第九話 船の死か、日本の終りの始りか
調べきれなかった部分の船の描写は相変わらず想像に頼っています。ご容赦ください。
日本標準時9月8日、22時3分。
日本の子供の大半が寝静まり、多くの労働者が帰宅しているであろうこの時も、台風16号は静まることなくさらに勢力を増強させる。
直径の拡大はほとんど抑えられていたが、ただでさえ猛烈な暴風雨はさらに凶暴化し、大地と海原を十数時間も叩きのめした。
9分前に、最大風速は150mを超えた。
一度壊滅の憂き目に遭ったフィリピン東部には、再び大雨と大風が襲いかかり始めた。今まで何とか持ち堪えていた家や木々は、今度こそ根元から抜き取られ、降りしきる雨に殴られながら、どこかへと吹き飛ばされていった。
そして、この怪物の下に、パシフィック・エレガンスはあった。
衝突から45分。この巨人は前進しながらも、徐々にその体を海面下に沈めつつある。
前方のエンジンが浸水し、バウスラスターが制御不能となり、発電機が壊れ、電力が不安定となる。
傾斜はますます深刻となり、客室にまで水が入り始めた。
もはや、沈む前にサンボアンガに辿り着くことはできないだろう。
そう判断した船長は、船を坐礁させる指示を出した。沈没するくらいならば陸に乗り上げたほうが良い。
パシフィック・エレガンスは舵を右に向け、10kmほど向こうにある小島に向かうこととなった。
しかし、巨船はつくづく不幸であった。
小島へと航行し始めた途端に、逆風が吹き始めたのである。
その速さ、秒速20m。
出力が低下しているところにこの強風が吹きつける様は、まさに踏んだり蹴ったりであった。
船は遅々として進まず、その間にも船首はどんどん浸水し、沈んでいく。荒れる波が、舳先を洗う。
部屋のベッドが、カーペットが、椅子が、そこに来るはずのない海水によって水浸しにされていく。
23時になる頃には、パシフィック・エレガンスは前へ9度、右へ10度も傾斜していた。速度は5ノットが精々であった。
坐礁すら、この船舶には許されない。
船長はとうとう退船命令を出すことを決断した。
「こちら、パシフィック・エレガンス号の船長です。本船はただいま、右舷への傾斜が10度を超えております。沈没の前に陸に辿り着くのは不可能であると判断せざるを得ません。……よって、これより救命ボートの使用を始めます。乗客の皆様は、速やかに右舷側の4階デッキに集合して下さい。よろしくお願い申し上げます」
船長はできる限り平静を保った声で、乗客にこう呼びかけた。だが、彼の声には、かすかな悔恨の情が聞いて取れた。
しばらくすると、オレンジ色の救命胴衣を着けた乗客が次々とデッキに押し寄せ始めた。彼らのほとんどは、一度も沈没事故に遭ったことがない。それゆえ、表情は不安に満ちていた。
デッキには秒速21mの強風が吹いており、風に逆らって歩くことはできなかった。乗客と乗組員の命を救う救命ボートは、風に煽られて左右へ振り子のように揺れ続けている。
左舷側のボートは、傾角の増大によって舷に触れており、もはや下ろすことは不可能であった。荒れた波は、巨船を絶えず揺らし続けた。
鼓動速い乗客に対して、船員が呼びかける。――降り続ける雨で、体中が濡れている。
「皆様、これから救命ボートについて説明いたします。まず、指定された場所に――」
乗客は、船員の言葉によく耳を傾けていた。
説明が進むうちにも、船の浸水は止まらない。
水密扉のいくつかは未だに閉め切られていなかった。自動閉扉装置の不具合のためである。これは事前に判明していたが、杜撰な経営体制ゆえ無視されてしまっていた。
しかも、舷窓の一部は、客により開け放されたままであった。
船首部に降りかかる時化は、勢いそのままに船内へと流れ込んでいった。
既に4割の水密区画が食い破られたこの船の運命は、もう決まっていたのである。
説明が終わると、乗客はぞろぞろと救命ボートに乗り始めた。一人一人が乗艇する度に、ボートを吊り下げるロープが小刻みに震動する。
「ボートこわいよ……」と一人の女児がか細い声で呟く。彼女の手は、保護者と思しき女性の腕を強く握りしめている。
眼下には轟音を立てる海がただ広がるのみである。船体の傾斜で、波の音はずいぶん近くから鳴っているように聞こえた。
「うわっ!」
乗る途中、音を上げながら押し寄せる風に姿勢を崩される人も多くいた。何かに摑まっていなければ、立っていることすら難しい。
部屋の外にいる小さい子供ならば、なおさらのこと。時折いっそう強い風が吹くと、そういった哀れな子供たちは飛ばされまいと必死に親の手を握り、死に恐怖して泣き叫ぶしかなかった。
絶海の中に、大自然の脅威に直面した人々の悲鳴がこだました。
不運にも強くなっていく風雨のせいで、船からの避難は遅々として進まない。
最初の救命ボートが下される頃には、舳先が海面下に没そうとしていた。
避難活動が行われている中で、船内では取り残された乗客を数十人の船員が捜索していた。
懐中電灯を持って、人がいなくなったレストランを、バーを、ロビーを、客室を駆け回り、人の姿を捜す。
碌に船内の構造も知らないで事故に遭ってしまった人々は、弾む心臓を抑えて船内地図を見ながら、4階デッキを目指す。船は傾斜しており、歩きにくい。
乗務員の誘導はあったが、それでも残った人々はいるだろう。
田丸富弥も、この任務を負った船員の一人である。制服を着こなした彼は、電灯片手に客室の廊下を早歩きで進む。
「誰かいますかー! 誰かいますかーっ!」と声を上げる彼の体からは、汗が噴き出している。
彼が今いるのは船の前方。ならば、水がもうすぐ来るだろう。一刻も早く、乗客を助け出さなければ。彼の使命感が躍る。
その時。
「はい! 助けて下さい!」
彼は、はじめて救いを求める声を聞いた。下から聞こえる声に、田丸は「大丈夫ですか!?」と叫びながら、声が発せられた方へと走っていく。
5秒ほど駆けていると、9歳くらいの子を連れた親子を見つけた。皆、焦燥に駆られているのか、目が少し震えている。
「地図をなくして、デッキの場所が分からなくて…… 助かりました」
「さあ、もう大丈夫です。案内しますので、ついてきてくださいね!」
田丸は笑顔で親子にそう呼びかけると、4階デッキ目指して彼らの誘導を開始した。
もうしばらく経つと、彼らが去った廊下に海水が流れ込み始めた。
――時は経った。
20時20分――1つ目の救命ボートが下ろされてから15分。岩礁に衝突してから、もう1時間以上が経っている。
船首が海に没すると、沈むスピードが一気に速くなり始めた。波が船を這いつくばり、彼女の体を喰らう。
電気で輝く白い船体が、雨と波に洗われながら次々と水面下へと落ちていく。
まだ人が乗りきっていない救命ボートの真下に、闇黒の海が迫る。
2分と経たないうちに、海水は容赦なく慌てふためく人々をボートもろとも呑み込んだ。
傾斜は留まるところを知らずますます増大していき、海水は海面まで下りてきた船のドアや窓からその内部へと踏み込んでいく。
船尾部のスクリューが、羽根から厖大な量の水を落としながら海上に顕現していく。
横殴りの雨はさらに激しくなり、風はいまや暴風となってフィリピン中を疾駆する。
この時、サンボアンガの雨量計は、1時間あたり35mmの雨を記録していた。が、船にいる人々がそれに気づくことはない。
今、自然に殺されようとしている鋼鉄の巨人が、悲鳴を上げるかのように重低音を上げて軋んだ。
船内でも、船の死が近いことを如実に示す現象が起きていた。
人の姿がなくなったレストランに、耳障りな音が響いた。皿が割れる音である。
テーブルやカウンターにある皿やグラスが傾きに耐えきれず滑り落ち、破片と化す。完食されていない料理やワインなどの残飯が、床へと飛び散る。
プールの水が、プールサイドへと溢れ、やがて場外へ流れ出す。
ショップで売られていた品物の数々が、静止摩擦力の限界を超えて落下する。
図書室に置かれている大量の書物が床に落下し、栞紐が挟まれた部分から両開きとなる。
インターネットカフェ内のキーボードやマウスが落ち、椅子が滑ってテーブルに衝突する。
船長や航海士の懸命の努力は、とうに意味をなさなくなった。
もはや、乗客と乗組員が生き残る望みは潰えた。
海は4mに達する大時化。雨は毎時40mm。風は毎秒28m。家の瓦が飛ぶほどの暴風である。
船を発った救命ボートは、まともな操縦もできずに水の塊に降られる。かと思えば、下から込み上げる波により、空中に投げ出される。船舶から離れようにも水の流れには逆らえず、押し戻される。
ボートに乗った人々は、その度にボートのあらゆる箇所に打ち付けられた。
ボートにも乗れずに海に投げ出された者は、さらに悲惨である。
息をしようにも、大波が水の壁となり降りかかるのだ。呼吸を始めれば入るのは空気だけではなく、病原体をふんだんに含んだ海水である。呼吸ができない恐怖に抱かれた人間が、狂乱状態になる時は、そう遠くなかった。
そして、台風16号──海神は、この瀕死の巨船と、それにまとわりつく地虫のような人間たちに対し、大自然の暴虐を解き放った。
黒が支配する大海洋に、怪物の咆哮が響き渡る。
その声は、パシフィック・エレガンスの中央にいる人間にさえ、はっきりと聞き取れた。
「何?」「何何なに! 何だよ‼︎」「おお、神よ……」
台風の絶叫を聞いた諸人は、半ばパニックとなって口々に自らの言葉を発した。
「台風の、叫びなのか…………?」
目の焦点が合っていない男が、豪雨に打たれながらそう呟いた。
彼が独言した、まさにその直後のことであった。
パシフィック・エレガンスから北北西に3kmと466m離れた海上で、それは起こった。
台風を構成する積乱雲の底が、何かに押されるように下へと伸張し始めた。少し遅れて、海面が激しく渦を巻き、海水が天空へと巻き上がる。
瞬きをする間に、二つの渦は触れ合い、融合し、強大な竜巻となった。
漏斗の形をとった竜巻は、数秒後には南南東へと走り出していた。
幅600mを超え、時速34kmで進撃する烈風の化身。それが通過した所にあった海水はことごとく風の流れに巻き込まれ、上空数キロまで打ち上げられていった。周囲にはそうして空を飛んだ海水が、雨と混じって落ち続けた。
何という不幸であろうか、不運であろうか――。
半死半生の鋼鉄、パシフィック・エレガンスは、見事なまでに竜巻の見据える先に位置していたのである。
そして、さらに薄幸なことに、乗客のほとんどはこの猛獣じみた旋風を認識することができないでいた。
当然である。
上からは豪雨、下からは大波、横からは暴風。
地上の地獄の中で、遠くから迫り来る怪物に気づけるはずもなかった。
一瞬輝いた雷光によって人々が竜巻の存在を認めたときには、竜巻はもう船から400mの位置にまで接近していた。
まだ生き残っている船員や乗客は、雨や波とは違う異様な音を聞いた。船に海水が降り注ぐ。
「た……竜巻っ! さっさと逃げねえと!」と誰かが全力の叫びを上げた。
だが、逃げるにはあまりにも遅すぎた。
沈みゆく巨船のブリッジに、破滅の渦が襲い掛かった。
毎秒90mを超える異常な烈風が、船を喰らい尽くす。
ブリッジや客室を護る窓ガラスがことごとく粉砕され、海水が侵入すると共に、猛烈な上昇気流が船内に吹き荒れた。
窓の近くの物品が吹き飛ばされてきた物体に衝突され、歪み、砕け、壊れる。
ブリッジで指揮を執っていた船長と新井航海士は飛んできたガラス片に体中を切り裂かれながら、破竹の勢いで空中を疾走して制御盤に上半身を打ち砕かれ絶命した。
船の外にあるアンテナやレーダー、マストや救急箱などのあらゆる物体は、上へ上へと舞い上がっていく空気の激流に耐え切れず、船体から引きちぎられて海水やガラス片ともども空気中を飛翔した。
僅か数秒で、この巨船は致命傷を負った。窓ガラスが破られたことにより、彼女は船首をぐんぐん沈めながら、凄まじい勢いで右舷から転覆し始めた。
続いて救命ボートに乗った人々や、まだ船で避難を待っていた人々が、奔流の犠牲者となった。
先ほどまでとは比べ物にならないくらいに熾烈な暴風に巻き込まれた全てのボートや人間は、いかなる抵抗も許されずに空中へ吹き飛ばされていく。
秒速数十メートルで空を駆け回る船体の破片は、そうして同じく空に打ち上げられた人々の体を、顔を、容赦なく傷つけていく。人の命を救うべき救命ボートの一隻が、正面から飛ばされてきた女性を吹き飛ばした。
もちろん、幸運なことに破片に当たらなかった人々も生き残ることはできない。
風の渦から外れてしまった人々は声にならない悲鳴を上げながら自由落下を開始し、やがて海面か船かに叩きつけられ、肉片と化してあっけなく人生を終えた。
「傾いてますよ!? 田丸さん!」
「助けて船員さん!」
「はい! 当然で――」
親子と共にボート目指してレストランを進んでいた田丸は、横から滑り込んできたテーブルやイスに押し潰され、一切の身動きを封じられた。
竜巻の進撃は止まらない。
煙突が、ロゴが、柵が、歪曲し、裂け、ついには剥がされる。
下層の機関室で仕事を続けていた機関士たちは、制御機器が大量に付いた壁にぶつかり、十数秒の間に天井へと落下した。
衝撃で発電機が故障しブレーカーが壊れ、船の電力は消滅した。非常用発電設備は既に水没しており、使えなかった。
シャフトを捻じ曲げ、スクリューの羽根をもぎ取った烈風の魔物は、数百メートルを進んだのち、突如進路を反転させた。
僅かに残っていた生存者は、完全な暗闇の中で右往左往するほかなかった。
そうしている間にも、竜巻は再びやってくる。
竜巻の経路は、とにかく執拗であった。
溺れもがく人々やボートを空中に舞い上げ、自由落下運動で海面に激突させる。
一人残らず、竜巻は生存者を掃討した。
体中を蹂躙し尽くされたパシフィック・エレガンスは、船内に残る数十人の人々を乗せたまま、断末魔の叫びを上げて水中へと没した。
岩礁への衝突から、1時間22分49秒後のことであった。
こうして人が消えたフィリピン海に、もう一度、海神の咆哮が響き渡った。
高周波が海面を細かく揺らす。
台風第16号は咆哮を終えると、いよいよ北に聳える島弧――日本に向けて進路を取った。
その前には、幾多の島々が立ちはだかっている。
お読みいただきありがとうございました。次回からはいよいよ、本格的に台風災害が始まります。どうぞお楽しみに。




