」
「なんそれ。こっわ」
「空気もほんの周りしか動かしてないから、その内酸素無くなって死ぬか解らんなぁ」
「ちょ、やめてや、もっとたくさん空気頂戴!」
「そやねぇ……」
都子は腕組みした儘、空を見上げた。雀が空の一点にぴたりと貼り付いている。
「一個一個しとっても、地球全体とか、宇宙全体とか、無理やからなぁ」
「スケールでか!」
「いや、だってそうやん。うちらだけ動いても、地球動かんかったらずっと昼やし、ずっと夏や」
「夏好きやで」
「そう云うこととちゃうやん」
「まあな」
都子は「うーん」と暫く考えて、
「そうか……時間が止まっとる云うより、うちらがもんすご速ぅ動いとぉだけなんかな……」
「なに?」
「周りをどうこうでなくて、うちら自身をどうにかしなかんねん」
「何や解らんけど、じゃあ、それで」
「てけとーに同意しんとってよ」
「だって、わからんもん」
「使えん友やなぁ」
「うっさいわ。あたしは魔法使いの友達でけて、楽しいわ」
「魔法使いなんか」
「ちゃうのん?」
「んー、解らん」
そして再び考え込んで、何かぶつぶつと云っている内に、横にいた自転車が急に走り出して、数米先で停止した。
「あ、これでえゝんや」
「やった、動いた!」
自転車を漕いでた者は一瞬こちらを振り返り、不思議な顔をしてまた走り出して行って仕舞った。
「佑香ゴメン、ちょっと試さして」
そしてまた世界が止まった。
「いや、なにしとん!」
「はぁん……なるほどなぁ……」
そしてまた動き出す。
「ちょっと、遊ばんとってよ、つかあたしを巻き込まんとって!」
「あかん? 楽しいかなー思っとんけど」
「いや、楽しくはあるけど、鳥渡今やないかな」
「何やめんどいなぁ」
「めんどい云うなぁ! つか、他人見てないところでしてや」
「なんそれ。やらしい」
「やらしない!」
佑香は真っ赤になって、都子はけらけらと笑った。
「だって、なんか、他人に見つかったら厭やん」
「なんで?」
「なんでって……都子厭やないの?」
「解らん。何が嫌?」
「大騒ぎンなって、テレビとか来て、大学の博士とか来て、都子解剖されたりするやん」
「するかいや」
「するやろ!」
何だか莫迦々々しいと思ったが、佑香が存外に真剣な目で訴えて来るので、まあそんなこともあるのかなぁと云う気になって来る。
「ん、まあ、わかった。他人の居ないところでこっそり遊ぼ」
「なんか云い方やらしい」
「やっぱ、やらしいやん」
「ちがーう!」
結局都子は、佑香を揶揄って遊んでいるのだ。都子はにやにや笑いながら佑香の手を引き、自分の家迄連れて来た。
「ちょぉ待ってぇや、一回帰らな、お母んにシバかれる」
「そうなん? めんど」
「しゃあないやん。ランドセル持って遊び行くな云われとんねん」
「真面目子やな」
「そやで、知らん?」
「全然知らん」
「ひどっ!」
なんだかんだ、佑香は一度家に帰り、ランドセルを置いて走って戻って来た。走って数秒の近さなのだ。
「ほな、都子、やらしい遊びしよか!」
「そんなん嫌や。うち恥ずかしがりやん」
「はぁ!? なに云うとん! 初耳!」
佑香を子供部屋に上げると、台所へ行って麦茶を入れて持って来た。客が来たら何時もそうしている。変なところで律儀なのだ。
「ああ、もぉ、そんなんよろしいのにぃ」
「いやいやお構いでけまへんでぇ」
大人達の真似ごとを一頻りした後、二人で麦茶を一気に飲み干した。
「ぶはぁ! 都子、もう一杯!」
「おー、えゝ飲みっぷりやなぁ」
「お前もな!」
「二杯目からは三千円になりますぅ」
「クソたっか!」
それでも都子は二杯目を入れて来た。勿論金なんか取らない。流石に二杯目は一気飲みなどせず、飲み掛けのコップを座卓の上に置いた。
「さて、覚悟はえゝか」
「えっ、何の?」
キョトンとした顔の佑香が、部屋から消えた。佑香の居た辺りにはぼんやりと人の気配が残っている。然しそれも、数秒で消えた。
「ほぉ」
都子が納得した様に頷くと、佑香が戻って来た。なんだか物凄く泣きそうな顔になっている。
「みっ……みやこ、いきなり何すん! 何なん今の! めっさ怖かったやん! 心細かったやん! 悲しかったやん!」
「あ、そんな感じか」
「都子!」
「いや、傍から如何な風に見えるんかなぁ思て。なるほどなぁ。ほならうちら、昼休みに机ごと消えとってんな」
「ええ?」
「見とき」
今度は都子が消えた。消えた辺りにぼんやり気配が漂っていたが、数秒で何もなくなって仕舞った。
「みっ……みやこ?」
次の瞬間、佑香は背中を押された様な気がして振り返ると、そこには都子が立っていた。
「えっ、今……え、何でこっち?」
「ほー。そうか。こうなるんや」
「なに?」
「ワープやん」
「へ」
都子は右手を胴に回し、左手を口元に持って行って、考え込んで仕舞った。
「解る様に云うてよぉ」
佑香が苦情を口にするが、都子には聞こえていない様だった。物凄い勢いで考えている。
「――てことは、やな」
何やら呟きながら、押し入れを開けると、潮の香りがプンとした。佑香が何事かと覗き込むと、海があった。
「えーっ! なっ、なんで!?」
佑香が口をあんぐりと開けて固まっている。都子が振り返ってその様を見ると、にたりと笑って、
「直ぐそこの海や。落ちんように気を付けや」
尼崎の海は工場だらけだ。浜なんてものは殆ど無く、堤防だの突堤だのテトラポッドだの、コンクリートの岸壁の下は直ぐ海だったりする。この押入の中もそんな海だった。
「ワープでけるなら、こんなんもでけるかなーて、思って遣ってみとぉ」
「な、何云うとんか解らん」
「ワープてのはな、二つの離れた場所を、くっつけることやってのは、オーケー?」
「なに云うとんか、解らん」
「んー、どう云うたらえゝのか……せやからな、先刻うち独りで消えた時あるやろ、あん時な、その変な世界で、鳥渡思い付きで試してみとぉ」
「何を」
「そっちとこっち、重ねられそうやって」
「何云うとんか解らん」
「だぁもぉ、頭悪いな!」
「悪かったな!」
佑香は決して頭の悪い子ではない。この場合都子の説明が下手なのだ。ここから数十分掛けて、落書き帳等使いながら説明し、最終的には何とか佑香も理解することが出来た。
「つまり二つの地点の距離をゼロに出来るなら、押入れと海も繋げられるってこと?」
「それ!」
「都子の説明、疲れたわ」
「伝わった様で何よりや!」
その時、台所に居た母親が部屋に入って来た。
「都子、佑香ちゃん、お菓子あんで。食べ」
机に煎餅を盛ったボウルを置きながら、
「何やこの部屋、めっさ潮臭い」
と云って押入れの方を振り返った。
「あっ!」
佑香は慌てたが、都子は気にも留めず、煎餅を一枚取った。
「うわ、何やこれ」
母親は暫く固まっていたが、やおら都子に向き直り、
「都子か」
「ん? ああ、煎餅ありがと」
「そやなくて。この海!」
「ああ、なんかでけた」
母親は片手で顔を覆うと、「あちゃあ」と云った。
「都子に出たかぁ」
「何が」
佑香はこの母親の反応が不思議だった。丸で、想定していたかの様な。
「取り敢えず戻し」
「はい」
母親に云われた通り、都子は押入を元通りにした。潮の香りはしなくなった。
「そこ座り」
母親は床に腰を落としながら、机の向かい側に座るよう都子に求めた。都子と佑香が並んで座ると、母は話し始めた。
「あんたの婆ちゃんも、同じ様な能力持っとってん。その所為で色々苦労しとってんけどな……あんた、何がでける?」
「ええ、説明難しな。えゝと、変な世界に行ける。時間止めれる。ワープでける」
「すご」
「お母もでけるん?」
「お母はでけへん」
「そおなんや……」
「それな、学校で使いなよ」
使いな、は、使うな、の関西弁である。「な」で音が下がる。
「なんで?」
「なんでて、あんたにそんな能力あるて皆に知れたら、あんたアテにされ捲るで」
「何やそれは」
「遅刻気味な子は家と学校繋げてって云うやろし、忘れもんした子は今すぐ家の部屋にワープさしてって云うやろし、成績微妙な子はテストの時に時間止めてって云うやろし、先生は修学旅行のバス電車キャンセルして、移動よろしくって云うやろし……」
「そぉれは大袈裟すぎひん?」
「人の欲望舐めたらあかんよ」
「マジで」
「マジやで。せやから、誰にも知られたらあかん」
「けど佑香と……」
「佑香ちゃんはしゃあないわ。秘密にしたってな?」
「あ、はい、もちろん、です」
「て、ちょい待ち、あんた今、佑香『と』て云うた?」
「あ」佑香が両手を口元へ当てる。
「せやから、えゝと、あれ、名前忘れた」
「何やそれ」母は右肩をカクンと落としてずっこけた。
「沙梨や。小母ちゃん、クラスのいじめっ子やった沙梨が、都子の変な世界で酷い目遭うてます」
「なになに、あんた一体、何した?」
都子と佑香は、昼休みに起きたことを交互に説明した。都子の説明は解り難かったが、佑香の説明で略状況は伝えられた。
「あちゃあ、あんた何、正義の味方しとんねん」
「そんなんちゃうわ」
「わかっとう。わかっとうねんで。せやけど結果、正義の味方なってもうとるやん。――その、サリちゃんか? その子の口、止められへんかなあ。もう喋ってもうとるかなあ」
「あー、どうかな。大分怯えとったし、都子のこと怖がっとおなら、誰にも話してないかも」
「そうやとえゝな」そう云いながら母親は立ち上がり、「ちょっと色々手回してみるわ。さりちゃんの、苗字わかる?」
「知らん」
「都子に訊いてない!」
「えっと……薬師院かな」
「佑香ちゃん、ありがと!」
母親は部屋を出て行くと、スマホであちこちにメッセージを飛ばしたり、電話を掛けたりし始めた。
「なんや、大事になってもぉたなあ」
「あんたが呑気過ぎるからやん」
「云うて、そんな色々頼まれたって、一個もしてやる義理無いけどな」
「そうも云うてられんくなるやん?」
「なんで?」
「なんでて……ほら、人の欲望舐めんなて、小母ちゃん云うとったし」
「何やわからんなあ」
「一周回って凄い思うわ、あんたのその呑気」
「いざとなったら、時間止めてその隙に逃げるわ」
「あんた……」佑香はクククッと堪えた様な笑い方をしていたが、抑え切れなくなって結局ゲラゲラ笑いながら、「あんた、最高や! もお、あんたについてくよ!」
「来んなや鬱陶しい」
「もお、あんた最高!」
佑香は都子の背中をバシバシ叩きながら、猶も笑い転げていたら、ドアが開いて母親が戻って来た。
「そんな単純なもんとちゃうからな」
如何やら会話が聞こえていた様で、真面目な顔して凄んだ。
「あんたら、目の色変えた人間舐めたらあかんよ。そんな一回二回逃げ果せた所で、奴ら諦めると思いなや」
「ええ、めんど」
「そんなんで済むなら、婆ちゃんかて苦労しぃひんかったわ」
「うんまあ、わかったよ。ひた隠す」
「そうしとき――そんでな、その、薬師院さん」
「誰?」
都子の問いに母親と佑香は一回顔を見合わせてから、揃って都子に視線を向けた。
「何聞いとってん、沙梨の苗字や!」
「あんたはほんま、興味ないことはとことん覚えんなぁ。そんでもな、その薬師院さん、大体如何な子か掴んだし、自家に連れてきて欲しいねんやんか」
「はあ? 知らんよ」
「知らんよ、やなくて。連れて来なさい。お話するから」
「いらんて」
「あんたが要らんくても、母さんが用事あんねん」
「えぇ、もぉ、めんどい。そんな知らんし。話さんし」
「大層なことしといて何云うねん。罪滅ぼしや思ぅて連れてきぃや。佑香ちゃんも、もし出来れば、協力したって」
「します、協力。都子が解剖されたら厭やし」
「解剖?」
「うち解剖されるんやと、どこぞの大学教授かなんかに見付かったら」
「解剖なぁ……うんまあ何でもえゝから。よろしくな、佑香ちゃん」
「はい!」
都子は深い溜め息を吐いた。そんな友人の肩を、佑香はぽんぽんと叩く。
「まあしょうないやん。ここが踏ん張りどころや」
「だる」
「みんなにバレたらこんなもんでは済まんかもやで」
「そうか――まあ、そうかもなあ」
最終的には都子も納得し、佑香は自宅へ帰って行った。その後母は都子の能力の話をしなくなり、姉や父が帰って来てもその話題には一切触れなかった。都子はなんだか疲れて仕舞って、自らその話題に触れようとはしなかったが、母が黙っている理由迄は考えが及ばなかった。
次の日学校に行ったら、佑香が沙梨と話していた。都子が教室に入ると、沙梨が怯えた様に首を竦め、佑香がにっこり笑いながら駆け寄って来た。
「今沙梨に話すところやん。一緒に云うて」
「何を」
「何をってあんた、昨日話したやろ!」
「あぁもぉ、冗談やん。解っとぉ」
都子が視線を遣ると、沙梨はびくりと体を強張らせた。
「ちょお、何でそんなびくついとんねん。丸でうちが悪者みたいやん」
「今んところそうかも知らんな」
佑香の言葉は都子には心外だった様だ。
「なんでなん、こんな心優しい美少女やのに」
「誰が美少女か!」
「あは」
都子は少し笑って、ランドセルを自席に置くと、教科書ノート筆箱等を机に移し始めた。
「そんなん後にして、話しようや」
「もお、佑香してくれとったらえゝのに」
「自分のことやん、ちゃんとしよ」
「あ、あの……」
二人の掛け合いが止まらないので、沙梨が恐る恐る声を掛けて来た。
「せやから、かったいねん。何怖がっとん」
「そらな」
「いや訳解らん。ほんま人畜無害やのに」
「話進まんからそこは取り敢えず置いとこか」
「はぁ?」
「沙梨困ってるから」
「あゝもぉ、めんどいなぁ。君、今日自家来ぃや」
「えっ!」
突然都子が沙梨に向って想定外のことを云うので、沙梨は眼を見開いて一歩後退った。
「都子、唐突!」
「えゝやん。なんや知らんけど、今日自家おいでな。そんではそぉゆうことで」
「え、えっ……ひっ、平野さん?」
「その呼び方こそばいし、やめて! 今迄通り佑香でえゝやん。あたしのことまで怖がらんといてよ!」
「ごっ、ごめんなさい……佑香さん、あの……」
「もぉ勘弁してぇ! 都子の所為やで!」
「はぁ?」
「なんかもぉ、その辺も含めて、今日放課後都子ン家おいでや。あたしも行くし。怖いことなんか無いからな」
「あ……う……うん……はい」
「じゃあそう云うことで!」
結局佑香も、都子と同じ様な締め方をして、沙梨は中途半端に放逐された。
その日一日、沙梨はずっと様子が奇怪しかった。取り巻き達が話し掛けても上の空で、都子の席の方には頑なに視線を向けない。そんな沙梨を都子はずっと、興味深気に観察していた。こんな変な奴、自家に呼んで如何するのだろうと、母の思惑が不可解で仕方なかった。
「そう云えば、昨日うちの顔の下に教科書突っ込んだん、結局誰なん?」
昼休み、都子の席迄遊びに来た佑香に、特に脈絡なく訊いてみる。
「何や都子、そんなんも気付いとらんかったんか」
「何や、佑香知っとるんか」
「え、期待して訊いたんちゃうん」
「独り言やってんけど」
「けったいな独り言やな」
「で、誰なん」
「あたしや」
「はあ? 何で」
「何やろな。都子に止めて貰いたかったんちゃう」
「意味解らん。止めたきゃ勝手に止めや」
「それが、むつかしいねん」
「何がよ」
「まあなんちゅうか、上手く云われへんけど……何や色々辛なって来て、知らん内に都子の顔ン下に入れとったわ」
「めんどい子やの」
「云いなや」
何となく佑香のトーンが低いので、都子はこの話題を止めた。その時佑香の背後、都子の視線の先に、小夜子が立った。ストレートの黒髪を首の後ろで纏めた、眼がくりくりとして背の低い、どこか小動物を彷彿とさせる子である。
「あの……」
佑香がぎくりとして振り向き、瞬間躊躇した後、小夜子に抱き着いた。
「ごめん! ごめんね本統に!」
小夜子の表情が恐怖で引き攣っていた。都子は溜息を吐くと、
「佑香。放したり」
佑香はそっと小夜子から離れた。
「ごめんなさい、吃驚したね。でもあたし……」
「小夜ちゃんうちに用事やろ? どないしたん」
都子が何時になく優しい声音で問い掛ける。
「教科書……山田センセと一緒に綺麗にしてくれたって……ありがとう」
「何やそんなことか。それ別に小夜ちゃんの為やないよ」
「え」
「教科書可哀想やったからな」
「あ……そうなんや……」
なんとなく小夜子の目付きが落胆の色を帯びる。都子は凝然と小夜子を見詰めている。この子の見た目に騙されたら不可ない、何故かそんな風に感じた。
「小夜ちゃん」佑香が先程より稍落ち着いて、声を掛ける。
「都子はヘンコやから、こんなん云いよるけど、でもほんまは優しい子やから。あたしと違って……」
「佑香はいつまで引き摺んねん。そんなやから小夜ちゃんも接し方に困るやんか」
「あの……ありがと。平野さんが、天現寺さんに教科書渡してくれたおかげやから……」
佑香を見詰める小夜子の眼は、また最初の怯えた感じに戻っていた。
「聞いとったんけ。うんまあ、褒められたことはしとらんし、感謝されることも何もしとらんねんけど……」
都子は小夜子から目を離して、天井を見上げた。
「もぉえゝやん。めんどくさい」
「都子の基準はいつもそこやな。めんどくさいて」
「他に何があんねん」
「えゝよもぅ。それで救われとぉとこもあるし……」
小夜子は二人に対してぺこりと頭を下げると、去って行った。
「なんか胸がチクチク痛いわ」
「知らんわもぉ」
「都子の人でなし」
「なんでよ。まあえゝけど」
そうして都子は机に突っ伏して、寝息を立て始めた。佑香は複雑な表情で、都子の旋毛の辺りを凝と見詰めていた。
放課後、沙梨が教室の隅で所在無さげにしていた。都子を待っている様で、然し都子の方は見ない様にしているので、なんだか非常に不審である。
「沙梨。都子の家判らんやんな」
帰り支度の済んだ佑香が声を掛ける。沙梨はぎこちなく首肯いた。
「都子は何をもたついとんねん……みやこぉ!」
佑香は大声で都子の名を呼びながら、その方へと向かった。
「あぁ、今行く。何や気が重いなぁ」
「一番気が重いんは、あんたやないで」
「んー?」
都子をせっつき、ランドセルを背負わせると、手を引いて沙梨の元迄連れて来る。
「ほな行こか。寄り道平気?」
「はい……両親どうせ夕方まで帰らんので」
「その堅苦しい喋り方、やめて欲しいなぁ」
「ごめんなさい……」
「沙梨こんなキャラちゃうのに。もぉ、都子の所為や」
「はいはい、うちの所為や。えゝから帰ろ」
帰り道で都子が沙梨に話し掛ける。
「そう云や今日は、君のお仲間あんまり寄り付かんかったな。朝の内だけや」
「あゝ……詰まらんくなったんやと……」
「その様やな。君全然反応したらんから。皆愛想尽かしとぉ様やな」
沙梨はしょんぼりと項垂れた。
「ちょ、都子、沙梨のこと虐めんなや」
「ええ? これいじめか。それはゴメン」
「ううん。えゝの。あたしがしてきたことに較べたら……」
「うわぁ、なんや、皆卑屈ンなってく」
「都子の所為や」
「ええ。そんな訳あるかい」
「あるで」
「堪忍してやぁ」
都子の家迄着くと、佑香は一旦家にランドセル置いて来ると云って、走り去った。そして一分も経たず直ぐに戻って来ると、沙梨を間に挟む格好で三人一緒に玄関へ入った。
「おかーん! ただいま! 例の奴連れて来たで!」
「都子、言葉選びや!」佑香が思わず眉を顰める。
奥からバタバタと母が出て来て、
「あらあら、いらっしゃい! お部屋上がってて。――都子、云い方!」
二人に叱られて、都子はぺろりと舌を出した。
「てへぺろ」
「なんやそれ。使い方合うてるん?」
「知らん」
三人で子供部屋へ通った。適当に床に座ると、母がお茶と煎餅を持って来た。沙梨はここ迄ずっと、固く縮こまっている。
「何や想像しとったより大人しい子やね」
母は麦茶の入った四つのグラスを座卓に置くと、自分の分を一口飲んだ。都子と佑香も一口ずつ飲んだが、沙梨は手を付けなかった。
「小母ちゃん、沙梨が大人しいのは、都子の所為やねんで」
「うわあ、さよか」
母は顔を顰めた。
「沙梨ちゃんな、都子んこと許したってとはよう云わんけどもな……」
「いやっ! そんな、悪いのはあたしなので!」
沙梨が恐縮しまくって、都子を擁護する。母は佑香と顔を見合わせる。都子は詰まらなさそうに天井を見上げている。
「うん、まあ、沙梨ちゃんがしたことも聞いとるけど、それはもう片の付いた話とも聞いとるし、抑々都子や小母ちゃんは当事者ではないので、そのことに就いて兎や角云う筋合は無いねん。せやからこの場では、その件に就いては云いっこ無しで、な」
「……はい」
「まあ兎に角そんな訳で、都子があなたにしたことは、あなたが誰かにしてきたこととは、根本的に無関係やねん。な、そうやろ、都子?」
「あー? つうか、特になんかしたろう思ってした訳では……」
「ほら。な? せやから必要以上に怖がらんでえゝ」
「はぁ……え、でも、そしたら何で」
「都子、なんで?」
「なんでやろなあ。覚えてるんは、兎に角苛ついてたことや。無茶苦茶むしゃくしゃしてたな」
「そうか……沙梨ちゃんあなた、都子の前で何や判然せんことでも云うてたんか。この子な、結論の無い話とか、回り諄い話とか、オチの無い話とかされんの、極端に嫌うねん。他所でしてる分には全く構わんねんけど、自分に向けられるとな」
「はい……とても怒られました……」
「それやん。あんな、この子の能力、見たんやろ?」
沙梨は戸惑いながら顔を上げ、何か云おうとして口を開けた儘、逡巡していた。
「ここでは云うてえゝよ。ここではな」
母は稍凄味を利かせながら云った。
「あっ……あの……お母様はその……」
「知っとおよ。娘のことやもん」
「あたし……もの凄く……こ、怖くて!」
沙梨は涙をポロッと落とした。
「あー、そやろな。都子、あんた謝ったか?」
「え、どやっけ。うち謝った?」
都子は沙梨に訊いた。
「えっ……その……」
沙梨は涙を流した儘戸惑った。佑香が見兼ねて口を挟む。
「答え難い質問しなや。あんたはホンマにもぉ……小母ちゃん、あたしの知る限りでは、謝っとらんです」
「謝り」
母の威圧的な言葉に、都子は素直に従った。
「ゴメンな。怖かったやんな。うちもアレは如何か思たわ」
「他人事みたいに云いな!」
母が叱る。
「謝っとるん? それ」
佑香が突っ込む。
「いやあ、そんでもあれは、酷かったわ。うちもあんなことしたかった訳ではないねんで」
「ゆうて、ピタッと止めたんは都子やん」
「あ、ほんまやな」
「こらあ!」
「いやもお、すんまへん!」
都子は沙梨に、ペコリと頭を下げた。
「あたしは……大丈夫」
沙梨は強がってみせた。涙を拭いて、都子に向き合うと、
「無茶苦茶怖かってん。あの儘地獄に落ちて、二度と生きて帰れないか思た。でも、その原因作ったんはあたしや思う。せやから、あいこで」
「あいこ?」
「苛つかせて、ごめんなさい」
沙梨は頭を下げる。
「これで、貸し借り無し、恨みっこなしの、あいこで。えゝよね?」
「おー。元々恨みなんか無いで」
母と佑香は再び顔を見合わせて、今度は微笑み合った。
「沙梨、よかったな! もう都子、怖ないやろ?」
「え、うん……かな……」
「えー、未だあかん?」
「まあ、あの体験は、後々残りそうやもんなあ。夢とかに見そう」都子が他人事の様に云う。
「まぁたそうやって、あんたは!」
佑香が拳を振り上げて叱り付けるが、沙梨は笑っていた。
「あの世界は怖かったけど、天……都子さんは怖くないんやなって、思った」
「みやこさんって……」
「なー? 痒なるやろ? そんなん全部都子の所為やで」
「ミヤちゃんでえゝやん」
「なんそれ。誰もそんな呼び方しとらん」
「み……ミヤちゃん」
「沙梨も付き合いえゝな! 都子でえゝやん!」
三人でコロコロと笑った。若干沙梨の笑いが未だぎこちなかったが、母は取り敢えず安堵の息を吐いた。
「んでな、沙梨ちゃん。こっからお願いやねんけど」
「はい」
大分自然な返事が返せるようになっている。
「都子のこの変な能力に就いてはな、この四人だけの秘密にしといて。絶対、友達にも、親にも先生にも、誰にも云わんといて。お願い」
「はい、もちろん」
「云うたら、また……」
都子が含みを持たせて言葉を切ると、沙梨の顔が見る見る青ざめて、「云わない! 絶対に!」と殆ど絶叫気味に宣言した。
「こら都子。脅したらあかん」母がきつい表情で注意する。そしてその顔の儘沙梨に向かい、「何しろ約束してな。頼むで」
「はい! や、約束します! 必ず!」
母に対しても、沙梨は若干怯えていた。ヤクザの遣り口や、と、佑香は思ったが口にはしなかった。
約束が取れた所で、沙梨を家に帰した。都子が「ほなね」と送り出すと、沙梨も「ほな、また明日」と応えた。その後母は残った二人を着座させて、悠然見渡した後に、「ご苦労さん。まあ丸く収まったかな。あの子は誰にも喋らんと思うわ」と云った。そして佑香を見て、
「云わずもがなとは思うけど、佑香ちゃんも他言無用で、改めて宜しくな」
佑香に対しては大分柔らかい云い方だった。佑香は一言「勿論です」と応えた。
「で、都子、実はあんたが一番危ない気ぃするねんけど、お姉にもお父にも云うたらあかんよ」
「あ、そうなんや。わかった」
母は若干不安気な顔をしていた。
「家ン中でも使いなよ」
「あい」
「頼んない返事やな……」
それでもその日以降、都子は殆ど人前で能力を使うことはなかった。ほんの数回、学活の時間に担任の先生がいじめに就いて長々と説教をした時、それから級の男子が飛び切り臭い屁を扱いた時等に、都子と佑香と沙梨だけに効く様に、音を消したり臭いを消したりした。後年の佑香が覚えていたのはそちらの方だった。あれだけのことがあったのに忘れたのか、敢えて言及しなかったのかは、定かではないが。