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第八話 闇と台風の下で

客船の事情に関しては調べても詳しい情報が見つからなかったので想像で補っています。あらかじめご諒承ください。

 セブに向けてフィリピン海を航行する豪華客船、パシフィック・エレガンス。

 煌々と明かりを灯し、2000人以上の乗客を乗せて、船は速力を上げながら進む。


 空には暗雲が立ち込めており、船は既に台風の下にあった。

 毎秒15メートルの強風、毎時20ミリの雨、そして2mを超える波がパシフィック・エレガンスを襲う。

 しかし、船内でそれらに気が付いていた者は少なかった。あまりに本船が大きいためである。

 これは船員も同様であり、航海士や操舵手などの一部人員を除いては、船が台風に入ったことを身体を以て感じ取ることはできなかった。


 日頃の激務と上層部からの圧力によって船員は皆疲労しており、注意散漫となっている者が続出していた。しかも、雨と波によって周囲の景色を見ることは難しい。目の前は雨と黒で隠されるばかり。



 ――それが、命取りとなった。



 日本標準時2027年9月8日、21時18分。


 ブリッジで見張りをする一等航海士は、雨の降る夜闇に紛れて、正面に何か黒いものが浮かび上がってくるのを認めた。それを見た彼は僅かな時間、直立不動を保つ。

 そして、声を張り上げた。


「前方に岩礁あり! 面舵一杯ッ‼︎」

「は、はい! 面舵一杯!」

 彼は近くにいた操舵手に向かって血相を変えて怒鳴った。目は身体と共に小刻みに震え、手は自ずと拳骨の形となる。

 それとほとんど同時に操舵手はハンドルを急いで左へ回す。彼の手も、一等航海士と同じく震えていた。


 船が進むにつれて、岩礁は灯火に照らされその巨体を見せつけ始めた。黒々とした岩肌。その表面に光る無数の凹凸。

 彼らは固唾を飲み、全身を石のように固めながら、目だけを動かして右へと動いていく岩礁を見つめ続けた。


 しかし、船は大きい。舵が効くまでには、長い時間を要する。


 間に合うか。

 それとも、ぶつかるか。



 その答えは直ぐに判った。

 

 岩礁が右に通り抜けようとしたその瞬間。

 船体に揺れが走った。


「ッ……!」


 喫水下1メートルの船体側面を、岩礁の粗い爪が切り裂いた。

 ギギギと鋼鉄が軋み、唸る重低音が響く。それは、まさに金属の悲鳴。剥がされ、千切られた船の破片が水中に散らばる。

 鋭く突き出た岩肌は、豪華客船の体を容赦なく傷つけた。フィンスタビライザーが、船壁ごと砕かれ、海底へと落ちていく。バウスラスターの羽根が吹き飛んでいく。


 同時に海面上に突き出ていた岩の刃は、窓際の客室を数メートル抉り取った。

「えっ――」

 そこにいた不幸な乗客は瞬く間も無く飛びかかってきた鉄屑と岩に叩き潰され、血に濡れた肉片と化した。




 衝突の衝撃が、船の前方で寝ていた客を叩き起こした。彼らは突然の揺れに恐怖し、戸惑うばかりであった。


 その振動は、船の中央部にあったロビーにも伝わった。


「何だ何だ?」

「揺れたよね?」

「ワインがぁっ!」

 その揺れはテーブルにあった料理の一部を床へと落とし、飲み物を左右へ跳ねさせた。

 天井のシャンデリアも、弧を描いて振れた。


「おっと揺れましたねぇ…… 大波にでも当たったんでしょうか」

 司会者はそれだけ言うと、演奏を再開させた。


 ロビーより後ろにあったレストランやバーでは、揺れは少しだけであり、ほとんどの乗客はそのまま食事などを続けた。



 

 だが、下層は地獄であった。


 大穴を穿たれた船底の倉庫では、凄まじい量の海水が流れ込んできていた。

 毎秒19リットルというとてつもない水の奔流は、もはや押し寄せる壁となって倉庫に置かれていた箱や備品を蹴散らし蹴散らし、船に押し入っていく。

 壁に吹き飛ばされた箱は中身を撒き散らしながら歪み、砕け、天井の蛍光灯はその水圧で割れ、光を失う。

 何ら遠慮せずに流入する水は、絶え間なく船にどしどしと踏み込んでいった。


 偶然船首で作業をしていた乗組員は、この激流の餌食となった。突進する海水に足を取られて転んでしまえば、もう終わりである。

 立ち上がろうとする間にも、水はどんどん倉庫に満ちていく。ようやく彼が体勢を整え、歩き出そうとしたときには、既に水密扉が作動して脱出口を塞いでいた。



 一方、ブリッジでは。


「何があった? 新井」

 初老ながら眼光鋭い船長が新井、一等航海士に訊いた。船長は衝撃で目を覚まし、ブリッジへやってきたのである。


「岩礁に……衝突しました」

 躍る心臓をおさえ、彼はやっとのことで答える。

「そうか」

 船長は表情ひとつ変えない。

「水密扉は閉めたな。避難の必要は?」

 彼は続けて問うた。


「あるかと思われます。おそらく、前方の7個か8個の区画が浸水しています。左舷側からも、乗り上げるような縦揺れを感じました」

 新井の言葉を聞いた船長は、かすかに目を細めた。それが船を捨てる悔恨なのか、あるいは別の感情なのかは分からない。


 しかし、ブリッジからも見える外は、大荒れである。

 下では波が白い泡を立てながら暴れており、上からは傘を差しても濡れるほどの雨が降っている。

 幸いにも風はそれほど強いわけではなさそうだったが、救命ボートが流される可能性はあった。



「近傍に都市があるだろう」

 船長は再び訊問した。

「はい。……東北東にサンボアンガという都市があるようです」

 心中で「なぜそんなことを訊くのか」という疑問を抱きながらも、新井は応えた。


 それから十秒程度、沈黙が場を支配した。


「わかった。本船は針路を変え、東北東に向かう。沈没が深刻となった場合、船を停止してから救命ボートを下ろす。乗客にも伝達せよ。以上」

 急いで駆けつけてきた他の航海士や船員で空間が埋まる中、船長は命じた。


「はいっ!」

 船員は皆一斉に返事をして、それぞれの仕事を始めた。




「こちらは、パシフィック・エレガンス号の船長です。本船は先ほど、岩礁に衝突し、船首に重篤な浸水を生じております。現在、天候は悪化しており、海上で救命ボートを出してもボートが沈没したり、転覆したりする危険があります。そのため、本船は東北東にあるサンボアンガという街に向かい、浸水が深刻となった場合に限って、救命ボートを下ろすことといたしました。乗客の皆様は、救命胴衣をつけた上で、できるだけ4階デッキ周辺に来ていただくようにお願い申し上げます」

 このアナウンスは、放送機器を通して船中に響き渡った。


「ぶつかったのか?」

「波じゃなかったのかよ!」

「沈むのか?」

「でもまだ傾いてないよな」

「どういうことだよ、お前。説明しろや!」

 乗客の多くはこの放送でパニックを起こし、各々自らの臆測や不安を口にし始め、一部は乗組員に突っかかることとなった。


「まだ詳細が分かっておりませんので……」

「どうなるの?」

「マジで沈むの?」

「『分かってません』じゃねえだろうが!」

「皆様、とりあえず落ち着いてください。まずは救命胴衣を!」

 乗組員は、乗客から次々と飛んでくる質問や罵倒の対応で精一杯であった。


「タイタニックじゃあるまいし、沈まないでしょ」

 船長の放送を聞いてなお、沈没の可能性を信じない乗客も多くいた。そういった客の大半は救命胴衣を拒み、食事や会話などの先ほどまで行ってきた行動を再開しようとした。

 彼らには、幾度の沈没事故を教訓にしてきた現代の船が、岩礁にぶつかったくらいで沈むとは思えなかったのである。


 




 その頃、建多はスマートフォンでSNSを開き、タイムラインを眺めていた。画面には、多種多様な呟きが広がっている。


 しばらく呟きを見回った彼は、ニュース欄を開いた。

 そこには、「大型客船が岩礁に衝突 フィリピン」という見出しが躍っていた。


「ふうん」

 しかし、彼はそのニュースにさほど興味を示さなかった。遙か数千km離れた所にある全く知らない船のニュースよりも、台風の情報の方が彼にとっては重要だった。


 建多が独り言を吐いた5秒後には、彼は上にある台風のトレンドをタップしていた。


「【速報】東京都、広域避難情報発令を検討」

「【悲報】台風16号、完全にやばい」

「台風から声みたいなのが聞こえた、らしい」

「人間が自分勝手なことをするからこんなことが起きるんです。反省しないと」

「地球が悲鳴を上げてるんだ」

「何言ってんだ馬鹿。人類ごときが何をしようと地球はビクともしねえよ。アホめ」


 画面に流れてくるつぶやきの濁流を見ながら、建多は寝る向きを変えた。






 一方、船首下層の客室では、既に浸水が始まっていた。

「え? 水漏れ?」

「いや、磯臭いし、海水なんじゃ……」

「どういうことなの?」

 かの放送の後ようやく起きたハネムーン・カップルの一組は、自分たちが居る部屋に水が足首あたりまで溜まっていることに啞然とした。


 その数秒後、ドアの外からノックが聞こえてきた。

「大丈夫ですかー? 返事をして下さーい!」

 声の調子から判断するに、どうやら乗組員らしい。「俺が開けるわ」と言って、男の(ほう)が扉を開けた。


「はい。何です?」

 彼が目の前に立つ女性の乗組員に訊く。

「船が浸水しています。救命胴衣を着けて、すぐ上へあがってください。船長の指示があるまでは、絶対に外には出ないで下さい」

 そういうと、彼女は救命胴衣の位置だけを伝え、さっさと二つ向こうにある客室に向かってしまった。


「マジかよ……世界一周の途中でこれとか、ツイてねえな」


 男が女に話しかけた。

「それな。……ってそんなこと言ってる場合じゃない。早くここを出なきゃ」女は救命胴衣を引っ張り出しながら、彼を急かした。

「そうだな」と男は呼応し、持てるだけの荷物を持って部屋を出る準備を始めた。


 1分ほどで準備は終わり、カップルはオレンジ色の胴衣を身にまとった姿で退室した。



 無人状態となった部屋に、忘れ物のビー玉が落下する音が響いた。







 パシフィック・エレガンスがサンボアンガから53kmの海域にまで近づいた時には、衝突から既に22分が経過していた。

 東北東へと舵を向けたパシフィック・エレガンス号は、9ノットの低速で荒れる夜の海を進む。

 この時点で船は前に4度、右に5度弱傾斜していた。海面近くにあった舷窓の一部は、海中へと没した。懸命な排水作業は、あまりにも入ってくる水が多く、ほぼ功を奏していない。


 機関士たちの必死の努力のおかげで、船の灯りは未だ煌々と照らし上げられており、乗客は視界を確保した状態で船の上部に着くことができた。


 9ノットは時速に直すと17km強であり、サンボアンガまでは短く見積もっても3時間はかかる。現時点で、この巨船は20ノット以上の速さで走ることができるほどの馬力を備えているにもかかわらず、である。

 そこにはある理由があった。


 速度を上げれば、当たり前だが目的地には速く着く。しかし、水圧の上昇によって、より多くの水が入って早々に沈む可能性が高い。走ると、前から風が吹き付けてくるのと同じ道理である。

 ゆえに、この船は遅めに進む選択肢をとらざるを得なかった。ルシタニア号やブリタニック号の轍を踏むわけにはいかない。

 しかし、この速さで進み続ければ、サンボアンガどころか近くの島にさえたどり着けないまま沈むだろう。

 船長や航海士には、このジレンマがあった。







 そして台風16号──海神(ハイシェン)は、自身の下にあるこのちっぽけな船を捉えていた。

 自然の力を以てすれば、船を沈めることなど容易い所業である。

 が、海神はこれ以上パシフィック・エレガンスに接近しようとはなかった。

 あんな小船(・・)にまで肉薄してやらなくとも(・・・・・・・・)、あれはもうじき沈むし、わざわざ陸に近づいて無駄に力を使う必要などない。

 ──そう考えた故なのであろうか。




 台風第16号は季節風に乗り、日本に舵を向けた。

 闇夜に風雨の轟音が騒々しく鳴り響き、大気が打ち震える。

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