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東京有情  作者: 犬彦
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ササガワ慕情

 カレーライスが好きだ。


 中毒のようにカレーばかり食べているわけではないが、一週間に一度は必ず口にしているし、街でカレーショップを見かけると、つい寄ってしまう。手間暇かけた専門店の一皿が文句なくうまいのは当然だが、一般的な評判があまり高くない立ち食い蕎麦屋や牛丼屋のチープカレー、さらにはコンビニでも手軽に買えるレトルトカレーにも、それなりの味わいがある。


 今までで一番おいしかったカレーは?


 この問いには一片の迷いなくこう答える。


 ササガワのカレーだと。


 二十年以上も前になる。大学を卒業してすぐ、故郷を離れて上京した。取り敢えず安いアパートを借りて、生活費のためにアルバイトを始めた。一旗揚げてやるぞという野心はあったが、どちらかというと不安の方が大きかった。日本の中心、すべてが最先端の東京でうまくやってゆけるだろうか。


 池袋がアパートから最も近い繁華街で、バイト帰りや休日によくふらふらと散策したものだ。カレーショップ『ササガワ』は、東武ホープという池袋駅地下の飲食店街にあった。貧乏アルバイターに専門店の一皿は安くなかったが、何とか手の届く値段だった。


 ササガワカレーの当初の印象は、普通、だった。格別おいしいとは思わなかった。しかし何度か食べている内に、いつの間にか、僕の味覚は絶妙な配合のスパイスによって変わってしまっていた。ササガワカレーの真価は、その後に他のカレーを食べた時にはっきりするのだ。


 コンビニのレトルトカレー、立ち食い蕎麦屋や牛丼屋のカレーを食べてみても、まずくはないのだが、素っ気なく感じてしまう。奮発して有名店の高級カレーを食べてみても、やはり物足りない。ササガワに戻ってきて、いつものカレーライスを食べると、ちょうど良い。これこそが僕の求めていた理想の味だ、とすら思ってしまう。


 気がつけば、僕はササガワカレーの虜になっていた。


 ササガワはレジ係に注文を告げて会計を済ませてから席に着くという、風変わりな先払い方式を採っていた。レジ係を店長自ら務めることがよくあった。


 その店長がなかなか個性的だった。


 まず来客を初めに迎える場となっているレジ前で、茶碗飯を食べ、味噌汁をすすっている。たまにではなく、ほぼ毎回だ。そして口の中で食べ物をモゴモゴさせながら対応する。注文は何? セットならドリンクが付くけど、何がいい? と客に対して敬語を使わない。


 失礼極まりない接客だが、人の慣れとは怖いもので、数回通えば何とも思わなくなった。


 店長が仕事を放棄して、行方不明になったこともあった。


 その時、僕はフロアの中央を悠々と歩いて、店外へ出て行く店長を目撃していた。てっきり食材の買い出しにでも行ったのだろうと思っていた。後から店員が慌てて店内を探し回り、すっかり常連になっていた僕に、店長知りませんか、と訊いてきた。詳しく聞けば、こういうことは時々あるらしい。 僕は呆れたが、同時に妙に安心した気持ちになった。


 僕がササガワに惹かれていたのは、カレーの味だけではなかった。それ以上に、この店に満ちている緩い空気感を愛していた。日本の中心、すべてが最先端の東京でも、このような洗練とは程遠い店が存在している。ひょっとして東京でも、成功のハードルは意外と高くないんじゃないか。自分をそこまで追い込まなくても、ちょっと位いい加減でも、案外何とかなるんじゃないか。そのような甘い期待をこのカレーショップは抱かせてくれた。


 ササガワが閉店して何年になるのか、もう覚えていない。


 突然店がなくなり、別の店に変わっていた、というのが僕の印象だった。


 なぜ閉店したのか、詳しい事情は知らないが、想像するのは難しくない。あの店長にまともなショップ運営ができていたとはとても思えない。どれほど東武ホープの責任者が寛容だったとしても、いつまでも我慢するのは困難だろう。


 僕の中からササガワカレーの味の記憶が薄れつつあるが、あの店長のとぼけた顔はよく覚えている。きっと東京のどこかで別のカレー店をやっているのだろう、と勝手に信じている。東京に対する甘い期待を、未だに捨てられないだけなのかもしれない。

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